夜霧の記憶
登場人物
桜野翔太……主人公。記憶が無い。冷たい雨が降る夜、いつのまにか細い路地にいた。
高山菜月……翔太を見つけて自分の部屋に同居させる。大学2年生。
西野楓……回想シーンに出て来る。菜月の一個上の女の人。高校時代の菜月達の先輩。
内川咲希……回想シーンに出て来る。菜月の一個上の女の人。故人。
中村聡美……花畑と死の国をつなぐ川の渡し守。
——そこは、細い路地だった。
どうして僕がここにいるのか、僕は知らない。気がついたら、ここにいた。とても暗くて、小さな街灯が道を照らしてるから、今はきっと夜だ。冷たい雨が降っていて、冷たい風も吹いていて、凍え死にそうなぐらい、寒かった。道が分からないから何処か暖かいところに行きたくても、行けなかった。
細い路地だからか、元々の人通りが少ない。ようやく人がやってきて助けを求めようとしても、その人たちは知らんぷりをしていなくなる。
何度も同じことが繰り返され、僕はちょっと諦め始めていた。
と、その時。
1人の男の人が僕を見て、驚いたような声を出し、
「大丈夫? 寒くないの?」
僕に傘を差し出しながら声をかけてくれた。
「……正直言って、寒いです。ありがとうございます」
僕の言葉に、何故か男の人はきょとんとした。
でも。
「……こんなの、当たり前だよ」
笑顔で僕にそう言ってくれた。
「ありがとうございます。あの、お名前は……」
「俺の名前? ……俺は高山菜月」
高山さんの声は、どこか困ったような、戸惑ったような、そんな声だった。
寒さのせいか、震える声で高山さんが続けた言葉は。
「——お前の名前は? 何でこんなとこにいるの?」
「……名前?」
そんなの簡単な質問だと、そう思ったのに。
なのに、改めて問われた、その時に気付いてしまった。
思わず、俯く。
信じられない。信じたくない。
けれど……名前……名前が、分からない……!
どうしたの、と声をかけてくる高山さんに、僕は。
「僕は……名前が分からなくて。あの、もっと言うと、何でここにいるかも分からなくて……」
僕の言葉に、高山さんは少しだけ考えてから、こう言った。
「……じゃあ、とりあえずうちに来ない? 一人暮らしだし、全然気にしないでいいから」
その言葉が、本当は飛び上がりそうなほど、嬉しかった。
だけど、相手は見知らぬ人。だから、僕は飛び上がりそうになるのを抑えながら、頭を下げる。
「……なら、お言葉に甘えさせていただきます。ありがとうございます」
——と言うわけで、僕は高山さんの家にお邪魔することになった。
「名前が分かんないと呼びづらいな……そうだ、俺が仮の名前をつけてやるよ。
……んー、そうだなぁ……桜野翔太! こんなんどうだ?」
「——いい名前ですね! ありがとうございます」
名前があることが、こんなに嬉しいなんて思わなかった。名前があると何故か、自分が自分であるような、そんな安心感を得られた。
——僕は、いまは桜野翔太だ。
本当の名前は違う名前だろう。それでも構わない。僕には名前があるのだから。
「……あとさ、敬語はやめてくんないかな? 同じぐらいの年頃だし、なんか変な感じしかしないしさ」
「分かりま……分かった」
僕としては、敬語をやめる方が変な感じなんだけどなぁ。でも、たしかに僕と高山さんは同年代に思える。なら、いいか。
「あと、俺のことは菜月って呼んで。俺も翔太って呼ぶから」
「わか……分かった」
そんな会話をしているうちに、高や……いや、菜月の家に着いた。
「今はここで一人暮らしだ」
菜月はそう言って部屋の電気をつけた。
「これでとりあえず体を拭きなよ。服は貸してあげるから」
「うん」
部屋は5部屋。そのうちの一部屋、洗面所とお風呂のある部屋に僕はいる。
「寒いんなら風呂にも入っていいよ。沸かしてあるからさ」
「ありがとう。入らせてもらうね」
言葉に甘えて風呂に入った。
じわじわと体が温まった。本当に体が冷えていたんだ、と実感した。ついでに髪や身体も洗わせてもらった。気持ちが良かった。
僕が風呂から上がると菜月はそこでタオルを用意していた。
「あ、上がった? タオルはこれを使って。あとこれ、下着とパジャマ。よかったら使って。あと、俺これから風呂入るけど、部屋の中、自由に見てていいから。そこのでかい部屋がリビング、キッチン、ダイニングで、そこがトイレ。あの部屋は空き部屋だから、翔太が使っていいよ。こっちの部屋は俺の部屋。まぁ、どの部屋も自由に見てもいいよ」
「分かった。ありがとう」
僕は髪の毛をさっさと拭き、着替えて、部屋の中を歩き始めた。髪は不思議なほど、早く乾いた。
まずは、僕が使っていいと言われた空き部屋だ。
——ん?
