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キリヤ公国英雄戦記物語  作者: 伊達教宗
第1章 少年王とキリヤ公国建国創生記編
14/321

国家設定一覧 その他編 2

アマテラス神皇国地方編



アマテラス神皇国



首都・皇都・平庵京では在るが、大名王家ごとに首都を持って居る為、各地では自分達の中心地が首都であり、皇都・平庵京は将軍王家の首都であるとして居る。 



キリヤ公国の北東600キロ沖にある島国で日本の戦国時代から江戸初期くらいの文化レベル。



 転移神災によるナデシコ地方自治州区の転移の影響で、ナデシコ第二地方地域の出現した事により、元々在った海域から更に北東部海域へと追いやられ、ユーラシアン大陸からかなり離れた島国と成ってしまって居る。


 気候は畿内中心部は四季の在る温暖な地域が広がって居るが、唐太島国・万年島列島地方国・北海島国から成る北方三州地方と奥州地方・北陸地方・山陰地方・近江・信濃・甲斐国・伊賀国・北大和国地方・北関東地方等は雪深く、九州島地方・四国地方・紀伊国地方・東海地方・伊豆国・房総半島地方は、やや暖かい地域で、畿内中心部とはややズレた気候では在るが、住んで暮らして行く分には問題ない気候と成って居る。



 アマテラス神皇国地方では、帝と言う天皇に当たる人物は居ないので、その変わりに各地の大名の中で一番に実力のある者が征夷大将軍王と言う地位を持って治める国。


 現在は第4次内戦の真っ最中で、それまで治めていた足柄幕府が崩壊しつつある様だ。


皇都・平庵京 


 山城国と言う国州に在るアマテラス神皇国の首都で、アマテラス神皇国地方全ての国州地方と大名王家を傘下に収めた将軍王家の首都でもある大都市。


  その場所は山城国の中心地に在って、淀川・鴨川・桂木川等の川が流れる水の都と言われる人口25万人の大都市であるる。


 その街並みは、上京区・下京区・左京区・右京区・中京区の5つつに分かれて居り、昔から治めるのに優れ、戦で攻め入るのに易いが、守るのに向いて居ないとされて居て、負けそうになると、この都を捨てて行く将軍王や武将・姫武将の指導者が多かったと言う。



ブッタ教 ブッタ教寺院


 大華天帝国・クーロンの最南端のブットデリーが発祥の地とされる仏教の様な宗教で、ブッタなる人物が人は皆、死せると南方極楽浄土と言う異界の天国へと行くと解いて居る宗教。


 ブッタ教の神様、通称・仏様を拝む事を推奨して居り、そのお経は、ナンマイダアと唱える。



 大坂ブッタ教本願寺・一向宗 通称名・ブッタ・一向宗

 

 石山大坂ブッタ教本願寺最後の門主・本願寺・顕如。


 摂津国は大坂丘陵地帯に在る石山に寺院を構えるブッタ教 ブッタ教寺院の宗派の一つで、ブッタ・一向宗とも呼ばれて居る。


 ナンマイダアと唱えながら祈りを捧げる事で極楽浄土へと行けると公言しており、それが如何なる状況であっても構わないとされて居る為、それが様々な立場の領主への一揆反乱だったとしても、娯楽浄土へと至るとされて居る。


 そんな理由から、ブッタ・一向宗は、権力者への一揆を平然と行って来ると言う厄介な一面があるので、アマテラス神皇国地方内では、危険思想を持った宗教宗派団体として煙たがられるが、その力は侮り難く。


 ブッタ教の神様、通称・仏様への寄進と言う名の寄付が、全国各地で集められて居るが故に、戦争が簡単に出来る武装宗教組織と成ってしまって居る。



石山大坂ブッタ教本願寺 通称名・石山本願寺


 摂津国は大坂丘陵地帯に在る石山に寺院を構えるブッタ教 ブッタ教寺院の宗派の一つで、ブッタ・一向宗とも呼ばれて居る僧や信者達が崇めて居る寺院の総本山のこと。


 その様相は、寺と言うよりも要塞城と言った方が良いと言われて居り、麓の門前町商店街や大坂湾の港を利用した交易に、寄進と言う寄付が在るお陰様で、大名王家と張り合えるだけの軍事力と経済力を持った一国家とも言うべき力を持って居る厄介な武装宗教組織。



 織田・和紗・信長は、この寺院を数年掛かりで攻め落とし、大坂ブッタ教本願寺・一向宗・第11代門主である本願寺・顕如を降伏させ、石山本願寺を開城させた。


 しかしながら、長男教如が反発していた為、半年間ほど開城が遅れてしまったが、資金と食料不足が鮮明に成って居る事から、渋々本願寺を開城。


 その後は父親である顕如と決別し、和紗は本願寺勢力の分裂と両者の争いが面倒な事に成らない様にするべく、顕如一派と教如一派らに、それぞれ皇都・平庵京に新たな寺院を建てる事に成る事で、喧嘩をさせないようにするのであった。


 これが後のアマテラス西本願寺とアマテラス東本願寺が生まれた主な理由である。

 

 こうして大坂ブッタ教本願寺・一向宗は、准如の西本願寺と教如の東本願寺とに分裂する事に成り、石山本願寺の跡地には、中津国地方・毛利攻めにを命じられた羽柴・陽菜・秀良が新領地の本拠地として整備し、大坂城を建て居る。




将軍王御所殿


 中京区に在る御殿型の城で、代々のアマテラス神皇国の将軍王が全国統一を果たし、政治の中枢として住まう所にして来た御殿。


 金箔張りと黒漆塗り等の技巧で造られた、色彩溢れる建物は、アマテラス神皇国の文化工房造りの極みと言われて居る



 征夷大将軍王


 代々のアマテラス神皇国内で、力在る武士の棟梁が、アマテラス神皇国を統一した際に名乗る王称号の事。


 国ごとに扱い方が違うので、国王または公王、低い扱いが在る場合は侯爵王扱いの場合が在る。


 此れまでのアマテラス神皇国は、最初の内戦であるアマテラス統一戦争を征した田村家による田村将軍王朝を政権を第一将軍王朝を樹立する。


 それから200年後経った世に成ると、田村政権を政略結婚で政権奪取に成功したのが、藤原家が第二将軍王朝を築く。



 それから更に200年経つと、藤原家血筋から成る平家大名王朝と田村家血筋の正統武士王朝から源家大名王朝とが戦う第二次アマテラス内戦である源平合戦を征した第三将軍王朝である源氏鎌倉将軍王朝政権が成立する。



 それから150年が経つと、平家武士王朝家血筋である北条家が鎌倉政権の実権を握り、源一族を傀儡化させた北条執権政治政権を確立するが、ゲルニアン帝国がアマテラス神皇国へと大艦隊を使って大軍を派遣して攻め取ろうとする。


 これをゲル交戦役合戦と言って、アマテラス神皇国は歴史上初めての対外戦争を経験するが、これが原因で北条執権政治政権が没落してしまう。


 その原因は土地を最大の報酬とする恩賞制度の欠陥たる土地不足や軍事費が加算だ事による恩賞の未払いであった。


 それらが気に食わないと考えて居た大名王家の者達は、源氏王朝家血筋であった足柄家と新田家に率いられる形で、北条執権政権を打倒を掲げる太平記戦役が勃発し、北条家を打倒する事に成功する。



 しかしながら、足柄家と新田家の両家による政権争いが勃発し、両家は共に将軍王朝を名乗り、皇都・平庵京を挟んで一五年間に渡る南北将軍王朝戦争をが開戦、これらの内戦状態の事をアマテラス神皇国内では、第三次内戦をとして居る。


 この内戦を征した足柄家は晴れて、正統な将軍王朝を名乗って居る。


 そして現在は、第4次内戦を迎えて居るアマテラス神皇国は、織田家による政権交代・・・・いや、武力統一による中央政権の奪取が見込まれて居る。


アマテラス列島地方



 ローレライ大海洋に浮かぶ4つの島々と周辺の島諸島から成るアマテラス神皇国と呼ばれて居る地域のこと。


 主な島の構成は北海島・本州島・四石島・九州島が本島で、唐太島国・万年島列島地方国・大笠原諸島地域・天城諸島・竜珠諸島りゅうきゅうしょとう対馬島国(対馬島)・大東亜島諸島から成り立って居る。


地域別では以下の通りと成って居る。


北アマテラス神皇国地方・唐太島・万年島列島・北海島国


アマテラス神皇国中央地方・アマテラス本州島・四国島


西アマテラス神皇国地方・九州島・天城諸島・竜珠諸島


アマテラス離島地方・対馬島・壱岐島・大笠原諸島・大塔島諸島・東鳥島諸島


真名


  武士と成った女性が、男らしい名前を下に付ける代わりに、真名と言う女らしい名前を付ける慣習が有る。



瀬戸ノ内海


 アマテラス神皇国地方の西部に在る内海の事で、中津国地方と四国島地方に挟まれた瀬戸内海みたいな海域の事。



アマテラス神皇国地方将軍王朝の歴史に付いて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 此れまでのアマテラス皇国は、最初の内戦であるアマテラス統一戦争を征した田村家による田村将軍王朝を政権を第一将軍王朝を樹立する。


 それから200年後経った世に成ると、田村政権を政略結婚で政権奪取に成功したのが、藤原家が第二将軍王朝を築く。



 それから更に200年経つと、藤原家血筋から成る平家大名王朝と田村家血筋の正統武士王朝から源家大名王朝とが戦う第二次アマテラス内戦である源平合戦を征した第三将軍王朝である源氏鎌倉将軍王朝政権が成立する。



 それから150年が経つと、平家武士王朝家血筋である北条家が鎌倉政権の実権を握り、源一族を傀儡化させた北条執権政治政権を確立するが、ゲルニアン帝国がアマテラス神皇国へと大艦隊を使って大軍を派遣して攻め取ろうとする。


 これをゲル交戦役合戦と言って、アマテラス神皇国は歴史上初めての対外戦争を経験するが、これが原因で北条執権政治政権が没落してしまう。


 その原因は土地を最大の報酬とする恩賞制度の欠陥たる土地不足や軍事費が加算だ事による恩賞の未払いであった。


 それらが気に食わないと考えて居た大名王家の者達は、源氏王朝家血筋であった足柄家と新田家に率いられる形で、北条執権政権を打倒を掲げる太平記戦役が勃発し、北条家を打倒する事に成功する。



 しかしながら、足柄家と新田家の両家による政権争いが勃発し、両家は共に将軍王朝を名乗り、皇都・平庵京を挟んで一五年間に渡る南北将軍王朝戦争をが開戦、これらの内戦状態の事をアマテラス神皇国内では、第三次内戦をとして居る。


