一人称作品の難しさについて、底辺作家はかく語りき
お酒の力を借りて、底辺作家である私(我輩)が日頃思っていることを一人称の形で垂れ流してやろうと思っている。これを読んで「得られるものはおそらくない」ので、暇つぶし以外の人はブラバされたい。
今、我輩は、デリリウム・トレメンスと言う名の、ピンクの象(卑猥にあらず)が書かれているビールを飲んでいる。酵母臭くてキレはないんだけど、ミルクみたいにコクが合って、傷だらけの心にしみるぜ。
さて、一人称は、感情の表現に向いていて、三人称は、客観的な事実の提示に向いている。とよく言われる。「ハーレムものは一人称のほうがいい!」とか、皆様は、目にされたことはないだろうか? 一人称で推理小説を書くと、主観と偏見、誤解と嘘のせいで収集がつかなくなるし、三人称で感情を表現しようとすると、行動がブレた瞬間サイコパスになる。ここまでは、コンセンサスが得られるかなぁ? と思うのだが、いかがだろうか?
例をあげてみるとしよう。有名な芥川の作品に「藪の中」というものがある。一人称を寄せ集めた推理物とでも言おうか。主観と偏見、誤解と嘘の結果、真相が藪の中に陥ってしまうという話だ。しまいには神視点ならぬ幽霊視点なんてものも出てくるが、これも一人称なので収集がつかない。
なに? 一人称対話形式の「藪の中」を一人称の例に持ってくるな? いやいや、落語的、あるいは描出話法的な会話や独白こそが一人称の真髄じゃないか? ダメ? なろう小説的じゃない? そんなバカな。sideがどうのこうの言うインテリ気取った阿呆な輩を一瞬で黙らせる好例なのに。
だいたい話は逸れるが、そもそも論として、一人称はsideがなければ客観的な情報を提示できない。三人称をだましだまし織り交ぜる手もあるが、絶対に良作扱いはされないぞ。どうしてもダメ? じゃあ、ドグラ・マグラでいいよ。あれも同じ例だ。
例の通り、認識に主観と偏見、誤解と嘘を含む一人称は、システマティックな長編には向かない(断言)。もちろん、あえて読者を混乱せしめる効果を狙った作品ならば名作足り得るけれども……。というか究極の一人称は、脳内情報を垂れ流す文なので、読むと少なからず洗脳される。長編で読むと頭おかしなるで?
ジョイスのユリシーズの最終章とか読むと精神疲労がヤバイからな? 漱石の我輩にゃんこのほのぼの社会風刺ものとかは、全然システマティックじゃないが、大分健全だ。
結局の所、一人称は登場人物の少ない短編か、一人称対話形式か、ほのぼの社会風刺ものにしか向かない。ホラーやコメディ。これは、一人称の情報量の少なさが有効に働く例だけれども、やはり、登場人物の少ない短編に回帰しよう。ほのぼの社会風刺以外の長編の一人称と言うと、貧乏で病弱な高学歴主人公が小さな明るさ見つけました的な、あるいは罪を懺悔します的な暗い純文学ぐらいしか思いつかない。あれは、読むと死にたくなるからNGだ。有名な作家先生たちはあんなものばかり読んでいるから自殺するのだ。最近、我輩はそんな事に気がついた。あっ、ご飯炊けた。
三人称の方は、行動がぶれたときがヤバイ。善行してたやつが、同時に裏で正反対のことをしてました。とか、完全にサイコパス主人公だよ? 例は、なろうにいくらでも転がっているのであえてあげない。書籍化されている作品ですらそうだ。我輩のような底辺作家じゃないぞ。偉大なる、ブクマ10000超えとかの上澄み数パーセントの有名作者様だ。
「人称のブレの指摘を受けるとき」、おそらくそれは、一人称で小説を書いているときなんじゃないかと思う。ラノベでは三人称作品に丸括弧で感情表現をぶっこむ手法が確立されているので、三人称では、むしろ行動のブレのほうが問題点として指摘されるんじゃないかな?
そういう意味では、ラノベは三人称のほうが怒られにくい。一人称の方は、おそらく読者が増えたらめちゃくちゃ突っ込まれるぞ。「主人公がまだ知らない情報を、文に入れてしまっている。これは誰の視点ですか?」とか、「主人公が気にしなさそうな細かい箇所を描写してしまっている」とか、「〇〇はそんなこと言わない」とか、「思う」でおわってないのはダメだと思いますとか。ツッコミどころには事欠かない。
結論。主語が省略されうる日本語で、うまい一人称ラノベを作るのはハードモードにすぎる。(訳、あんまり一人称作者様をいじめないでください)
まぁ、拙作「いたもん」は一人称だけど、読まれないから批判もされないけどな(号泣)