空き部屋にしては荷物がたくさんあるなぁ。
空き部屋と言われたから、てっきり何もない部屋なんだと思っていたけど、意外にも机や椅子、ベッドなどが揃っていて、本棚には本があった。クローゼットの中には服もある。
まるで……。
「……まるで、数日前まで同居人がいたみたいだ」
思わず僕は呟いた。
次に向かったのは、LDKがひとまとまりになっている部屋だ。キッチンを見ていると、皿が一人暮らしにしてはやけに多かった。不思議に思って数えてみると、2人分の皿がある。
やっぱり、僕の前に同居者がいたんだ。
ふと疑問に思った。
「……同居していた人は、どこに行ったんだろう? 何で同居をやめたのかな?」
気が合わなくなったのかな? それともまだ帰ってきていないのか——いや、それだとあの部屋を空き部屋だと言うわけがない。やっぱり同居していた人が、いなくなったんだ。なら、どうして?
僕は今度は菜月の部屋に入った。菜月の部屋はちょっと散らかってはいるけどある程度は片付いていて、1人で過ごすには十分な程だった。ただ……。
「——ん?」
気になるものが、1つだけあった。
それは、机の上にある写真たての中にある写真だった。
「——これ、菜月と……僕の写真?」
その写真には、菜月と肩を組んで、僕とそっくりな人が写っていた。
気になって写真を取り出し、その裏を見てみた。そこには鉛筆でメモのようなものが書かれていた。
『2020/08/01
翔太と 東京にて
とっても楽しかった!ありがとう、翔太』
「——見られちゃったか、それ」
急に菜月の声がして、びっくりした。
そして、その声があまりにも暗い声だったから、さらにびっくりした。
「ごめん……見ちゃいけないものだった?」
「……いや、むしろ見せようと思ってた」
「えっ?」
予想外の言葉に、拍子抜けした。
「……ここで話すのも何だし、リビングに行こうよ」
「……分かった」
そして僕らは場所を移動した。
リビングで、2人で並んで座る。
気まずい雰囲気の中、菜月は話し出した。
「……この部屋を見ていて、気付いたことはある?」
「……うん。あるよ。この部屋は、数日前まで同居人がいたみたいだ。その証拠に、僕が使っていいと言われた部屋は全くもって空き部屋っぽくなかったし、皿も2人分ある」
菜月はうなづいた。
「うん、その通りだよ。
——この部屋には、昨日まで同居人がいた」
「昨日まで?」
だいぶ最近のことなんだなぁ、と驚いた。
「これから話すのは、昨日までいた同居人の話だ」
「その同居人の名前は、桜野翔太って言うんだ」
「えっ⁉︎」
僕につけてくれた仮の名前と……同じじゃないか!