 この内戦を征した足柄家は晴れて、正統な将軍王朝を名乗って居る。


 そして現在は、第4次内戦を迎えて居るアマテラス神皇国は、織田家による政権交代・・・・いや、武力統一による中央政権の奪取が見込まれて居る。


第一将軍王朝 田村家


統一成功者・田村・那珂・清麻呂


征した第一次内戦・アマテラス統一戦争


首都所在地・皇都・平庵京 


第二将軍王朝 藤原家


国家を征した政権奪取方法・政略結婚による田村家乗っ取り。


統一成功者 藤原・美知恵・道長


首都所在地・皇都・平庵京 


第三将軍王朝・源家


第二次内戦・源平合戦


統一成功者 源・頼美・頼朝


首都所在地・鎌倉市


副都・皇都・平庵京とし、統一地方行政府・六波羅探題・九州探題・奥州探題・中津探題を設置 


第四将軍王朝・足柄家


征した第三次内戦 太平記戦役・南北将軍王朝戦争


統一成功者 足柄・高子・尊氏


首都所在地・皇都・平庵京 


統一地方行政府・鎌倉府探題・九州探題・奥州探題・中国探題を設置。 


 以上が将軍王朝の歴史である。





斯波義統と斯波家


 アマテラス神皇国・尾張国・清州市・清州城の守護大名王家の事で、足柄室町幕府将軍王朝の末期、アマテラス神皇国足柄幕府将軍王朝一三代目将軍王・足柄・一輝・宗輝の時代。 


 第4次内戦を迎えて居るアマテラス神皇国内の時は、没落をし掛けた状態と成って居り、織田・和紗・信長を不信に思って居た勢力と和紗の母親である織田伊奈も、虚け姫と蔑まれた娘の行動を看過できないと判断し、織田・和紗勢力の排除を目的とした内戦、稲生の戦いを引き起こした。


 斯波義統と斯波家一族らは、織田信秀以来、家老一家・織田家として、斯波家と尾張国の権勢を奪われた状態を取り戻そうと、伊那の画策する和紗を当主候補から廃嫡して、和紗の弟である長男・勘十郎・信勝を時期当主にし、斯波家の権力を返上すると言う暴力に加担する事に成ったが、和紗の手腕の前に、その策略は失敗してしまう。


 その後の斯波義統と斯波家は、歴史の表舞台から姿を消す事に成るが、何所へ行ったのか分からないままだと言う。



アマテラス神皇国地方・尾張国・織田家 (キリヤ公国連合国に加盟以前にて)


織田家本拠地・美濃国・岐阜城(キリヤ公国連合国加盟前時点)




織田家・首都都市・岐阜市(キリヤ公国連合国加盟前時点)



織田家本拠地・安土城 


織田家・首都都市・安土市


旧本拠地・那古野市・清洲市・小牧山市・岐阜市(旧井ノ口市)


旧拠点城地・那古野城・清州城・小牧山城・岐阜城(稲葉山城)


織田家大名王家領国(キリヤ公国連合国加盟前時点)


東海地方・関西東部地域・尾張国・美濃国・伊勢国・志摩国・伊賀国。


北陸地方・越前国・若狭国。


関西地方・近江国・大和国・山城国・紀伊国・河内国・摂津国・和泉国・播磨国・丹波国・丹後国。


四国島地方・淡路国・讃岐国・阿波国・伊予国。



 織田大名王家 通称名・織田家


 アマテラス神皇国の東海地方地域と呼ばれる地方の西側に在る小国、尾張国を治めて居る大名王家。



 元は守護大名王家であった斯波義統の家老一家・織田家だったが、津島市の膨大な税収入を使って、尾張国を一代で支配した尾張国の虎と言われた豪傑にして、織田・和紗・信長の実父である織田信秀の手腕により、斯波家を傀儡政権とし、実質的に尾張国を支配下に置いたのが、後の大名王家である織田家の始まりと言われて居る。 


 10年ほど前に、岡ヶ狭間の戦いで今川義本の軍勢5万6千を僅か3千の兵で打ち破り頭角を現した。


 揖斐川戦い・稲生の戦い・岡ヶ狭間の戦い・美濃平定戦・墨俣城築城作戦・稲葉山攻略作戦・足柄将軍王御所殿の乱・観音寺山城の戦い・箕作城の戦い・山崎の戦い・丹波国・亀山城の戦い・瀬田の戦い・比叡山の戦い・姉川の戦い・ブッタ教 ブッタ教寺院一向宗寺院・本願寺山の戦い・天王寺平の戦い。


 小谷城の戦い・越前平定戦・木津川口の戦い・淡路国平定戦・四国地方平定戦・播磨国平定戦・丹波平定戦・三度ヶ原の戦い・但馬・因幡攻略平定戦等々と、アマテラス神皇国地方の畿内中心部を拠点にして、四方八方へと進軍する勢いは、正に破竹の勢いと呼べる戦国の風雲女児である当主織田・和紗・信長は、同盟国の徳川家と供にアマテラス神皇国地方の統一に邁進して行く。



 その人口は凡そ700万人で、総兵力は60万に以上と言われて居る。


 その同名大名王家と傘下大名王家は以下の通り。


 同盟大名王家 徳川家・長宗我部家。


 従属大名王家 三好家・大友家・山名家・筒井家・赤松家・河野家。


 安土城 


 キリヤ公国建国時は、築城中で、安土市も建設の真っ最中だったが、キリヤ公国連合国を加盟してから2年後に完成し、アマテラス織田自治神皇国の首都として栄えて行く事に成った。


 アマテラス織田自治神皇国が為された直後に、和紗は本拠地を岐阜市と岐阜城から安土城と安土市に移して居るが仮住まいの御殿館に和紗は引っ越しをして居る。


 その光景は伝え聞く勇治の故郷である日本の戦後時代の安土と安土城と瓜二つと言われる程に素晴らしい街並みと煌びやか城が立って居ると言う。


 安土市


 キリヤ公国建国時は、安土市は建設の真っ最中で 安土城も同じく築城中だったが、キリヤ公国連合国を加盟してから2年後に完成し、アマテラス織田自治神皇国の首都として栄えて行く事に成った。


 アマテラス織田自治神皇国が為された直後に、和紗は本拠地を岐阜市と岐阜城から安土城と安土市に移して居るが仮住まいの御殿館に和紗は引っ越しをして居る。


 その光景は伝え聞く勇治の故郷である日本の戦後時代の安土と安土城と瓜二つと言われる程に素晴らしい街並みと煌びやか城が立って居ると言う。


那古野城と那古野市


 織田家の前当主であった織田信秀から娘である和紗に与えられた居城と拠点都市の事で、和紗が10歳の頃から近習衆と馬周り衆と守役衆で、同地域を治めていた。


 キリヤ公国連合国へと加盟後した前後からは、尾張国の新政庁都市の名古屋市と名古屋城の建設の為に廃城と廃却と成ったが、跡地には代官所が建てられて、那古野市の中央通りは名古屋市の一角と成って居る。


 清洲市と清州城



 アマテラス神皇国地方・尾張国の西側の理に在る城下都市の事で、足柄室町幕府将軍王朝の時代に入ってから先祖代々、尾張国・守護大名王家であった斯波家と斯波義統の本拠地であったが、斯波家の家老家たる織田家当主であった織田信秀が破傷風により病死をきっかけにして織田家の跡目争いによる御家騒動と成った。


 それを征した織田・和紗・信長は、父信秀から与えられて居た那古野城と那古野市から移り住み。


 織田家当主と尾張国の大名王家として最初の本拠地とした城下都市である。


 後に旧那古野城下市を中心とした尾張国・名古屋市が整備されると地方都市と成り、清州城は和紗の功績を伝える記念館と成った。



岐阜市と岐阜城


 美濃国の中心では在るが、やや南よりに在る城下都市であり、尾張国との国境からは僅かに50キロ地点に位置して居る稲葉山を中心とした城下都市で、元々の名を稲葉山城と井ノ口市と呼ばれて居たのを改名したのが始まり。


 元は美濃国守護大名王家であった土岐頼純の居城であったが、半ば寄生するかのように斉藤道三が場内に館を構えた事が道三の美濃国統治の始まりと言われて居る。


 特に美濃国攻めで勝ち取った稲葉山城と井ノ口町の改名の際に付けた岐阜城と岐阜市の名前の由来として、義父の城、義父の町と洒落た名前が由来と成って、師であり義父であった道三への感謝が滲み出て居る名と言えるが、道三の遺言書を片手に、いざ攻め落とそうとすると、結構な手間が掛かったと言う。


 織田・和紗の統治が始まってからは、アマテラス神皇国地方の東西南北をを結び付ける交通の要衝であり、軍事・商業交易路の一大拠点と成る首都都市と居城と成ったが、国内情勢の変化に敏感な和紗は、次から次へと引っ越しを繰り返す事で拠点を変えて行くので、首都都市であったのは数年程度と成ってしまう。


 和紗が安土市と安土城とへ引っ越ししてからは、織田家に養子に出さた斉藤道三の娘である斎藤(織田)帰蝶が自宅として使って居り、 その彼女の事は、実質的に新生斎藤家の当主の扱いと成って居るが、旧斎藤家系の者達は、和紗は亡き道三の後継者と見て居るので、旧斎藤家系家臣は、帰蝶の護衛軍団であり、美濃国の留守居軍と成って居る。




 新生足柄幕府王朝政権上洛平定連合軍


 新生足柄幕府王朝政権上洛平定連合軍とは、足柄幕府将軍王朝政権に措いて大名王家筆頭の地位に遭った大名王家の武将、細川元晴を討伐するべく兵を上げた織田・和紗を中心とした、足柄・一輝を旗頭とする大名王家連合軍の事である。


足柄幕府将軍王朝政権に措いて大名王家筆頭の地位に遭った大名王家の武将、細川元晴が、新しい世の中を自分自身の意のままに成る様にする為、一輝を暗殺し、従姉妹の足柄・栄花・義栄を擁立させようと皇都・平庵京と足柄将軍王御所殿を襲撃する事件、足柄将軍王御所殿の乱が勃発する。


 襲撃された張本人であるアマテラス神皇国足柄幕府将軍王朝一三代目将軍王・足柄・一輝・宗輝は、兼ねてから天下統一にやる気が有ると豪語して居た織田・和紗に救援を求めていた矢先の襲撃事件であった。 


その裏で暗躍をして居た黒幕なのが、荒んだ世の中に嫌気が差して居た松永・真澄・久秀が、何もかも滅茶苦茶にしてやろうと目論んで居たからだと言うのだから質が悪すぎると言えるだろう。


