エピソードブラス・アマテラス神皇国・戦国無双・萌将伝・新納院・高城の戦いっ!!孤高忠義臣っ!!山田・理安・有信の戦いっ!!23
マギアンティア世界統一暦・1555年・11月20日・午前12時35分頃・マギアンティア世界・中央世界第一文明圏・ユーラシアン大陸東側・アマテラス列島地方・九州島地方・島津家領・南九州地方・日向国・木城地方・木城南部地方・木城高山・島津軍・日向国支城・山田・理安・有信守将拠点城・新納院・高城周辺地域・日向灘沖近海域・キリヤ公国連合国加盟諸国軍・ビクトリナ独立自治共和国統合軍・第二艦隊にて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
10万人もの大軍である九州統一平定南東方面征伐連合国軍に、真っ向から戦いを挑んだ島津・衣恵与・家久が率いる島津家残党軍の3500人と奇襲攻撃を仕掛けた甲斐宗運が率いる甲斐軍との戦いたる新納院・高城の戦いは終わった。
「此方はビクトリナ独立自治共和国統合軍・第二艦隊司令官のミレディ・アルファードですわっ!!」
「先ほど、キリヤ公国連合国中央政府と島津大名王家政府は、マギアンティア世界統一暦・1555年・11月20日・午前12時34分を以って、キリヤ公国連合国中央政府と島津大名王家政府との間に降伏停戦条約の締結が宣言されましたわっ!!」
「由って、現時刻を以ってして、自衛行動以外の如何なる戦闘行為は禁止としますわっ!!」
「各艦隊へ通達っ!!停戦通達礼砲っ!!うちーかーたよーいっ!!
「了解っ!!停戦通達礼砲っ!!うちーかーたよーいっ!!
「停戦通達礼砲っ!!うちーかーたっ!!始めっ!!」
「停戦通達礼砲っ!!うちーかーたっ!!始めっ!!」
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ビクトリナ独立自治共和国統合軍・第二艦隊司令官のミレディの命令によって、停戦を知らせる礼砲が撃ち放たれた。
マギアンティア世界統一暦・1555年・11月20日・午前12時35分頃・マギアンティア世界・中央世界第一文明圏・ユーラシアン大陸東側・アマテラス列島地方・九州島地方・南九州島地方・アマテラス神皇国・キリヤ公国連合国加盟諸国・アマテラス織田自治神皇国制圧国州領・筑後国・柳川城・アマテラス織田自治神皇国所属武将・山名豊国本陣所・柳川城館御殿にて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
島津大名王家国との戦いであるアマテラス神皇国・九州地方平定征伐戦こと、略称名・九州島地方戦役は、キリヤ公国連合国側の戦勝と成ったと言う報せは、キリヤ公国連合国・先進4ヵ地方地域領が生産使用して居る無線通信装置による長距離通信により、各所へと通達が為された。
「殿っ!!申し上げますっ!!」
「勝ったか?」
「はっ!!その通りに御座いますっ!!」
「直ぐに停戦礼砲で、この辺り一帯で睨み合いに似た形で、相対して居る両軍に対して、キリヤ公国連合国の戦勝と島津大名王家国側に停戦を知らせよっ!!」
「はっ!!」と改めて外へと掛けて行く伝令官。
アマテラス織田自治神皇国所属武将・山名豊国は、毛利家と羽柴家の戦に措いて、山名家の領国であった但馬国の失地回復を狙って居たが、毛利家がキリヤ公国連合国へと加盟申請をした為に、但馬国を失ってしまった。
その代わりに、但馬国並みの国土を与えられると和紗から申し渡して来て居た。
しかしながら、やはり先祖代々の土地は離れ難いと考えて居た山名豊国は、アマテラス神皇国・九州地方平定征伐戦に参戦せとよの命令を受けて、これは失地回復の好機と考え、キリヤ公国連合国・先進4ヵ地方地域領と織田家関連の武将たちの心象を良くし、そこそこ手柄を上げると言う企みを遂行する事に、見事に成功を収めて居た。
この柳川城も、その一つで島津軍の武将を追い散らして、陥落させる事に成功をした城であった。
キリヤ公国本国政府も、山名豊国と山名軍の働き、誠に感謝をして居るとの報せと功労賞と言う賞状も送られ、後に報奨も送られる事にも成って居た。
そんな山名軍が挙げた手柄は、12回であり、小国大名王家武将としては、大きな功績と言えるだろう。
そんな活躍をした山名豊国は、柳川城の本丸御殿に在る本陣所で、礼砲を聞いて居た。
「停戦通達礼砲っ!!うちーかーたっ!!始めっ!!」