「クラス替えのない高校で同じクラスになって、部活も同じ吹奏楽部に入った。しかも運がいいのか、パートまで同じだった。俺も翔太もサックスパートだったんだ」
「それはすごいなぁ。本当に運が良かったのかなぁ。仲は良かったの?」
「仲は割と良かったよ。中学は違ったけど、親友と呼べるぐらいに仲良くなったんだ。……楽しかったなぁ。1年生の頃は毎日3人で——俺と翔太と楓先輩の3人で、楽しく過ごしてた。あ、楓先輩っていうのは、パートが同じで、俺らの1個上の先輩」
僕はうなづいた。菜月は話し続ける。
「2年生になって、サックスパートには1年生が2人入ってきた。女の子1人と、男の子1人。その計4人で楽しく過ごしたよ。翔太はパートリーダーになったっけ。懐かしいなぁ」
菜月は楽しそうに話していた。
「で、俺と翔太は、学部は違ったけど目指していた大学が同じだった。2人で志望校に合格しようって言って、実際、合格したんだ、2人とも」
「すごい!」
「でしょ? ……で、俺たちは同居を始めたんだ。去年はオリンピックがあったからそれを見に行ったよ。その時の写真が、さっきの写真なんだけど……」
楽しそうに話していた菜月の顔が、突然、曇る。
「……とっても楽しかったし、今思うと、俺たちはとっても幸せだった。だけど……昨日、あいつは……翔太は、帰り道に通り魔に殺されたんだ」
「えっ⁉︎」
今日出した声の中で1番大きな声を出してしまった。
「バイトをしてて帰りが遅くなって、夜中に外を歩いていたら闇に紛れて通り魔に……って話だった。ここ最近、連続通り魔事件が発生していて……それに巻き込まれたんだ」
「……そんな……ひどいことが」
「……背中を、ナイフで刺されたらしいんだ……」
「……」
なにも、言えなかった。
「俺は悲しみに暮れていた……けれどさっき、お前を見つけたんだ。さっき写真を見て分かったと思うけど、お前と翔太は、そっくりで……思わず声をかけていた。仮につけた名前も……あいつの名前を借りた」
「……そうだったんだ」
しばらく間が空いた。
「菜月」
「ん?」
「……僕、翔太さんの話、もっと聞きたい。だから、また機会があったら教えてよ」
「いいけど……どうして?」
そう問われて、僕は正直に話した。
「……翔太さんの話を聞いていると……なんだか懐かしいような気分になるんだ。その人のことを、知っているような気にさえなる」
「……」
——これは、本当のことだ。
名前を借りたせいなのかどうか分からないけれど、僕は懐かしいような、そんな思いに駆られた。
だから、黙り込む菜月に、僕は。
「だから、たくさん聞きたいんだ。翔太さんのこと。
……いや、勿論辛いのなら無理にとは言わないけど……平気かな?」
「……いや、もちろん、大丈夫さ」
「……ありがとう」
その後、軽食を食べて眠りについた。
薄暗い場所を、2人は歩いていた。どんどん暗くなる方へ、暗くなる方へと。
暗くなる方には、とても濃い霧がかかっていた。
先頭を切って走るかのように進んでいたのは、菜月がよく知る桜野翔太。その後ろに、菜月だ。
「菜月! 早く早く!」
「待てよ、翔太! 俺が足遅いのは知ってるだろ!」
「あれ、そうだっけ? 早く、早く!」
楽しそうに笑う翔太とは逆に、菜月は半ば焦っているように思えた。
「待てよ、翔太! 霧が濃くて進めないんだよ!」
菜月がそういったその時。
「そうか……なら僕が引っ張ってあげる」
「えっ……翔太?」
翔太の声の調子が変わった。
——いつもの翔太じゃない。
菜月がその口調の変化に戸惑っていると、
「ほら、行こう」
翔太がものすごい力で菜月を引っ張り出す。
その力は、菜月が知る翔太の力の強さを、はるかに超えていた。その力強さに、菜月は戦慄すら覚える。
「待てよ! ……どこに行くんだよ?」
「決まってるでしょ……僕が暮らす世界にだよ」
「!」
翔太が、振り返る。
その翔太の表情に、菜月は思わず固まってしまう。
——翔太が、怖い。
「僕……寂しいんだ。たった1人で……一人ぼっちで……だから、菜月も来てよ、こっちに……!」
「……待て、翔太は俺を——」
「待たない。僕はもう、待てないんだ……!」
翔太の声は泣きそうな声で、そして、途轍もなく恐ろしい声だった。
翔太は強い力で菜月を引いていく。菜月は引っ張られて濃い霧の中に入っていく……。
「——待って! 菜月を連れて行っちゃだめだ!」
不意に、声が響いた。
菜月の手に何者かの手が添えられて、翔太を引っ張っていく。
「……誰?」
「僕? 僕は……」
菜月の問いに声の主は少しだけ戸惑ったが、叫んだ。
「……僕は、桜野翔太だ!」
「そんな馬鹿な!」
元からいた翔太が叫ぶが、後から現れた翔太は怯まない。
「僕は……本当の名は分からない。忘れてしまったんだ。だけど……だけど、仮の名前を菜月がつけてくれたんだ。だから本当の名を思い出すまでは、僕は桜野翔太なんだ!」
「翔太!」
菜月が後から現れた翔太の名を呼ぶ。
「菜月、死の世界に引きずられちゃだめだ!