 三好家に与するフリをしながらも、三好・慶香の率いる勢力軍勢と細川勢力軍とが、機内で壮絶な戦いを繰り広げさせられ様に暗躍をして居たのである。


 真澄は、巧みにその両者の間を手玉に取り、首都の皇都・平庵京・足柄将軍王御所殿を両軍に襲わせたのである。



 細川と三好の両者の目的は、アマテラス皇国足柄幕府将軍王朝一三代目の足柄・一輝・宗輝の身柄の確保であった。


 それに乗じて真澄は、新しい世の中を自分自身の意のままに成る様にする為、一輝を暗殺し、従姉妹の足柄・栄花・義栄を擁立させようと目論んで居た。


 

 だが、一輝は寸での所で塚原・伝江・朴伝を始めとする味方に助けられた。


 そして、兼ねてから助けると言って来て居た織田・和紗の元へと脱出し、織田軍を筆頭にして、徳川軍・浅井軍・朽木軍・若狭武田軍・筒井軍の連合軍が一斉に山城国に在るアマテラス神皇国の首都・平庵京へと進軍。


 元晴と戦った新生足柄幕府王朝政権上洛平定連合軍は、三好家・松永家を下し、山城国・北西部に位置して居る将軍山城へと落ちて行く。 


 元晴は機会を見て、本拠地である丹波国・亀山城へと退却し、態勢を整える積りで居たが、同地ににて討ち取られたと言う。



 一輝は、新生足柄幕府王朝政権上洛平定連合軍上洛平定連合軍の手を借りて、首都の皇都・平庵京を奪還したのだった。


これが世に言う足柄将軍王御所殿の乱と言われる政権戦争の顛末であった。




アマテラス神皇国地方・三河国・徳川家(旧松平家)(キリヤ公国連合国に加盟以前にて)


本拠地・遠江国・浜松城


徳川家・首都都市・浜松市


大名王家領国・三河国・遠江国



大名王家・拠点城と拠点都市 


岡崎城・岡崎市・吉田市・吉田城・二俣町・二俣城・長鹿野町・長鹿野城・井伊谷町・井伊谷城


徳川大名王家 通称名・徳川家


 三河国を領する大名王家で、第三将軍王朝である源氏鎌倉将軍王朝時代の頃に、上野国・新田郷から三河国へと移り住んだ新田・源氏一族衆一家の末裔と言われて居るが、実証出来る記録が乏しい故に、当の徳川家でも半信半疑であると言う。


 第4次内戦を迎えて居る第4次戦国時代の当主である徳川・千代・家康は、千代は6歳から10歳までの4年間ほどの月日を織田家で人質として捕らえられ、その後は今川家へと人質・捕虜交換の名目で駿府市へと送られ、人質生活を続けていた。


 千代は6歳から10歳までの4年間ほどの月日を織田家で人質として捕らえられ、その後は今川家へと人質・捕虜交換の名目で駿府市へと送られ、その後2年間を人質生活を続けて居たが、岡ヶ狭間の戦いで今川義本が織田・和紗に討ち取られると、岡崎城へと返り咲き、独立を果たした。


 その後し織田・和紗と同盟を組んで遠江国を切り取り、又は和紗の背を守る律儀な同名大名王家として活躍をして行く。



岡崎市・岡崎城


 松平家の発祥地であり、徳川家を興した発祥地でもある徳川家の最初首都拠点都市だったが、遠江国を切り取った関係で、千代たちが浜松城へと移り住んだ事により、地方都市と拠点城となった。

 東海道沿いの主要な都市の一つとして交易も盛んでは在るが、海辺からやや遠い立地である為、商売をするのには向いて居ないと言われて居る。


 名産品の八丁味噌は、尾張国・三河国出身地とする人々の大好物で、やや塩辛いのが特徴的だが、調理の仕方によっては深み在る調味料とされて居る。


浜松市・浜松城



 浜名湖近くに在る浜松と言う土地に建てられて浜松城を起点に広がる城下町のことで、今川家の治世下では曳馬と言う地名で知られて居る。



アマテラス神皇国地方・土佐国・長宗我部家(キリヤ公国連合国に加盟以前にて)


長宗我部家本拠地・浦戸城・浦戸市


長宗我部家・首都都市・浦戸市



大名王家領国・土佐国



長宗我部大名王家・拠点城と拠点都市 


浦戸城・浦戸市



長宗我部大名王家 通称名・長宗我部家


 長宗我部家は、アマテラス皇国の四国島地方・土佐国と阿波国西側の一部の領国を支配下に置いて居る武家一族のこと。


 長宗我部家は元々は、毛利家と同じく小国を統治して居る国人衆の一角に過ぎなかったが、長宗我部家の先代当主で、長宗我部・智華・元親ら三姉妹の母親で、長宗我部・国枝・国親と長宗我部・智華らの親子二代による活躍により、東土佐の強豪を次々と撃破して、最後は西土佐の一条兼定を滅ぼして土佐一刻を1年半で統一した事で長宗我部家の強さは、丸で鬼の如き強さだと称賛を受ける事に成る。


 明智・十華・光秀の誘いを受ける形で織田家とは、徳川家と同格の扱いで、四国地方統一平定を共闘する同盟大名王家と成って居る。


 九州地方平定征伐戦での功労と長宗我部・智華・元親の当主としての将来に期待が持てると見たキリヤ公国連合国中央政府と勇治らによる推薦で、アマテラス神皇国の四国地方から海南島諸島へと異動を命じられ、藩王国を建国する事に成る。


浦戸城と浦戸市


 浦戸城と浦戸市とは、桂浜の北部丘陵の浦戸山・標高59メートルの上に築かれた日本の中世様式の平山城跡で、土佐湾に面して居り、浦戸は高知平野の入り口にも位置して居る長宗我部家の城と城下町である。



アマテラス神皇国地方・甲斐国・武田家(キリヤ公国連合国に武力介入以前にて)



武田家本拠地・躑躅ヶ崎館 


武田家・首都都市・甲府市


武田大名王家領国 甲斐国・信濃国・駿河国・上野国・飛騨国


武田大名王家・拠点城と拠点都市 


信濃国・諏訪市・高島城・城主は、武田・寿和・勝頼 (たけだ・よしかず・かつより)


甲斐国・桜井群・桜井館と信濃国・南信濃地方・飯田市・飯田城・城主は、武田・陸深・信廉 (たけだ・むつみ・のぶかど)


信濃国・南信濃地方・福島町・木曾福島城・城主は、木曽・真理・義昌。


信濃国・南信濃地方・大嶋城と伊那郡・伊那館城・城主は、秋山・繁美・虎繁。


美濃国・東美濃地方・遠山城・城主は、遠山津夜子だったが、実権は秋山・繁美・虎繁が兼務して居る。


甲斐国・上野城と八代郡を本領とするが、今川家滅亡後の駿河国の司令官と国主を任され、駿府城代も兼務城主・一条・涼香・信龍。 


甲斐国・南部地方・南部町・下山城・駿河国・庵原郡・江尻城・城主は、穴山・梅林・信君。


甲斐国・白州郡地方・白洲館・館城主は、馬場・春香・春信。


 信濃国・佐久郡・佐久地方・佐久城館・上田城と小諸城等の城主も兼務・山県・虎三・昌景。


上野国・箕輪城・城主は、内藤・凜乃・昌秀で、上野国主代理と成って居る。


信濃国・北信濃地方・海津城・城主は、高坂・春日・昌信。


武田大名王家 通称名・武田家


 アマテラス神皇国地方・第三将軍王朝・源家の一族である源義光を祖とする家柄で、似た様な経緯を持った武田性の同族がアマテラス神皇国地方各地に領土を持って居ると言う。


 アマテラス神皇国地方・甲斐国・武田氏第19代・当主である武田・春夜・信玄の時代を迎える頃は、第4次内戦を迎えて居る第4次戦国時代で、武田・春夜が始めて行った御家の改革案と国土拡張計画により、甲斐国・信濃国・駿河国・上野国・飛騨国等と言った5カ国の国主に躍進。


 織田・和紗・信長と徳川・千代・家康の同盟連合を相手に一歩も退かない姿勢で挑み続ける事で、何時かはアマテラス神皇国の首都である平庵京に武田菱の御旗を立て、アマテラス神皇国の将軍王と成り、やがては天下人と成る事を目標として居ると言う。


 しかしながら、三度ヶ原の戦いを皮切りに始まった織田家のアマテラス織田自治神皇国とその宗主国であるキリヤ公国連合国との本格的な戦争へと突入する。 


 長鹿野ヶ原の戦い。信濃・甲斐平定征伐戦。小田原城攻防戦と転戦するが、最後は対峙していた上杉・剣信の勧めで主君である武田・春夜は、川越城でキリヤ公国連合国に降伏。


 暫くは上杉家預かりとされ、春夜は剣信のキリヤ公国の首都・公王都キリヤ市の屋敷に居候と成る。


 その後戦後の処罰として、アマテラス神皇国地方の追放処分とされるが、アマテラス神皇国・九州地方平定征伐戦とアマテラス神皇国統一平定戦の論功行賞と戦時処罰の最終決定がキリヤ公国連合国中央政府と加盟国から通知が来る。


 その通知で武田家がキリヤ公国の直臣と成る事が通知され、武田独立自治新甲斐国藩王国の建国が決定された。


 この事はライバルであり、親友同士の様な関係に在る上杉・剣信と上杉家の働きで、武田家と武田・春夜・信玄と言う人材をホコリを被せるには惜しい人材であると弁明したという。



甲相駿三国同盟


 武田家・北条家・今川家らが、それぞれの理由で相争って居た事を解消し、各々目的と敵対勢力と戦う為に編み出された苦肉の同盟国計画のこと。


 武田信虎の弟である武田信友を北条・九江・早雲の婿に迎え、その妹である北条家三女たる早紀姫を今川義本の嫁入りさせ、最後に今川義本の妹である今川瑞穂を武田信虎に嫁入りさせた。




アマテラス神皇国地方・相模国・北条家(キリヤ公国連合国に武力介入以前にて)