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
「これで勇治陛下に但馬国をお返し下さいと言える。此処から正念場だ。下手に心象を悪くするような事は避けつつ、如何にして交渉を進めるかがカギである。」
山名豊国は、先祖伝来の領国である但馬国を如何にして、今回手柄を取り引き材料にして、取り戻すのかの思案を巡らすのであった。
後に山名家の当主である山名豊国が、キリヤ公国連合国加盟に加盟前に交わした停戦条約の項目に在った、但馬国と播磨国を分割統治に付いて異議申し立てをする事に成る。
彼は但馬国は先祖代々の土地だからと、如何してもと言う嘆願書を受けた勇治は、毛利家と織田家の二家に対して掛け合い。
キリヤ公国連合国中央政府が領土交換と言う形で治めて居る。
毛利家が代わりに手にしたのは、キリヤ列島のヤマト島地方・ヤマト島地方自治州区の西側地方に在るイズモ地区を支藩王国として譲り受けて居る。
但馬国と同程度の国土を誇り、自然が豊かな土地であるので、土地からの高収入も入って来る為に、毛利家としては、文句の付けようが無い土地を名町奉行たる大岡越前の大岡裁きの如く、三方一両損的な交換をする事で、丸く収める事に成ったのだった。
マギアンティア世界統一暦・1555年・11月20日・午前12時35分頃・マギアンティア世界・中央世界第一文明圏・ユーラシアン大陸東側・アマテラス列島地方・九州島地方・南九州島地方・アマテラス神皇国・薩摩国・鹿児嶋市・鹿児島湾及び大隅諸島近海域にて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「こちら五十鈴。先ほど、キリヤ公国連合国中央政府と島津大名王家政府は、マギアンティア世界統一暦・1555年・11月20日・午前12時34分以って、キリヤ公国連合国中央政府と島津大名王家政府との間に降伏停戦条約の締結が宣言されたわ。」
「由って、キリヤ公国連合国・統合司令官兼海軍提督の名の下に、この海域に集まるキリヤ公国連合国海軍・連合国艦隊に命ずっ!!」
「停戦通達礼砲っ!!うちーかーたっ!!始めっ!!」
「了解っ!!五十鈴総司令官兼海軍提督の名の下に、キリヤ公国連合国海軍・連合国艦隊っ!!停戦通達礼砲っ!!うちーかーたっ!!始めっ!!」と五十鈴の副官である烏柿肇大佐は復唱して叫ぶっ!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!ドドッン!!
この様な光景は、アマテラス神皇国地方・九州島地方の四方で見受けられ、陸海軍による停戦通達礼砲が、各地で発砲された事により、島津大名王家側は降伏と敗戦が決まって戦争が終わった事を知る事に成るであった。
マギアンティア世界統一暦・1555年・11月20日・午前12時35分頃・マギアンティア世界・中央世界第一文明圏・ユーラシアン大陸東側・アマテラス列島地方・九州島地方・島津家領・南九州地方・日向国・木城地方・木城南部地方・木城高山・島津軍・日向国支城・山田・理安・有信守将拠点城・新納院・高城周辺地域・キリヤ公国連合国加盟諸国軍・肥後国・南肥後・人吉市・人吉城主・相良・晴陽・義陽・相良軍陣所にて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ようやく戦争が終わったが、悲しい別れも有った。
「ハァハァハァハァ・・・・・経緯は如何であれ、相良晴広殿の約束を反故にし兼ねない事をした。」
「済まなかったな、二人とも・・・・・ハァハァハァハァ・・・・・・」
「いいえ、ですからっ!!小父さまっ!!」
「小父さん・・・・・」
「ハァハァハァハァ・・・・図々しいとは思うが、ハァハァハァハァ・・・・息子達の事をくれぐれも頼む・・・・・」と言い掛けて、宗運は事切れた。
「小父さまっ!!」
「小父さんっ!!」
「「「父上っ!!」」」
「「うわあああああぁぁぁぁーーーーーーんんっ!!」
甲斐宗運、相良・晴陽・義陽・相良軍陣所にて死したが、戦場での傷が原因である為、彼の名誉を守るべく、戦場での名誉の討ち死にしたと言う事に成り、キリヤ公国連合国中央政府の公式記録として記されて居る。
享年50歳。
葬儀の喪主は、甲斐宗運の子供たちの意向で、看取った相良・晴陽・義陽と妹である相良・頼子・頼房姉妹が、生前の相良晴広の遺言を守り、葬儀の喪主をしてくれた返礼として務める事に成った。