そして、桜野翔太さん! 菜月が本当に大切な人なら、菜月を死の世界に引きずり込むんじゃなくて……菜月の幸せを願う方がいいんじゃないんですか? たとえ遠く離れた場所でも……その想いは必ず、必ず菜月に伝わります!」
明るい所を目指して、2人は歩く。最初からいた翔太は、引きずられている。
——不意に、2人はもんどりうって転んだ。
菜月は自分の手首を見つめ、そして、元からいた翔太を見上げる。
そう。最初からいた翔太が手を離したのだ。
「その通りだね、桜野翔太……。
——菜月、ごめん。やっぱりね……僕は寂しかったんだ。だけど、これは間違っていたね」
「翔太……」
元からいた翔太と菜月は握手した。
「ごめん」
「いや、気にするなよ」
そして、元からいた翔太は、後から来た翔太に向き直った。
「ありがとう、桜野翔太。僕はもう少しで大切な人を死なせてしまうところだった。君のおかげで、僕は思いとどまれたんだ。ありがとう」
「いや……お役に立てたのなら、よかったです」
と、その時、元からいた翔太は首を傾げた。
「……桜野翔太。君は……」
「えっ?」
「君は……」
2人は同時に目が覚めた。
2人とも、汗でパジャマがびしょ濡れだった。それも今はそこまで暑くもない季節なのに。
「……なんだ……」
「……夢か……」
2人は同じ夢を見ていたのだった。
朝食の時、菜月は僕のために目玉焼きを乗せたトーストを作ってくれた。
「やっぱり翔太の方が目玉焼きを焼くのは上手いなぁ。上手く半熟にならないや」と言いながら。
菜月の言う通り、目玉焼きは火がしっかり通っていて、少しぱさぱさした。でもまあ美味しかったから僕は言った。
「でも菜月の目玉焼き、美味しいよ」
「そう? ならよかったんだけど……」
あまり喜ばない菜月を見て、あんまり素直じゃないんだなと思った。
「朝ごはん、作ってくれてありがとう」
「こんなの、当たり前だよ」
「じゃあ僕が皿を洗っとくよ」
「いいの? じゃあ頼むわ」
僕の方が少し早くご飯を食べ終えた。
僕が皿を洗っていると、いつの間に着替えたのだろうか、菜月が黄色に何かのロゴが入ったTシャツに、肌色の七分袖のズボンという格好で声をかけてきた。
「俺、大学の図書館に行くんだけど、翔太も来る?多分翔太も中に入れるよ」
「んー、いいや。僕は留守番してるよ」
「そう? 分かった。着替えだけど、翔太の部屋のクローゼットの中身なら自由に使っていいよ。昼までには帰るから、何かあったらこの番号に電話して。午後は翔太と出かけたいんだけどいいよね?」
「いいよ」
「ありがとう。じゃあ後でね」
「うん。気をつけてね」
そして、菜月はいなくなった。
僕は部屋の中を散策していた。いや、そこまで広くはなかったから、物色していたというべきだろうか。
翔太さんが使っていた部屋にあったのは、本や服、ほかにはノートやペンといった日用雑貨だった。机の上には日記帳が広げられている。翔太さんには申し訳ないが、その日記帳を読んでみることにした。
『2021年10月5日(火)
今日は夜遅くまでバイトの日だ。今家にいる。今日は、午前中は講義は無い。これからお昼ご飯を食べて大学の午後の講義を聞きに行くところだ。今日の講義はずっと僕が楽しみにしていた講義だ。楽しみだなぁ。これの続きは、帰ってきたらつけることにしよう。行ってきます。』
『2021年10月4日(月)
今日は午前中から講義があって大変だった。午後はグループワークをした。宗教についてのグループワークだ。今日は「現世利益を求めるか、それとも将来の成仏を祈るべきか」というテーマで話し合いをした。
僕はもっぱら、将来の成仏を祈るべきだと言う意見を持つ人だ。僕のように考える人もいれば、現世利益を求めるべきだと考える人もいた。ただ、1人興味深い人がいた。『現世利益を求めるか、それとも将来の成仏を祈るかではない。ここに正しい選択肢はない。正しい宗教は「今自分がここにいるこの場所で成仏をすることができる。そして幸福になることができる」と説く宗教だ』という考えの持ち主だった。僕はその考えも面白いなぁと思う。でも、中には否定している人もいた。人の考えはほんとに千差万別だ。』
『2021年10月3日(日)
今日は菜月が友達と釣りに行ったから、僕はとても暇だった。僕は本当に釣りが下手で、こんな時、僕はとても悔しくなる。正直言って、1人は寂しかった。菜月はスズキを釣って帰ってきた。大きかった。さて、その後が大忙しだ。スズキを捌かなきゃいけないからだ。そのスズキの切り身で昆布締めをした。他の切り身で刺身も作って、煮物もできた。それもたくさん。どれも美味しかった。』