本拠地・相模国・小田原城


北条家・首都都市・小田原市


 大名王家領国・相模国・伊豆国・武蔵国・上総国・安房国・下総国・結城地方・結城市・結城城 



北条大名王家・拠点城と拠点都市 


 相模国・箱根山地方・箱根山町・箱根山・箱根山城・城主は、北条・九江・早雲だが、此処は隠居所にする予定の別荘城。


上総国・安房国・久里浜市・久留里城・城主は、北条・四葉・氏直。 


武蔵国・北武蔵地方・川越市・川越城・城主は、北条・紗英・綱成。 


武蔵国・西武蔵国地方・八王子町・八王子城・城主は、北条・五月・氏邦。


相模国・玉縄地方・玉縄町・玉縄城・城主は、北条・紗英・綱成だが、川越城主も兼務して居る為、北条・勝実・正成が代行城主をして居る。 


武蔵国・東武蔵地方・岩付町・岩付城・城主は、北条・種夜・綱高。



北条大名王家 通称名・北条家


 アマテラス神皇国地方・関東地方南部の相模国と伊豆国を本拠地に構えて居る大名王家の一家で、北条・九江・早雲が産まれた頃には伊豆国に入った人物が居た。


 その人物とは、備中国・井原地方・高越城を治めて居た伊勢一族の一人、伊勢・新九郎・盛時と言う伊勢氏の分家武士であった。


 平庵京の乱にも関わった事があり、8代将軍王である足柄義教が守護大名家同士の政権争奪戦により、暗殺されてしまった。


 その犯人は不明のままと成り、その後継者に誰を押すのかで争う事に成る。


 先ず白羽の矢が立ったのが、8代将軍王である足柄義教の長男である足柄義勝だったが、この義勝は9代足柄将軍王と成ったが、その後一年が経ったある日の事、僅か9歳と言う年齢でこの世を去ってしまう。


この早世に付いて、巷では毒殺では無いかとも囁かれた。


 長男が無くなれば次男が選ばれるのは道理と言う物で、10代足柄将軍王と成るが、流石に8歳で跡目をと言うのは体裁が良くないし、将軍王も務まらないだろうとして、16歳まで就任を遅らせてから就任と成った


 それから10年後のこと、その義政がとある問題を起こした。


 足柄義政と言う人物は、とにかく芸事に傾倒するのが大好きな性格で、政治なんぞ二の次、三の次と言う性格。


 25歳までに跡目を決めてさっさと将軍王を辞めたいと考えていた。


これが平庵京の乱の切っ掛けと成った出来事である。


 手っ取り早く後継者を決めるべく、義政が20歳の時に、一つ下の弟である足利義稙を後継者に指名するが、25歳の時に息子である足利義尚が産まれてしまう。


 これに妻である足柄富子は、我が子が将軍王に慣れないと不満を漏らした。


 その事に付け居ろとうと義尚の後援を申し出て、義政に後継者にするように迫ったが、義稙の後援と引き換えに管領職を任される予定だった細川勝元と細川政元兄弟が待ったを掛けた。


 しかしながら、この後継者争いは、只の言い争いだけで済む筈も無く、両者はとうとう在領地の国元から大軍を率いて皇都・平庵京へと入京。


 両軍は皇都・平庵京のど真ん中で激突し、平庵京の乱が勃発した。 


 更に厄介な事に、山名宗全は、味方すると言って来た大内政弘を引き入れた事により、其れならばと細川勝元と細川政元兄弟も手当たり次第に援軍要請をしまくった。


 これにより平庵京の乱を切っ掛けにした第4次内戦たるアマテラス戦国時代の到来により、全国規模の内乱勃発が止まらなく成り、果ての無い戦いが始まって行く事に成る。 


 さて、北条家の祖である伊勢・新九郎・盛時は、平庵京の乱の時に何をして居たのかと言うと、10年間も皇都・平庵京で戦って居た東西軍に対して停戦を呼びかけ、取り敢えず足利義稙を10代足柄将軍王とし、その間に何か遇った場合は、その弟である足柄義澄を11代足柄将軍王とし、何も無ければ義尚に跡目を継がせれば良いのでは?と提案して、争いを止めたと言う。


 その後足柄将軍王家では、義稙が病気を患って将軍王を退くと、足柄義澄を繋ぎに11代将軍王と成り、12代将軍王と成る予定だった義尚は、結局は病死。


 12代将軍王と成ったのは、義澄の長女であった足利・阿子・義晴が就任するのであった。 


 この騒動を収めた功績で、伊勢・新九郎・盛時は、伊豆国の守護大名王に任じられ、伊豆へと下向して行ったのであった。


これが北条家の始まりであった。


その後の盛時は、戦国時代へと突入して行ったアマテラス神皇国地方を生き抜くために、領土拡大を目指して相模国へと進軍して行く事に成る。


 盛時が晩年に成った時には、娘3人と孫がたくさんの一家と成って居り、伊豆国・相模国・武蔵国と国土を着実に広げて居た中の大往生の生涯を迎えたのであった。


しかしながら、その後の北条家は、織田家とキリヤ公国連合国との戦争により、その国土の全てを失うが、北条家一族がそれぞれ独立した一家を打ち立てる事が許され、キリヤ公国連合国中でも指折りの家系一族として繁栄を極めて事に成った。


 伊勢・新九郎・盛時(北条盛時)


 北条家の祖と成った人物で、北条・九江・早雲。北条・勝実・正成。今川(北条)早紀姫の三姉妹らの父親。


 備中国・井原地方・高越城を治めて居た伊勢一族の一人、伊勢・新九郎・盛時と言う伊勢氏の分家武士であった。


 平庵京の乱の騒動を収めた功績で、伊勢・新九郎・盛時は、伊豆国の守護大名王に任じられ、伊豆へと下向して行ったのであった。


これが北条家の始まりであった。


その後の盛時は、戦国時代へと突入して行ったアマテラス神皇国地方を生き抜くために、領土拡大を目指して相模国へと進軍して行く事に成る。


 その後は、大森藤頼が支配統治して居た相模国と居城であった小田原城を攻め落とし、伊豆国から続々と軍勢を送り込む様にして、三浦半島の三浦時高を倒すと、更に関東地方を北進して行くのであった。


 盛時が晩年に成った時には、娘3人と孫がたくさんの一家と成って居り、伊豆国・相模国・武蔵国と国土を着実に広げて居た中の大往生の生涯を迎えたのであった。


しかしながら、その後の北条家は、織田家とキリヤ公国連合国との戦争により、その国土の全てを失うが、北条家一族がそれぞれ独立した一家を打ち立てる事が許され、キリヤ公国連合国中でも指折りの家系一族として繁栄を極めて事に成った。


小田原城


 アマテラス神皇国地方の相模国の守護大名王家だった大森氏が築き、その子孫である大森藤頼が伊勢・新九郎・盛時に奪われた城として名高い名城。



 伊勢盛時が小田原城と相模国を狙って居た際に、シカ狩りと称して、小田原城の北部の山々へと入りたいと言う旨を大森藤頼に伝えた所、藤頼は『盛時はシカも仕留められないのか?』と大笑いしてしまうが、結局はたかがシカ狩りならば構わないと許可を出してしまう。


 大森家の家臣たちは、盛時はずる賢い輩なので、用心するべきだと忠告するが、聞き入れられる事無く、伊勢軍はまんまと小田原城近くまで軍勢を推し進め、小田原城を落城させてしまった。


 その後は盛時は関東地方に勢力圏を拡大させて行こうと考え、ある政権に倣う形で北条氏を名乗る事にした。


 その由来とは、藤原家血筋から成る平家大名王朝と田村家血筋の正統武士王朝から源家大名王朝とが戦う第二次アマテラス内戦である源平合戦を征した第三将軍王朝である源氏鎌倉将軍王朝政権が確立する。


 それから150年が経つと、平家武士王朝家血筋である北条家が鎌倉政権の実権を握り、源一族を傀儡化させた北条執権政治政権を確立する。


 盛時は、鎌倉政権の実権を握り、源一族を傀儡化させた北条執権政治政権を確立させた北条義時の関東支配統治に倣って、先祖が北条氏でも無いののに、北条性を名乗る事にしたのであった。


これが後北条氏の始まりと成った。


 後北条氏は、小田原城を拠点にして、破竹の勢いで関東地方の国人衆を配下に加えて行く。



 関東地方でまともな勢力圏を誇って居るのは、上杉家・佐竹家・里見家・結城家・小田家・長野家・宇都宮家と言った、小大名王家とでも言うべき諸勢力ばかりで、中でも上杉家と佐竹家・里見家は後北条氏とまともに戦で張り合えるだけの実力を誇って居る。


 盛時と、その子供たちは、小田原城を起点にして、関東地方の諸勢力を相手に戦い抜いて行く事になる。


 跡目を継いだ、北条・九江・早雲は、キリヤ公国連合国とアマテラス織田自治神皇国との完全なる武力衝突を避ける為に、自らの一族衆を敵味方に分けて、生き残る奇策に打って出る事に成る。


 それぞれの立場を得て生き残った北条家一族は、桐谷勇治とキリヤ公国本国に仕え、数々の功績を上げて行った事から、複数もの爵位と領地を持った有力者一族と成る事で、アマテラス神皇国地方に居た頃よりも繫栄と栄華を極める事と成った。



後北条氏


 伊勢盛時が大森藤頼と三浦時高らを討ち取り、関東地方に勢力圏を拡大させて行こうと考え、ある政権に倣う形で北条氏を名乗る事にした。


 その由来とは、藤原家血筋から成る平家大名王朝と田村家血筋の正統武士王朝から源家大名王朝とが戦う第二次アマテラス内戦である源平合戦を征した第三将軍王朝である源氏鎌倉将軍王朝政権が確立する。


 それから150年が経つと、平家武士王朝家血筋である北条家が鎌倉政権の実権を握り、源一族を傀儡化させた北条執権政治政権を確立する。


 盛時は、鎌倉政権の実権を握り、源一族を傀儡化させた北条執権政治政権を確立させた北条義時の関東支配統治に倣って、先祖が北条氏でも無いののに、北条性を名乗る事にしたのであった。


これが後北条氏の始まりと成った。


 後北条氏は、小田原城を拠点にして、破竹の勢いで関東地方の国人衆を配下に加えて行く。





北条五色備軍団 


 黄・赤・青・白・黒の色の鎧や旗指物で彩った旧北条家軍及び北条新相模自治藩王国軍の5軍団の事で在る。


 北条黄備え軍団 軍団長・北条・紗英・綱成 拠点・新武蔵国州・川越城


 北条赤備え軍団 軍団長・北条・種夜・綱高 拠点・新相模国州・甘縄城


 北条青備え軍団 軍団長・富永直勝 拠点・新武蔵国州・栗橋城


 北条白備え軍団 軍団長・笠原・美晴・政尭まさたか拠点・新伊豆国州・下田城


 北条黒備え軍団 軍団長・多米 元忠 拠点・新上野国・平井城


主要港・三崎港・小田原港・下田港・江戸港


北条家・当主一族衆


 北条・九江・早雲と武田信友との間に産まれた男女8人の子供の事を指して居るが、男子は養子に出して居る事から当主一族で在りながらも外戚扱いと成って居る。


北条家一族衆


 北条・九江・早雲の姉妹達とその両親達にから見て二等親に当たる一族達の事を指して居る。


北条家一門衆


 北条の姓名又は北条家と二等親一族に当たる家々の事を指して居る。また、養子又は縁組での関わり合いが在る2等親に当たる親戚も含まれて居るが、当主がその権利を認めないと、親戚関係とは見なされない事に成って居る。



