第8話 ルナリアの帰宅
「いやぁ、全く、参ったよ。たくましいね、彼女は」
そう言うニックは後頭部に大きなたんこぶを作っていた。
「アイシャとジェリコが喧嘩しててね。それを止めに入ったんだ。そしたら巻き添えを食らってアイシャにボコボコにされてしまって」
「えぇ…それは怖い。というか何で喧嘩をしてたの?」
「アイシャにいつもつき従ってる子、いるでしょ?」
「ああ、カンタくんだっけ?」
「そうそう。そのカンタくんの描いてた絵にジェリコが水を引っ掛けてしまってアイシャが切れたんだ」
ジェリコも今回は悪気は無かったらしいけど、そう言うニックは苦笑していた。
「それは気の毒だったな、ニックもジェリコもカンタもアイシャも」
「うん。まあ、今回ばかりは事故だった。お互い気をつけることにしよう」
確かにどうしようもないことだったのだろう。だけど、
「あのアイシャもそこまできれることがあるんだな」
あの温厚で誰にでも優しいアイシャが。彼女にとってカンタには掛け替えのない何かがあるのだろうか。わからない。でも大事にしていることは確かで。誰かを大切にしようと言う気持ちは尊重されるべきで。やり過ぎかもしれないけどヒロトにはアイシャを正す資格は無いと感じた。
「まっ、順調に勝手が分かってきてるみたいだしヒロトの裁量に任せるよ」
ニックはそう言って仕事場に戻っていった。ヒロトも手を止めていた洗濯を再開することにした。
孤児院に来てから一週間が過ぎた。この一週間で四番街の地理もだいぶ頭に入ってきてお遣いも卒なくこなすようになったし、顔馴染みが増えて挨拶してもらえるくらいなった。まだまだヒルダ婦人やレティシア、ニックには及ばないが、仕事も上達してきていると思う。
そのせいかどうかは分からないが今日はヒルダ婦人とルナリアと一番街に行く予定になっている。ルナリアと一番街と言えば例の件が頭をよぎるが、入ったばかりのヒロトにルナリアの秘密を暴露するヒルダさんの意図も掴めない。謎は深まるばかりだ。結局ヒロトは午前中はその事で頭がいっぱいでなかなか仕事に手がつかないのだった。
途中キリタニ商会で注文をつけてからヒロトとヒルダ婦人、そしてルナリアは地上までやってきた。下層は十分な採光がなされているとは言え、直に太陽を浴びるのは実に一週間ぶり。ルナリアも心なしかそわそわしていると思う。この子は色々と分かりづらいのだ。
それはともかく。
古びたベルを鳴らして洒落たドアを開ける。
「お久し振りです。マスター!」
カウンターでグラスを拭いていた男性が手を止めてこちらを見た。
「おお、ヒロトか。久し振り。婦人もお元気そうで」
やって来たのは以前ヒロトがお世話になったマスターの店だった。
「ええ、おかげさまで」
「ヒロトも良くやってくれてますし、彼に仕事を頼んで正解だったわ」
婦人は本当に満足そうに言った。
「左様ですか。順調にいってるようで何よりです」
マスターは柔和な笑みを浮かべる。目がきらりと光った。
「どうです?新作のコーヒーでも?お話を聞かせてください」
「「「是非!」」」
マスターの入れるコーヒーは繊細で上品な美味しさを味わえることで有名だ。それは、嗜好品の類をあまり飲んで来なかったヒロトにも分かる程で、つまりこの誘いを受けない手は無いということだ。
そうして 、ヒロトとマスター、ヒルダ婦人はコーヒーを片手に、時間を忘れて思い出話に花を咲かせていくことになる。そして何故かちゃっかり自分のコーヒーを注文したルナリアも至福のひとときを過ごしたようだった。
しかし楽しい時はすぐに終わりを告げるもので、
刻限に気づいたヒルダ婦人の一声で一行は慌ただしく暇を告げる。去り際にマスターからコーヒー豆を貰いヒロトたちはよく晴れた空のもとへ再び繰り出したのだった。
ネルスは、皇帝から拝命された貴族により統治されている。そこでは帝国へ一定の税金を納める代わりにある程度の政治的な裁量が任されていて、ネルスにおける貴族とは概ねそのような税収で成り立っている事が多い。つまり今ヒロトたちの目の前にある屋敷も多くの人々の血税のもとに建てられたということだ。
「大っきいですねー」
ヒロトは目の前にそびえ立つ綺麗な意匠の施された屋敷に圧倒されていた。
ここは貴族街。一番街の神殿をさらに北につき抜けたところに位置する立派なお屋敷が建ち並ぶ区画だ。どこの屋敷も当然のように庭付きであり、潤沢な資金を投じてよく手入れされているのがわかる。貴族街の再奥にはこのネルスを統治するフィステリア家のお屋敷がありここからでも一段と高い荘厳なつくりを見て取ることができた。
時間がないので見物もそこそこに足早に目的地に向かう。道中ヒルダ婦人が意を決したように話しかけてきた。
「ヒロト、うすうす気づいているとは思うけどルナリアは孤児では無いの」
そう言って婦人はルナリアの方に目をやる。彼女は少しうつむいていたが毅然とした目つきで前を見ていた。
「本名は、ルナリア=フィリス=メノルイン。代々ネルスの財務を担う貴族家で、彼女はそこの側室の連れ子だったの」
「隠してたことは謝るわ。でも彼女はここにいては危険だった。だから孤児として私のところで引き取ることにしたの」
ならば、どうして今日ここに来たのだろう。
「でも親子が引き離されるというのはとてもつらい」
婦人は噛みしめるように言う。
「だから、2月に一回。当主が評議会でいない間に彼女の母親に会わせているのよ」
ヒロトにはその悲しさも、恋しさもよく理解できなかった。
事情を知るメイドさんにルナリアを引き渡してからヒロトたちは手持ち無沙汰になった。さすがに四番街の一般人が屋敷に一緒に入れるほど帝国貴族の脇はあまくない。ここまでの道中、オロフに居たとき以上に帝国の支配が強まり街が妙な緊張感に包まれていることにヒロトは気づいた。最近は帝国と周辺諸国が何かとつけて小競り合いをしていると言うし情勢はどうしたって良くはならないようだ。
「今の状態を嘆いたってしょうが無いしね」
不意にヒルダ婦人がつぶやく。
それはヒロトがネチェロ孤児院に来て、みんなと出会って思ったことだ。自分の境遇を悲観していてもどうにもならない。だから前を向く。向かざるを得なかったのかもしれない。振り返る間も無くて。それでもみんな、院の子供たちはそうした術を持ち合わせているのだ。
そんな人たちの周りでヒロトのような部外者がかわいそうだと同情をする。それはひどく愚かしいことなのかもしれない。だから、
「今度みんなで一番街まで遠足に出かけましょう。幸い全員が覚えられそうだし」
「そうですね。お弁当もっていって大樹のそばで食べましょう」
ヒロトとヒルダさんは約束を交わす。前を向くために。