「……楽しそうだなぁ」
思わず僕は、呟いていた。
なんだか、翔太さんが羨ましかった。
そして、10月3日の日記を見て、今自分が抱いている感情にようやく気付いた。
「……寂しい」
1人はなんだか寂しいのだ。
僕はもしかしたら、寂しがりやなのかもしれない。あの夢の中の翔太さんのように。
——不意に、僕は自分が抱いた感情に、心の底から震えた。それがあまりにも冷たすぎたから。そして、正体が分からないから。
冷たくて、心を凍らせてしまいそうな何かが、今、確かに心のうちにあった。
だけど、その正体が分からない。
なぜか僕はそれを忘れたくて仕方がなくて、近くにあった本を読み始めた。
幸運なことに、その本はとても面白い本で、すぐに忘れることができた。
お腹が空き始め、そろそろ昼食を取ろうと思い、台所へと向かう。じゃがいもやマーガリン、調味料やパン、卵やチーズなどいろいろなものがあった。
僕はお昼のレシピを思い付き、じゃがいも、マーガリン、塩、醤油、パンを出した。
じゃがいもは皮を剥いて、半分に切ってから5ミリ幅にする。フライパンにマーガリンを入れ、火をかける。半分ぐらいマーガリンが溶けたところでその中に塩を少し。そのマーガリン塩でさっきのじゃがいもをいい感じの焦げ目がつくまで焼いていく。
と、ここで菜月が帰ってきた。
「ただいま。いい匂いだな」
「おかえり、菜月。お昼ご飯作ってるんだ。その食パンを2枚、軽く焼いて、薄くマーガリン塗ってよ」
「そのぐらいお安い御用だよ」
パンを菜月が焼いている間に僕はじゃがいもを焼く。そして、焼けたらそれをキッチンペーパーの上に置いて、余計な油を落とす。その時にはパンは焼き上がり、マーガリンが塗られていた。
僕はそのパンの上にじゃがいもを乗せ、醤油を少し垂らす。ありがたいことに、押した分だけ出てくるタイプの醤油だったから、とても作業がやりやすかった。
そして、パンを再び軽く焼く。パンを焼くのは菜月に頼んで、僕は簡単なサラダ(どれだけ簡単かというと、レタスをちぎってミニトマトを切って盛り付けただけで済むほどだ)を作った。
その時、丁度パンが焼きあがった。
トースターからはいい香りがして、
「美味そうだなぁ」
菜月がそう呟いたのが聞こえた。
ダイニングにパンとサラダを運ぶ。
「いただきます」
僕たちは2人でご飯を食べ始めた。
「美味いな、これ」
「でしょ? 我ながら上手くできたと思うんだ」
僕は褒められたのが嬉しくて、思わず笑った。
「そう言えば、午後はどこに行くの?」
「映画館だよ。映画が不意にみたくなったんだ」
「いいねぇ」
簡単な昼食を済ませ、僕は菜月と一緒に外へ出た。
空は秋晴れ。清々しい風が吹いたけど、まだ少し日差しが暑い。
「ちょっと暑いね」
「そう? 俺、全然平気だけど」
「そんなぁ」
「翔太が暑がりなだけだよ」
そんなことを話しながら僕たちは映画館へと向かっていた。
「はぁ、やっと着いたー」
「もう疲れたの?」
「そんなことないよ」
映画館の中は丁度いい温度だった。貼り出されているポスターを見ながら菜月が言う。
「何を見たい? 何でもいいよ。俺、あんまり映画に好みはないから」
「えー……」
全て丸投げされた僕は、困りながらもポスターを見る。
そして、不意にピンと来た。
「あ、これは?」
「これ? sky productionの最新作かぁ。いいんじゃない?」
菜月はやけに嬉しそうにうなづいた。
僕たちはチケットとポップコーン、そして飲み物を買って、映画館に入った。
——映画の選択は、大正解だった。
「楽しかったね!」
「うん。どうせだし、外食しようよ。そこのファミレスなんかどう?」
「いいね!」
僕達は映画館の近くのファミレスで食事をして、これもまた映画館の近くのショッピングモールで明日のご飯の材料を買い出したり、文房具、雑貨といったものを見て回ったり買ったりした。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、いつのまにか外はとても暗くなっていた。
「暗いね」
「まあ、歩き慣れてるから平気だよ。でももう夜遅いし、帰ろっか」
僕たちは夜道を歩いていた。
そして、僕が昨日冷たい雨風の中、凍えていた路地に来た。
と、その時。
不意に菜月がすっこけた。
「大丈夫?」
「ああ。なんかにつまづいただけだよ」
僕はその時、後ろにいる黒い影に気付いた。何か手に光るものを持っている。よく見てみると……ナイフだ。
(通り魔……!)