アマテラス神皇国地方・肥前国・龍造寺家(アマテラス神皇国・九州地方平定征伐戦の開始前後時点にて)



大名王家・本拠地・佐賀城


龍造寺家・首都都市・佐賀市


大名王家領国・肥前国


龍造寺大名王家・拠点城と拠点都市 


佐賀地方・佐賀市・佐賀城。唐津地方・唐津市・唐津城。


従属大名王家


アマテラ神皇国・九州地方・肥前国北東部・少弐家・肥前国・鷹取城・当主は、少弐・冬香・冬尚。


アマテラ神皇国・九州地方・肥前国北東部・秋月家・肥前国・古処山城・当主は、秋月・種実・実植。  


アマテラ神皇国・九州地方・肥前国南東部・菊池家・肥前国・菊池城・当主は、菊池義武。  


アマテラス神皇国・九州地方・肥前国西北部・松浦家・肥前国・平戸城・当主は、松浦・知恵・隆信。


アマテラス神皇国・九州地方・肥前国南西部・肥前国・彼杵地方そのぎちほう玖島城くしまじょう・当主は、大村・菫・純忠。 



龍造寺大名王家 通称名・龍造寺家


 龍造寺氏りゅうぞうじしは、アマテラス神皇国地方の武家の氏族の一つで、その出自には、諸説があって定かにされては居ないが、藤原将軍王朝を興した藤原・美知恵・道長を初代とする第二将軍王朝・藤原家を祖として居るとのこと。


 しかしながら、直系では無く藤原一族の誰かと言う事に成って居るので、家系図にはやや不安が有る内容と成って居るが、そんな家系一族に付いての話は、アマテラス神皇国地方で珍しくない。


 龍造寺・信美・信隆から遡って8代前にに肥前・佐賀郡・小津東郷内・龍造寺村に入り、地名から龍造寺姓を名乗ったのが始まりとされて居る。


 しかしながら、龍造寺・信美・信隆が当主に着いた頃は、アマテラス神皇国地方の中央では、織田家が台頭して来て居た時代へと突入して居た。


 その頃の九州島地方では、大友家が同地の支配統治領の5割5分・龍造寺家が2割・島津家が2割・諸勢力が1割と言った割合で覇を競って居たが、大友家と諸勢力が織田家と同盟を組んで居た為、龍造寺・信美が率いる龍造寺家は、無理に領土拡大を行えば、九州島地方の均衡を崩して。自滅する可能性があった為、何も出来ない状態下に在った。


 しかしながら、何事も娘達を可愛がる娘大好き至上主義の親バカだが、軍事・政務ともにそつなくこなす天才と言う側面を持ち併せて居り、無難な大名王家の運営統治を心掛けて居る島津家当主の島津貴久。


 彼は、ある日のこと、娘たちである島津家・4姉妹たちから、中央政権では織田家が台頭して来て居ると言う時期なのに、お父さんは島津家を大きくしようとはしないのは間違って居るってな事を言って父親である島津貴久を半ば強引に隠居させてしまう。

 

 その後は竜珠王国への侵攻や九州島地方各地への進軍と破竹の勢いで、領土拡大をを進めて行くが、アマテラス神皇国・九州地方制圧を企んだ騒乱であるアマテラス九州平定征伐戦により、キリヤ公国連合国と対立をしてしまう。


 その対立の原因でもある龍造寺家は、中立大名王家であるという理由から、島津家に目を付けられてしまう。


 龍造寺・信美は、島津家4姉妹らの侵攻を受けて、自領国を防衛するべく、果敢に立ち向かうが、罠に掛かってしまい、それにより島津軍の一大攻勢を受けた事により、追い詰められてしまう事に陥り、逃げ込んだ先である唐津城にて敗北。

 大やけどを負う怪我を負って、唐津城の天守閣から海へと投げ出されてしまった。


 重症を負った龍造寺・信美は、運良くアイヌル・シャッコロ・北地の反乱を鎮めたキリヤ公国連合国の公王である桐谷勇治が乗り込んで居るお召し客船に拾われた。


 窮地に一生を得た龍造寺・信美は、勇治を始めとするキリヤ公国連合国の首脳幹部や連合加盟国の国家元首らに頭を下げ、援軍要請をするのであった。



 後に龍造寺・信美は、勇治に命を救われ、自国の家臣と領民達を島津家から救ってくれた事に感謝し、命を救ってくれた勇治の家臣になりたいと申し入れた。


 其処で勇治はファン列島諸島の一部である30の島々を国土する支藩王に任じて、家格は子爵家扱いとされて居る。

 


アマテラス神皇国地方・肥前国・松浦家(アマテラス神皇国・九州地方平定征伐戦の開始前後時点にて)




大名王家領国・アマテラス神皇国・九州地方・肥前国西北部・平戸地方



大名王家・拠点城と拠点都市 


平戸城・平戸市


松浦家・首都都市・平戸市



主家・龍造寺家。


主家との間柄・従属大名王家(与力大名王)自治権・有り


松浦大名王家 通称名・松浦家


 松浦家系図によると嵯峨源氏渡辺氏の祖の源綱の曾孫とされる松浦久を祖先に持って居る一族で、第三将軍王朝である源氏鎌倉将軍王朝の一族の流れをね汲んで居るらしい。


 松浦・知恵・隆信の時代では、20歳の時に家督相続をした際に、大友家・毛利家・島津家等の諸勢力に対抗する為に、父親の時代から龍造寺家に与する様に成って居た。


 松浦・知恵の代替わりする際に、これからの松浦家の行く末を考え、日頃から世話に成って居る龍造寺家の傘下に本格的な入り、龍造寺・信美・信隆に従う従属大名王家でありながらも、独立した自治権を持った与力大名の地位を得て居る。



 しかしながら、アマテラス神皇国地方の中央では、織田家が台頭して来て居た時代へと突入して居た。


 その頃の九州島地方では、大友家が同地の支配統治領の5割5分・龍造寺家が2割・島津家が2割・諸勢力が1割と言った割合で覇を競って居たが、大友家と諸勢力が織田家と同盟を組んで居た為、龍造寺・信美が率いる龍造寺家は、無理に領土拡大を行えば、九州島地方の均衡を崩して。自滅する可能性があった為、何も出来ない状態下に在った。


 松浦家は優れた水軍を率いるアマテラス神皇国・北九州地方の海賊大名王家としても知られ、松浦・知恵もその腕前は確かであり、松浦家の水軍衆を率い居ると共に、龍造寺家水軍の指揮を任されて居る。


 またゲルニアン帝国・大華天帝国・クーロンと言った外国との海外貿易に力を入れて居り、九州地方で勢力圏の拡大と独自の島津王国を築かんとする島津家が攻め込んで来た時は、貯め込んで来た財を使って徹底抗戦を行った。


 更にはキリヤ公国連合国と織田による島津家討伐が行われた九州島地方戦役が開始されるると、主家に当たる龍造寺家を助けんと龍造寺家の宰相軍師である鍋島・尚美と合流して、第二十連合国軍として組織された柴田・朱里・勝家とその旗下である前田・利美・利家。佐々・海未・成政。滝川・咲枝・一益殿ら合わせて5万人と合流し、肥前国を占領して居る司令官である島津・利美・歳久を海側から撃破して、勝利に導いて居る。


 その後は龍造寺家がキリヤ公国と桐谷勇治の直臣に成るに伴い、今までは外籍独立大名王家だった松浦家は、先の九州島地方戦役に措いて、里見艦隊と小早川艦隊の指揮下に入って戦った松浦党水軍と大村党水軍らの軍勢は、天草諸島地方及び八代湾海域に立て籠もる島津軍を三日掛けて制圧して行く作戦に参加する。


 戦後に成って名付けられた島原・天草沖海戦と呼称される戦での戦功が著しいとキリヤ公国本国政府とキリヤ公国・国防総省から見られ、報奨の他に何か望みが在れば叶えると勇治は申し入れをして居た。



 松浦家当主である松浦・知恵は、キリヤ公国本国海軍艦隊の地方艦隊司令官として採用され、アマテラス神皇国の転封政策も絡みつつ、領地替えと同時に独立する様に命じられる。


 その地位は男爵位扱いの松浦独立自治・平戸支藩王国を建国し、大村家とは隣国同士の地に転封された。



平戸城・平戸市


 松浦半島と平戸島を有する松浦家は、同地方を治めるのに当たり、平戸島にに首都都市と居城を築いて居る。


 平戸城は、平戸島の北部、平戸市街の東部に位置する。平戸港を見下ろし、対岸の九州本土を望む平戸瀬戸に突き出た丘陵上にある。


 三方を海に囲まれ天然の堀としている。丘陵の頭頂部に本丸が築かれ、その南側に二の丸、東側に三の丸が配された梯郭式の城である。



 その周辺に築かれたのが平戸市であり、松浦家は代々貿易港と軍港の機能を合わせた港づくりに力を入れていたと言う。



アマテラス神皇国地方・肥前国・大村家(アマテラス神皇国・九州地方平定征伐戦の開始前後時点にて)




大名王家領国・アマテラス神皇国・九州地方・肥前国南西部・彼杵地方



大名王家・拠点城と拠点都市 


玖島城・大村市


大村家・首都都市・大村市


主要都市・長崎市・長崎港


主家・龍造寺家。


主家との間柄・従属大名王家(与力大名王)自治権・有り


大村大名王家 通称名・大村家


大村氏おおむらしは、アマテラス神皇国地方の武家の氏族の一つで、その出自には、諸説があって定かにされては居ないが、藤原将軍王朝を興した藤原・美知恵・道長を初代とする第二将軍王朝・藤原家を祖として居るとのこと。


 しかしながら、直系では無く藤原一族の誰かと言う事に成って居るので、家系図にはやや不安が有る内容と成って居るが、そんな家系一族に付いての話は、アマテラス神皇国地方で珍しくない。


 大村・菫・純忠が20歳の時に家督相続をした際に、大友家・毛利家・島津家等の諸勢力に対抗する為に、龍造寺家の傘下に入り、龍造寺・信美・信隆に従って居る独立自治の権限を持った与力大名でも在る。


 優れた水軍を率いるアマテラス神皇国・北九州地方の商船水軍を持った大名王家としても知られ、龍造寺家水軍の指揮を任されて居る家柄の人物。



 近しいご近所付き合いも在る松浦家と同じくゲルニアン帝国・大華天帝国・クーロンと言った外国との海外貿易に力を入れて居り、長崎に港を開いて精力的に商業交易を行って居る。