それはナイフを振り上げて、菜月に向かって振り下ろす。
(菜月!)
何も考えずに、菜月のことを突き飛ばした。その先で菜月が地面にぶつかった痛みでうめくのを聞いた。
——菜月は、無事だ。
ほっとしたのもつかの間。
背中に激痛が走った。
痛すぎて、声が出ない。
僕はその場で身悶えした。
痛くて痛くてたまらない。
朦朧とする意識の中、その強烈な痛みはやがて、強い怒りに変わっていった。
——どうして。
どうしてなんの恨みもない僕を殺したんだ。
どうして僕だけでは飽き足りず、菜月まで殺そうとしたんだ。
——そんな奴……許せない。
霞んでいく視界の中で、通り魔の姿だけははっきりと見えた。
僕はなぜか呆然としている通り魔に飛びかかった。
通り魔は呆気なく倒れる。通り魔はじたばたともがいたが、僕は通り魔を離さなかった。それを見た菜月がベルトで通り魔を拘束する。
通り魔はあっけなく捕まった。
通り魔が捕まったと分かった瞬間、急激に視界が暗くなり、意識が混沌としてきた……。
どのぐらい経ったのだろう。
「……翔太、大丈夫?」
菜月の声を聞いて、不意に視界がはっきりした。視界だけでなく、意識もしっかりしてきたようだった。
まだ頭にかかっている靄を振り払うように、ゆっくりと首を振り、溜め息を1つ吐いた。
通り魔は、もういない。警察にでも引き渡したのだろうか?
「——うん。菜月は無事だった? 大丈夫?」
「大丈夫だよ。ありがとう、翔太」
僕はさっきまで何があったのかを思い返していた。
(……あれ?)
おかしいぞ、と思った。
『どうしてなんの恨みもない僕を殺したんだ』
『どうして僕だけでは飽き足りず、菜月まで殺そうとしたんだ』
意識が朦朧としていたとは言え、なんでこんなことを思ったんだろう? まるで、僕が通り魔の被害に遭ったみたいじゃないか。僕はここで、ちゃんと生きているのに……。
——いや、僕は生きているのか?
不意に浮かんだ疑問に、震えた。
いや、生きているじゃないか。だって僕はちゃんとここにいて……いや、もしかしたら生きてはいないかもしれない。いや、生きているだろう。だって僕の姿は菜月にはちゃんと見えているわけで……いや、菜月に霊感があるだけかもしれない……。
「僕は……ここに存在しているのか?」
「……翔太?」
「僕は……生きているのか? もう死んでいるのか? ……どっちなんだ?」
再び目の前が暗くなって、全てのものが遠ざかっていく……
……どっちなんだ?
僕はもう死んでいるのか?
それとも生きているのか?
僕は一体……何者なんだ?