 また九州地方で勢力圏の拡大と独自の島津王国を築かんとする島津家が攻め込んで来た時は、自らの領内利権を守るべく、貯め込んで来た財を使って徹底抗戦を行った。


 更にはキリヤ公国連合国と織田による島津家討伐が行われた九州島地方戦役が開始されるると、主家に当たる龍造寺家を助けんと龍造寺家の宰相軍師である鍋島・尚美と合流して、第二十連合国軍として組織された柴田・朱里・勝家とその旗下である前田・利美・利家。佐々・海未・成政。滝川・咲枝・一益殿ら合わせて5万人と合流し、肥前国を占領して居る司令官である島津・利美・歳久を海側から撃破して、勝利に導いて居る。


 その後は 龍造寺家がキリヤ公国と桐谷勇治の直臣に成るに伴い、今までは外籍独立大名王家だった大村家は、先の九州島地方戦役に措いて、里見艦隊と小早川艦隊の指揮下に入って戦った松浦党水軍と大村党水軍らの軍勢は、天草諸島地方及び八代湾海域に立て籠もる島津軍を三日掛けて制圧して行く作戦に参加する。


 戦後に成って名付けられた島原・天草沖海戦と呼称される戦での戦功が著しいとキリヤ公国本国政府とキリヤ公国・国防総省から見られ、報奨の他に何か望みが在れば叶えると勇治は申し入れをして居た。


その地位は男爵位扱いの大村独立自治・彼杵支藩王国を建国し、松浦家とは隣国同士の地に転封された。


大村市


 大村大名王家こと、大村家の本拠地にして首都都市でもある都市のこと。彼杵平野から南方へと突き出ている彼杵半島に築かれた玖島城を中心とした城下町で、大村港は軍港として使われても居た主要港でもあったが、同時に貿易港でもあった。


 織田家の治世下に入ると、只の地方都市に成ったが、軍港としても使われて行く事に成って居る。



玖島城


 玖島城は、アマテラス神皇国地方・九州島地方・肥前国・彼杵地方・大村湾に突き出した玖島半島の先端に築城された平山城で、本丸、二の丸、三の丸から構成される。


 本丸は面積9,458平方メートルを誇るのほぼ四角形で、石垣で囲まれており、西に虎口門、南に台所門、北に搦手門の3つの虎口を持つが、天守は館城主形式の建物が立って居る。


 大村独立自治・彼杵支藩王国を建国する事に成った大村氏の転封に伴い、同地は廃城と成って居る。



アマテラス神皇国地方・大友家(アマテラス神皇国・九州地方平定征伐戦の開始前後時点にて)




大名王家領国・アマテラス神皇国・九州地方・豊後国・豊前国・筑後国・肥後国北部・日向国北部を支配する有力守護大名。



大名王家・拠点城と拠点都市 


大分城・大分市


主要都市・臼杵市・臼杵城・立花山市・立花山城立花山市・立花山城・岩屋町・岩屋城・宝満町・宝満城


大友家・首都都市・大分市


大友大名王家 通称名・大友家


 藤原家血筋から成る平家大名王朝と田村家血筋の正統武士王朝から源家大名王朝とが戦う第二次アマテラス内戦である源平合戦を征した第三将軍王朝である源氏鎌倉将軍王朝政権の初期に、相模国・大友郷に興った武家一族のこと。


 大友家は、古くは第一将軍王朝・田村家に仕えた初代の大友能直が、豊後の大分地方を領土として賜り、九州島地方へと移り住んだのが始まりとされて居るが、後に源氏鎌倉将軍王朝政権の時にも九州島地方へと赴任した一族も多く居り、その者達も先任に大友家との親戚関係を築いて居るので、後の時代に大きな国土を有する戦国大名王家と成り得る基礎を築く事にも成った要因と成って居る。


 第4次内戦を迎えて居るアマテラス神皇国の時代に措いて、大友・須江・奏麟が当主の時代では、太平記戦役・南北将軍王朝戦争の時に、幾人かの人物が北ユーラシアン大陸人を配偶者に迎えた事も有る為、アマテラス神皇国地方でも珍しい金髪や青い目を持った当主や一族衆が多い家柄。



それ以来、大友家は歴代の将軍王政権に仕えて来た歴史を誇りとして来た。


 第13代足柄幕府将軍王・足柄・一輝・宗輝は、自身が居なくても織田家の織田・和紗・信長がアマテラス神皇国を統一するだろうと考えもあり、キリヤ公国連合国からの誘いを受ける形で、足柄室町幕府将軍王朝を閉じてキリヤ公国連合国へと渡海してしまう事に成る。


 そんな青天の霹靂の様な出来事が巻き起こった中で、大友・須江・奏麟は、次代の将軍王と成る人物は、織田・和紗・信長であると見て居た。



 その先読みは、正しかったと証明されたのは、今から三日前に四国地方を平定したとの報せが舞い込んだからである。


 それ以前から大友・須江は、将来的に織田家が九州地方へとやって来るのを見越して、和紗との交流を重視し、ユーラシアン大陸との貿易で手に入れた物珍しい品々を贈り物として送って居た。



 しかしながら、島津家が織田家とキリヤ公国連合国との間に亀裂が生じる出来事、龍造寺家への武力侵攻が開始されると、龍造寺・信美・信隆が桐谷勇治と織田・和紗の両名らに援軍要請を頼み込む事に成った。


 それにより勃発したアマテラス神皇国・九州地方平定征伐戦に措いて、キリヤ公国連合国軍の援軍が到着するまで、大分城で待って居る様にとの連合国司令部の命令を聞かずに、戸次川の戦いを起こしてしまう。


 その結果は散々たる物で、勇み足と成ってしまって居る家臣達の意見に由る攻勢作戦が、島津・衣恵与軍と先走って戦い敗戦してまった


その論功行賞及び処罰の最終的な決定は、領地替えによる大友家の移転とされた。


 大友家はファン列島諸島の30もの諸島地方の領地を持つキリヤ公国直属の独立自治支藩国として建国するように命じられた。


 家格は毛利・上杉・伊達家より格下、諸外国からは男爵王家扱いとされる身分とされた。


 大友家当主の大友・須江はこれを素直に受け入れると申し入れ、アマテラス神皇国から引っ越しして行くのであった。



大分城・大分市



 豊後国の南東部に位置する城下町の事で、中心地には、天守閣と館御殿を中心とした城郭が築かれて居る。


 その町並みにはユーラシアン大陸文化を取り入れた和洋折衷の建物が多く築かれて居り、ユーラシアン大陸を始めとする多くの国々からの来訪者達で賑わって居ると言う。





アマテラス神皇国地方・薩摩国・島津家(アマテラス神皇国・九州地方平定征伐戦の開始前後時点にて)




本拠地・薩摩国


島津家・首都都市・鹿児嶋市


 大名王家領国・薩摩国・大隅国・日向国・肥後国・肥前国・天草諸島・天城諸島あまぎしょとう 



島津大名王家・拠点城と拠点都市 


鹿児嶋市・鶴山城


 隈本市・隈本城・人吉市・人吉城・八代市・八代城・都城地方・高城町・新納院・高城 ・三俣院・高城・穆佐院・高城





島津大名王家 通称名・島津家



 藤原家血筋から成る平家大名王朝と田村家血筋の正統武士王朝から源家大名王朝とが戦う第二次アマテラス内戦である源平合戦を征した第三将軍王朝である源氏鎌倉将軍王朝政権の初期に、相模国・鎌倉市から薩摩国へと赴任して行った武家一族のこと。


 源氏鎌倉将軍王朝時代から、第4次内戦を迎えて居るアマテラス神皇国の時代末期まで薩摩を領し、第4次アマテラス神皇国戦国期に措いて、武力によって大隅国・日向国・肥後国・肥前国・天草諸島・天城諸島と言った国土の拡大に成功した。



 しかしながら、島津家が織田家とキリヤ公国連合国との間に亀裂が生じる出来事、龍造寺家への武力侵攻が開始されると、龍造寺・信美・信隆が桐谷勇治と織田・和紗の両名らに援軍要請を頼み込む事に成った。


 それにより勃発したアマテラス神皇国・九州地方平定征伐戦に措いて、島津家は島津・弘美・義広を総軍大将とし、少しでも講和条件を良くしようとキリヤ公国連合国軍と九州島地方全土に措いて激戦を繰り広げるが、多勢に無勢な上に軍事技術力の違いと兵力差から敗戦と成ってしまう。


 降伏した島津家4姉妹は、それぞれ立場が違うながらも死罪は免れ、島津・弘美・義広は、武将として雇われ、島津・利美・歳久は キリヤ公国連合国・国防総省と足柄・一輝・宗輝国防大臣預かりにして、キリヤ公国近衛軍付きの参謀佐官と成る。


 その後はキリヤ公国連合国のキリヤ公国本国領の拡大に伴い、島津家はキリヤ公国と桐谷勇治の直臣と成る条件付きで大名王家に復帰すると、久実は勇治旗下の直臣藩と成った。


 しかしながらアマテラス神皇国・九州地方平定征伐戦に措いて、30万人の動員に踏み切り、最新武具・兵器を装備したキリヤ公国連合国軍を相手取って、一歩も退かない戦い振りは、アマテラス神皇国地方統一平定に措いて、一番に手間が掛かる相手であったとされて居り、この事が島津家の家格を高く評価する一因と成ったと、後世の歴史家たちは見て居ると言う。


鹿児嶋市・鶴山城


 薩摩国の内陸部に在る鹿児島湾に面した島津家の首都拠点都市で、居城と成って居る鶴山城は、市街地に在る山を加工建築した岩山城である。


 天守閣は無く、館御殿は城が築かれて居る鶴山と言う岡山の麓に当たるど真ん中に打ち建てられ、その周りに水堀と城門と曲輪縄張りを巡らすと言う変わった造りに成って居る。


 しかも、鶴山城の山側は、どの位置からでも鉄砲射撃が可能と成る位置に成って居り、銃撃籠城戦を想定して居ると言う機能を併せ持って居る。


 それに加えて大砲の砲台を鹿児島湾内のあちらこちらに造り、鹿児島湾内に入り込んで居る軍船を相手取って戦いをも想定して居ると言うのだから侮れない。


 しかしながら、キリヤ公国連合国との戦いに由って、その殆んどがアマテラス織田自治神皇国軍の戦艦安土を中心とした近代戦艦艦隊の砲撃によって破壊されて居る。


日向三高城 新納院・高城 ・三俣院・高城・穆佐院・高城


高城とは、はアマテラス神皇国地方の日向国内に、新納院・高城と、三俣院・高城穆佐院・高城と3つ存在し、「日向三高城」と呼ばれている堅牢な城の事に成って居る。


 その様相こそは、日本の宮崎県内に現存する史跡城である新納院・高城と、三俣院・高城(別称は月山日和城、都城市高城町)、穆佐院・高城(別称は穆佐城、宮崎市高岡町)と3つ存在し、「日向三高城」と呼ばれている堅牢な城とそっくりそのままの名称と成って居る。


 しかしながら、立って居る配置と近隣地域の地形・地名が違って居ると言う平行世界と言う意味合いでは、誤差が生じて居る位置に在る。





新納院・高城



 日向国南部地方の一つで、日向三高城の中で最も北側に位置している平山城のことで、元々は伊東家の持ち城だった。


 しかしながら、島津家による九州島地方平定統一を目的に立ち上がった島津4姉妹日向国に攻め込んだ島津家によって制圧されてしまう。


 その島津家による九州島地方平定統一を目的に立ち上がった島津4姉妹政権時代に成って、更に北への侵攻作戦を鑑み、守りを固くした改修工事が行われた。


 しかしながら、キリヤ公国連合国によるアマテラス九州平定征伐戦が行われた事によって、落城してしまった。


 南に三財川、北に一ツ瀬川に挟まれた岩戸原の標高60メートルほどの台地の縁辺に建てられ、北側、東側、南側は絶壁で、唯一平地に繋がっている西側には7つもの空掘を設けてありそのど真ん中にある木城高山に築かれたのが、新納院・高城である。


三俣院・高城


  日向国南部地方の一つで、日向三高城の中で真ん中に位置している平山城のことで、元々は伊東家の持ち城だった。


 しかしながら、島津家による九州島地方平定統一を目的に立ち上がった島津4姉妹日向国に攻め込んだ島津家によって制圧されてしまう。


 その島津家による九州島地方平定統一を目的に立ち上がった島津4姉妹政権時代に成って、更に北への侵攻作戦を鑑み、守りを固くした改修工事が行われた。


 しかしながら、キリヤ公国連合国によるアマテラス九州平定征伐戦が行われた事によって、落城してしまった。



穆佐院・高城むかさいん・たかじょう


 日向国南部地方の一つで、日向三高城の中でも最も南に位置している平山城のことで、元々島津家領でもあった穆佐院地方を治め、日向国から北九州方面に睨みを利かす島津家の拠点城。


 島津・衣恵与・家久の居城でもあり、島津家本領地の一つでもある大隅国を守る最前線の居城でもある。


 しかしながら、キリヤ公国連合国軍によるアマテラス九州平定征伐戦が行われた事によって、落城してしまった。


  


佐土原城


 日向国南部地方の一つで、元々は伊東家の拠点城だった城の一つだったが、島津家による九州島地方平定統一を目的に立ち上がった島津4姉妹日向国に攻め込んだ島津家によって制圧されてしまう。


 その島津家による九州島地方平定統一を目的に立ち上がった島津4姉妹政権時代に成って、更に北への侵攻作戦を鑑み、守りを固くした改修工事が行われた。


 しかしながら、キリヤ公国連合国によるアマテラス九州平定征伐戦が行われた事によって、落城してしまった。


島津荘しまづのしょう


 アマテラス神皇国地方・島津大名王家の発祥地で、歴代の幕府王朝が認めた永世中立地方と定められた、島津家の隠居所と成って居る荘園の一つで、お米や作物を含めた石高は15万石と言われており、贅沢さえしなければ、のんびりと暮らして行ける土地と成って居る。


志布志荘園


 島津家の隠居所と成って居る荘園の一つで、お米や作物を含めた石高は15万石と言われており、贅沢さえしなければ、のんびりと暮らして行ける土地と成って居て、内陸部に在る島津荘しまづのしょうとは違い、港と砂浜海岸が広がって居る立地を生かした別荘地と成って居る。






足柄室町幕府将軍王朝と足柄家


 アマテラス神皇国の第三次内戦である太平記戦役・南北将軍王朝戦争を征した足柄・高子・尊氏は、第四将軍王朝・足柄家として、山城国・皇都・平庵京の室町に幕府を開いた事から、足柄室町幕府将軍王朝を名乗ったて第四次政府を開いた名称のこと。



 第13代足柄幕府将軍王・足柄・一輝・宗輝は、自身が居なくても織田家の織田・和紗・信長がアマテラス神皇国を統一するだろうと考えもあり、キリヤ公国連合国からの誘いを受ける形で、足柄室町幕府将軍王朝を閉じる事になった。


足柄室町幕府将軍王政権・足柄室町幕府将軍王政府


 アマテラス神皇国の第三次内戦である太平記戦役・南北将軍王朝戦争を征した足柄・高子・尊氏は、第四将軍王朝・足柄家として、山城国・皇都・平庵京の室町に幕府を開いた中央政権と政府のこと。


 第13代足柄幕府将軍王・足柄・一輝・宗輝は、自身が居なくても織田家の織田・和紗・信長がアマテラス神皇国を統一するだろうと考えもあり、キリヤ公国連合国からの誘いを受ける形で、足柄室町幕府将軍王朝を閉じる事になった。


 後に足柄室町幕府将軍王政権の政権地盤と政権は、織田家が中心と成って建国したアマテラス織田自治神皇国・将軍王政府へと引き継がれた。




足柄将軍王御所殿


 アマテラス神皇国の第三次内戦である太平記戦役・南北将軍王朝戦争を征した足柄・高子・尊氏は、第四将軍王朝・足柄家として、山城国・皇都・平庵京の室町に幕府を開いた際に建てられた将軍王の御殿の事で、中央政府の首脳が集まって将軍王と共に政権運営をする場を兼ねた官邸でもある。


大名王


アマテラス神皇国内で、所領の長として納めている武士の棟梁を名乗る者を指して居る。



守護大名


 アマテラス皇国足柄幕府将軍王朝の将軍王が、幹部に任命した者の一族が治める領地を持って居る大名王の事で、権力・国力・軍事力が桁違いの家柄が多かったが、平庵京の乱を切っ掛けにした第4次内戦たるアマテラス戦国時代の到来により、全国規模の内乱勃発の影響で権威が失墜をしつつある。 


 当然の事ながら、力を失えば下剋上される事もしばしば見受けられる。


守護代大名


 守護大名王から氏名された人物が守護代理として治める大名王と成った役職の事で、最初の頃は本当に代官みたいな役どころだったが、次第に主筋である守護大名を脅かす存在と成る人物も増え始めて行く事の成ってしまう。




足柄将軍王御所殿の乱


 事の発端は、マギアンティア世界統一暦・1545年の春頃のことである。


かつてアマテラス皇国足柄幕府将軍王朝の畿内管領職を勤め、播磨国・摂津国・河内国・和泉国・阿波国・讃岐国・淡路国・大和国・丹波国と9カ国を領国として居た大大名王家であり、足柄幕府将軍王朝政権に措いて大名王家筆頭の地位に遭った大名王家の武将、細川元晴。


 彼は権謀術数を駆使する野心家にして、足柄家を傀儡国家とする政治体制を敷きながら、アマテラス神皇国を統一平定し、新たな将軍を目指していたと言われて居る人物。

 三好家・松永家・赤松家・筒井家・六角家・波多野家・河野家・三木家・小寺家等々と言った機内地方の名だたる大名王家・国人衆らを従えて居た。


 しかしながら、アマテラス神皇国足柄幕府将軍王朝12代目にして、足柄家の全当主であり、13代目当主である足柄・一輝・宗輝の母親たる足利・阿子・義晴から将軍王の位と足柄家当主の座を譲られ、新将軍王と成った足柄・一輝とは、政治理念と国家将来像と言った、あらゆる分野での主義主張と考え方の方向性の違いから、事あるごとに衝突。


遂には足柄将軍王御所殿の乱と言われる政権戦争へと発展してしまう。


 その裏で暗躍をして居た黒幕なのが、荒んだ世の中に嫌気が差して居た松永・真澄・久秀が、何もかも滅茶苦茶にしてやろうと目論んで居たからだと言うのだから質が悪すぎると言えるだろう。


 三好家に与するフリをしながらも、三好・慶香の率いる勢力軍勢と細川勢力軍とが、機内で壮絶な戦いを繰り広げさせられ様に暗躍をして居たのである。


 真澄は、巧みにその両者の間を手玉に取り、首都の皇都・平庵京・足柄将軍王御所殿を両軍に襲わせたのである。



 細川と三好の両者の目的は、アマテラス皇国足柄幕府将軍王朝一三代目の足柄・一輝・宗輝の身柄の確保であった。


 それに乗じて真澄は、新しい世の中を自分自身の意のままに成る様にする為、一輝を暗殺し、従姉妹の足柄・栄花・義栄を擁立させようと目論んで居た。


 

 だが、一輝は寸での所で塚原・伝江・朴伝を始めとする味方に助けられた。


 そして、兼ねてから助けると言って来て居た織田・和紗の元へと脱出し、織田軍を筆頭にして、徳川軍・浅井軍・朽木軍・若狭武田軍・筒井軍の連合軍が一斉に山城国に在るアマテラス神皇国の首都・平庵京へと進軍。


 元晴と戦った新生足柄幕府王朝政権上洛平定連合軍は、三好家・松永家を下し、山城国・北西部に位置して居る将軍山城へと落ちて行く。 


 元晴は機会を見て、本拠地である丹波国・亀山城へと退却し、態勢を整える積りで居たが、同地ににて討ち取られたと言う。



 一輝は、新生足柄幕府王朝政権上洛平定連合軍上洛平定連合軍の手を借りて、首都の皇都・平庵京を奪還したのだった。


これが世に言う足柄将軍王御所殿の乱と言われる政権戦争の顛末であった。



平庵京の乱


 事の起こりは、8代将軍王である足柄義教が守護大名家同士の政権争奪戦により、暗殺されてしまった事が発端である。


 その犯人は不明のままと成り、その後継者に誰を押すのかで争う事に成る。


 先ず白羽の矢が立ったのが、8代将軍王である足柄義教の長男である足柄義勝だったが、この義勝は9代足柄将軍王と成ったが、その後一年が経ったある日の事、僅か9歳と言う年齢でこの世を去ってしまう。


この早世に付いて、巷では毒殺では無いかとも囁かれた。


 長男が無くなれば次男が選ばれるのは道理と言う物で、10代足柄将軍王と成るが、流石に8歳で跡目をと言うのは体裁が良くないし、将軍王も務まらないだろうとして、16歳まで就任を遅らせてから就任と成った