「……落ち着けよ、翔太!」
菜月の声が、僕を現実に引き戻した。菜月の顔が見える。
「菜月……」
「翔太、横を見てみろ」
「……横?」
菜月が指を指す方を振り向いてみると……空へと続く、光り輝く道があった。
——これのことは、覚えている。
「……これは、そう……霧の、道」
そう呟いた途端、記憶が弾けた。
「……ああ、そうだった……」
全てのことが腑に落ちた。
今なら、全てが分かる。
僕は何者なのか。
今ならはっきりと答えられる。
——僕は、桜野翔太だ。
桜野翔太。菜月がついこの前まで同居していた人と、同一人物。そう。菜月とは高校からの付き合いで、大学が同じで、同居をしていて、去年はオリンピックにも行った。そして。
「一昨日の夜、あの通り魔に殺された……」
あのときは、本当に痛かった。言葉が出ないほど痛かった。そして、僕は死ぬのだと朦朧とした意識の中、思った。でも……。
「最期に思ったのは……そう、最期に菜月に会いたかったな、ってことだった……」
気づいたら僕は花畑にいた。
そのとき、本当に死ぬのだと思った。
だけど、僕には心残りがあった。
「……菜月のことが、心残りだったんだ。だってお前は……大切な人だから」
もっと一緒に過ごしたかった。
一緒に暮らし、出かけて、時には喧嘩をして、仲直りをして。そんな日常の営みが大好きだった。
もう一度、菜月と話したかった。
「そのとき、思い出したんだ。楓先輩が話していた、思い出話を」
そう。楓先輩はこう言った。
『咲希は霧の道を通って現世に戻って来たの。自らの記憶でできた道を通って……だから、咲希は何も覚えていなかった。うちらのことを、何も』
自らの記憶を犠牲にすれば、もう一度菜月に会える。
再び会って、話して、一緒に過ごせる。だから、僕は……霧の道を通って、現世に帰って来たのだった。
そうだ。僕は……生きてはいない。
「……菜月。もしかしたら、ずっと……」
菜月はうなづいた。
「分かっていたよ、最初から……。そう、この路地で現世に戻ってきた翔太を見つけた時からね。俺には霊感があるんだ」
「そのぐらい知ってるよ。いや、思い出したというべきかな?」
「そうかもね」
しばらく、間が空いた。
「……翔太、どうするんだ? もちろん、お前の自由だ。後悔しない方を選べよ」
花畑に戻るか、否か。
5年前の内川さんは、花畑に戻ったと聞いた。
彼女は部活のその空間が、仲間のみんなが、そして、そこで過ごした思い出が宝物だった。大切なものだった。でも、その空間は、仲間たちは、一時的なものであることがわかっていたから、現世から旅立った。
だけど、僕は違う。
僕が大切に思っていたのは……菜月、ただ1人だ。同居していたあの部屋でもなく、高校や大学でもなく、菜月自身だった。
僕は迷わなかった。
『本当に、いいのですか?』
川の渡し守(名は確か、中村聡美さんだった)の声が聞こえた。
『はい』
僕は心の中で答えた。
『ならば特別に、私は貴方に約束いたしましょう——』
その内容に、僕は驚いた。
『いいのですか?本来なら……』
『……私は川の渡し守。逝くべき魂を死の国に渡すのが仕事です。このぐらい、容易いことです』
『ありがとうございます』
……タイムリミットが来たのだろう。霧の道が、不意に消えた。
そう。これが僕の選択だ。
菜月が驚いて言った。
「……いいのか、翔太?」
僕はうなづいた。
……僕は、現世にとどまる。
「その代わり、聡美さんが約束してくれたんだ」
聡美さんはこう言ったのだ。
『ならば特別に、私は貴方に約束いたしましょう。貴方が現世から旅立たなければならないと悟った時……特別に再び、こちらへの道を開きましょう』
「いつか僕がここから旅立たなければならないと思った時……聡美さんは死の国への道を再び開くとね。逝くべき魂を死の国に渡すのが仕事だから……と言っていたよ」
「翔太……」
「1人は寂しいし、菜月を1人にしたくないしね。菜月の側にいたいんだ」
僕はそう言って笑った。
「ありがとう、翔太」
2人で笑った。泣き笑いだった。
暗闇の中に、2人の翔太がいた。
「……桜野翔太。君は……君は……僕だ」
「——ああ、そうだよ。僕は桜野翔太。僕は君だ」
「……やっぱり君も寂しかったんだろ?」
「……ああ、寂しかった。だから僕は光の中に戻ろうとしたんだ」
「そうか……やっぱり、あいつを闇に引きずり込むのはよくなかったな。桜野翔太、君のおかげで気付けたよ。ありがとう」
「いや、僕と君は同一人物だ。心のどこかには、君がいた。君は、僕の中に存在していた。菜月を闇の中へと引きずり込みたかった僕が」
「でも、やっぱり君は正しい行動を出来たじゃないか、あの時に」
「……通り魔が現れた時か。あの時は菜月を助けなきゃって、それしか頭になかったな」
「そう。そこで菜月を助けようと思えたのが君だったんだよ。僕だったらきっと放っておいて、一緒に死の国に連れて行こうとしただろうな。やっぱり君は正しかった」
「そうかな?ありがとう」
2人は抱き合った。
そして、2人は1人になった。
「さあ、戻ろう。あの光の中に」
翔太は光の中に駆けていく……。
僕は全てのものが白い空間に出てきた。
「ここは……どこだろう?」
不意に、僕の目の前に何かが映し出された。
暗い路地、冷たい雨。そしてそこでうずくまる1人の男。
「これ……現世に戻ってきて初めて菜月にあった場所……!」
そこにうずくまっていたのは、僕だった。
そこに菜月が通りかかって、傘を差し出してくれる。
『大丈夫?寒くないの?』
あの時は本当に安心したっけ。
……この場所を霧の道の終着点に決めたのは、菜月が毎日のようにここを通るからだった。生前の僕自身も、ここを通っていた。ここなら、たとえ僕が記憶を失っていても、もしかしたら直感で家に帰れるかもしれない、そんな奇跡的なことがなくても、菜月が僕を見つけて家に連れ帰ってくれるかもしれないと期待したんだっけ。
場面が飛んだ。
菜月が目玉焼きを焼いている。
「やっぱり翔太の方が目玉焼きを焼くのは上手いなぁ。上手く半熟にならないや」
と、言いながら。それに対して僕はこう言っていた。
「でも菜月の目玉焼き、美味しいよ」
「そう? ならよかったんだけど……」
そんな反応をしたのは菜月が素直じゃないからじゃなくて、菜月も僕も、半熟の目玉焼きが好きで、しっかり焼けて少しぱさぱさした目玉焼きはあまり好きじゃないからだ。
次に現れた僕は、自室の中にいた。そして不意に、目の前にいる僕は震えた。
ああ、これは、僕は自分が抱いた感情に、心の底から震えた時だ。それはあまりにも冷たすぎた。
今ならその正体が分かる。
——それは、もう1人の僕だ。
心の中に住むもう1人の僕が、寂しくて仕方がなくて、菜月を死の国に引き摺り込みたがっているのを、感じたのだ。
僕はそれを忘れたくて仕方がなくて、近くにあった本を読み始めた。
その本は僕が1番好きだった本で、すぐに忘れることができたから良かったけど……。
あ、お昼ご飯作ってる。
じゃがいもで作るあのパンのレシピは……あの時思いついたんじゃない。
僕はあのパンのレシピを、1年前に付き合い始めて半年で別れた彼女に教えてもらっていたんだ。
『翔太は料理が上手いから、教えがいがあるなぁ』
そう言って笑っていた笑顔が、不意に頭をよぎった。胸の痛みと共に。
また場面は飛んだ。2人で映画を見に行った時だ。
『何を見たい? 何でもいいよ。俺、あんまり映画に好みはないから』
『えー……』
実際、それは事実だということを今の僕は知っている。菜月には映画の好みというものがあまりない。
困った表情でポスターを見る僕。
そして、不意に声を上げる。
『あ、これは?』
『これ? sky productionの最新作かぁ。いいんじゃない?』
菜月はやけに嬉しそうにうなづいていた。
今ならその理由も分かる。
僕はsky productionの映画が大好きだったんだ。
記憶がないとしても好きだった映画を選ぶ僕を見て、菜月は嬉しかったんだろう。そして、確信しただろう。間違いなく目の前にいるのは桜野翔太だ、と。
不意に、白い扉が現れた。
僕はその扉を開き……夢から覚めた。
新しい朝がやってきた。
僕は2人分のコーヒーを淹れる。するとその香りにつられたかのように菜月が起きてくる。
「おはよう、菜月」
「ああ、おはよう。コーヒー、ありがとう」
「いや、こんぐらいしかできないから」
2人で笑う。
菜月が2枚の食パンをトースターで焼く間に、僕は目玉焼きを2つ作る。チン!と軽やかな音がして、菜月がパンにマーガリンを塗る。そこに僕は半熟の目玉焼きを乗せる。
「いただきます」
2人で声を揃えて言った。
「やっぱり翔太は目玉焼きを焼くのが上手いよな。めっちゃうまい」
「でもパンの焼き加減も最高だよ。マーガリンの量も丁度いい」
「そう? ありがとう」
僕と菜月は話しながら、楽しく朝食をとった。
朝食を食べ終わった後、僕は菜月が皿を洗う音を聞きながら洗濯物を干し、空を見て思った。
ああ、日常が戻ってきたんだ、と。
余談ですが、途中で出てくるじゃがいもを使ったパンのレシピは、つい最近、私が考えたものです。美味しかったので、作ってみるのもいいかもしれません 笑
マーガリン塩で焼いたじゃがいもに醤油をかけたものはご飯にも合います。醤油は無くても美味しく食べられますので、醤油はお好みでかけてみてください。
ただ、作る場合には塩分や油、炭水化物の取りすぎに気をつけて、たまに食べるぐらいにしてくださいね。