 それから10年後のこと、その義政がとある問題を起こした。


 足柄義政と言う人物は、とにかく芸事に傾倒するのが大好きな性格で、政治なんぞ二の次、三の次と言う性格。


 25歳までに跡目を決めてさっさと将軍王を辞めたいと考えて居た。


これが平庵京の乱の切っ掛けと成った出来事である。


 手っ取り早く後継者を決めるべく、義政が20歳の時に、一つ下の弟である足利義稙を後継者に指名するが、25歳の時に息子である足利義尚が産まれてしまう。


 これに妻である足柄富子は、我が子が将軍王に慣れないと不満を漏らした。


 その事に付け居ろとうと義尚の後援を申し出て、義政に後継者にするように迫ったが、義稙の後援と引き換えに管領職を任される予定だった細川勝元と細川政元兄弟が待ったを掛けた。


 しかしながら、この後継者争いは、只の言い争いだけで済む筈も無く、両者はとうとう在領地の国元から大軍を率いて皇都・平庵京へと入京。


 両軍は皇都・平庵京のど真ん中で激突し、平庵京の乱が勃発した。 


 更に厄介な事に、山名宗全は、味方すると言って来た大内政弘を引き入れた事により、其れならばと細川勝元と細川政元兄弟も手当たり次第に援軍要請をしまくった。


 これにより平庵京の乱を切っ掛けにした第4次内戦たるアマテラス戦国時代の到来により、全国規模の内乱勃発が止まらなく成り、果ての無い戦いが始まって行く事に成る。 


 さて、北条家の祖である伊勢・新九郎・盛時は、平庵京の乱の時に何をして居たのかと言うと、10年間も皇都・平庵京で戦って居た東西軍に対して停戦を呼びかけ、取り敢えず足利義稙を10代足柄将軍王とし、その間に何か遇った場合は、その弟である足柄義澄を11代足柄将軍王とし、何も無ければ義尚に跡目を継がせれば良いのでは?と提案して、争いを止めたと言う。


 その後足柄将軍王家では、義稙が病気を患って将軍王を退くと、足柄義澄を繋ぎに11代将軍王と成り、12代将軍王と成る予定だった義尚は、結局は病死。


 12代将軍王と成ったのは、義澄の長女であった足利・阿子・義晴が就任するのであった。 


 この騒動を収めた功績で、伊勢・新九郎・盛時は、伊豆国の守護大名王に任じられ、伊豆へと下向して行ったのであった。


これが後の北条家こと、後北条大名王家と成って行く事に成る。



太宰鎮守府城


太宰鎮守府城は、第二将軍王朝である藤原家の藤原平庵京幕府将軍王朝が、国外からやって来る異国軍や海賊への防衛政策の為に造られた九州島地方の防衛要塞城の事である。


 しかしながら、此処が使われたのは、アマテラス神皇国地方の歴史上、只の一回だけで、その一回と言うのは、ゲルニアン帝国がアマテラス神皇国へと大艦隊を使って大軍を派遣して攻め取ろうとした、ゲル交戦役合戦と言う戦いだった。



 ゲルニアン帝国は、ローマリャニア帝国の商人であるマルコス・ポワーロが、大華天帝国・クーロンに渡った時に、アマテラス神皇国地方に渡った事が有ると言うクーロン人商人から見聞きしたと言う事を書き記した東方アマテラス神皇国地方見聞録の内容で、アマテラス神皇国地方は黄金が腐るほどに採れると言う話を本気で信じてしまった為、その黄金鉱山を手中に収めてようと軍勢を派遣。


 しかしながら、遠征に出かけたゲルニアン帝国東方海域征伐軍は、アマテラス神皇国地方の武士たちにコテンパンに撃退されてしまった。



 この大戦でアマテラス神皇国は歴史上初めての対外戦争を経験するが、これが原因で北条執権政治政権が没落してしまう事に成った。


 そんな謂れの有る太宰鎮守府城の今はと言うと、神社の様な扱いの建物と化して居り、管理の方も空き家と言っても差し支えないと言う状態に有った。


 後に島津大名王家国との戦いであるアマテラス神皇国・九州地方平定征伐戦こと、略称名・九州島地方戦役後には、九州島地方方面防衛庁舎・太宰鎮守府城と言う施設へと改修と修繕工事が行われる。


 九州島地方方面防衛庁舎・太宰鎮守府城は、国防庁舎でありながらも、ゲル交戦役合戦と九州島地方戦役で亡くなった人々を慰霊する施設を併せ持ったアマテラス太宰府天満宮とアマテラス太宰鎮守府城と言う二つの施設から成る観光名所と成って行く事に成る。


 特にアマテラス太宰府天満宮にお参りをすれば、絶対に勝てる様に成ると言う評判が付く事に成った。


 マルコス・ポワーロ


 数百年前に実在したローマリャニア帝国の商人で、大華天帝国・クーロンに渡った時に、アマテラス神皇国地方に渡った事が有ると言うクーロン人商人から見聞きしたと言う事を書き記した東方アマテラス神皇国地方見聞録の作者である。


 遠方の国々にアマテラス神皇国と言う武士たちが治めて居ると言う島国を紹介したが、本人はアマテラス神皇国へは渡海して居らず、全て見聞きした人物たちからの又聞き話を掻き集めただけであった。


 しかしながら、東方アマテラス神皇国地方見聞録に書かれて居るアマテラス神皇国地方は、金銀銅を含め鉱物資源が豊富な島国で、中でも金銀は腐る程に算出すると言う噂話は、ゲルニアン帝国がゲルニアン帝国東方海域征伐軍をアマテラス神皇国地方に派遣させると言う事態に発展してしまう。


 だがしかし、遠征に出かけたゲルニアン帝国東方海域征伐軍は、アマテラス神皇国地方の武士たちにコテンパンに撃退されてしまった。



 この大戦でアマテラス神皇国は歴史上初めての対外戦争を経験するが、これが原因で北条執権政治政権が没落してしまう事に成った。



東方アマテラス神皇国地方見聞録


 数百年前に実在したローマリャニア帝国の商人であるマルコス・ポワーロが書いた100パーセント又聞き取材を基にして書き記したアマテラス神皇国地方のガイドブックのこと。


遠方の国々にアマテラス神皇国と言う武士たちが治めて居ると言う島国を紹介したが、本人はアマテラス神皇国へは渡海して居らず、全て見聞きした人物たちからの又聞き話を掻き集めただけであった。


 しかしながら、東方アマテラス神皇国地方見聞録に書かれて居るアマテラス神皇国地方は、金銀銅を含め鉱物資源が豊富な島国で、中でも金銀は腐る程に算出すると言う噂話は、ゲルニアン帝国がゲルニアン帝国東方海域征伐軍をアマテラス神皇国地方に派遣させると言う事態に発展してしまう。


 だがしかし、遠征に出かけたゲルニアン帝国東方海域征伐軍は、アマテラス神皇国地方の武士たちにコテンパンに撃退されてしまった。



 この大戦でアマテラス神皇国は歴史上初めての対外戦争を経験するが、これが原因で北条執権政治政権が没落してしまう事に成った。


 その内容には、中尊寺金色堂と金閣寺成る黄金で作られた寺院や銀塊で作られた銀閣寺成る寺院が有り、何れのアマテラス人の家々は、全て豊富に算出される鉱物資源で造られた物であると書かれて居るが、真実は熱心に取材をして来たマルコス・ポワーロが、大阪弁訛りや京都訛りで話すクーロン人商人たちに揶揄われた噂話を真に受けと言うのが真実である。


 詰まり、ジョーク話だったのだが、取材をして居たマルコス・ポワーロは、本気にしてしまったようであると言うのは、何とも笑えない話と言えるだろう。



ゲル交戦役合戦


 東方アマテラス神皇国地方見聞録に書かれて居るアマテラス神皇国地方は、金銀銅を含め鉱物資源が豊富な島国で、中でも金銀は腐る程に算出すると言う噂話は、ゲルニアン帝国が、ゲルニアン帝国東方海域征伐軍をアマテラス神皇国地方に派遣させる対外戦争へと突入した出来事のこと。


 この遠征に出かけたゲルニアン帝国東方海域征伐軍は、アマテラス神皇国地方の武士たちにコテンパンに撃退されてしまった。



 この大戦でアマテラス神皇国は歴史上初めての対外戦争を経験するが、これが原因で北条執権政治政権が没落してしまう事に成った。




 竜珠王国りゅうきゅうおうこく


  王都は那覇市 王宮は朱里城 王国本島は沖名和島



 アマテラス列島南西部に広がる島諸島で構成される尚王氏が治めて居る小国で、アマテラス神皇国とユーラシアン大陸等の地域と中継貿易を生業とする事で成り立って居るが、近年では薩摩国の大名王家である島津家に戦で負けた事で、従属させられて居るが、ゲルニアン帝国とも島津家の傘下に入れられる随分前から属国扱いを受けている二重従属をして居る珍しい外交体制を取って居る国。


 現在の国王は尚麗ショウ・レイ王と言う人物。後にキリヤ公国連合国へと加盟する事に成る。構成地域は竜珠諸島と先島諸島と奄美諸島と吐噶喇列島と成って居る。


天城諸島あまぎしょとう 


 竜珠王国が統治して居る薩南諸島を構成する諸島の一つで、サトウキビが取れる貴重な島であり、島津家の重要な交易地だが、実状は3年前に島津四姉妹に負けた竜珠王国は、島津家に統治権を取られた状態に在る。

 



竜珠諸島りゅうきゅうしょとう


 竜珠王国の本島の事で、先島諸島と奄美諸島と吐噶喇列島・大湾島を併せたのが竜珠王国である。


大湾島


 竜珠王国中でも最大島で、地球で言う台湾島と酷似して居る島。


 王国で消費される食料供給源の8割近くがこの島で作られて居る。





種谷島


  ユーラシアン大陸を経て島津家の領土てある種谷島に伝わったとされる火縄式の鉄砲。

 アマテラス皇国内では種谷島式火縄銃または普通に火縄銃とも言われるマスケット銃の事だが、ゲルニアン帝国を含めた一部の技術立国で製造と流通が為されて居る最新武器だが、キリヤ公国連合国と言う転移国家と現地国家の連合勢力の出現により完全に旧式化してしまった。


フランキー砲

 この世界で使われて居る青銅式の大砲の事で、弾倉交換式で着火させて撃ち出す大砲だが、暴発する危険性を持ち合わせて居る。弾の飛距離は5キロ程度。


ガルドリン砲


 この世界では最新式と言われて居る大砲の事で、暴発する危険性は大分無く成った。弾は砲門からの弾込め方式であり、飛距離は8キロから10キロ前後と成って居る。




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