表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

夕波に鳴き千鳥

作者: 永井千梨



 徳川家家臣「木俣守勝」が初めて井伊直政に出会った時のことを、守勝はすぐに思い起こすことができる。天正九年、所謂本能寺の変の少し前のことだった。主君徳川家康に引き合わされ、形こそは丁寧な会釈をしてみせた直政は、小生意気というにふさわしい爛々とした目で守勝を一瞥した。

 だが一番初めに守勝の脳裏に浮かび上がる直政の顔は、それより七年前の春にちらりと見かけた折の、前髪を上げたばかりの幼い面持だった。瞼など閉じずともその紅顔はすぐによみがえる。

 その頃の彼はまだ十五になったばかりの小童で、立端ばかりが高い不遜そうな子供であった。そうして自分はというと、出奔という体で徳川を辞していた。だから直政はその時の守勝を知らないし、守勝が己を見ていた事もきっと覚えていない。


 守勝が三河を出たのは天正元年、守勝が十九の若造の頃である。小身の守勝が徳川の家を去ることなど大した話題にもならなかった。それから実に八年もの間、守勝は織田幕下の明智光秀に仕えた。

 その長い年月の間、守勝は不意に坂本の屋敷から姿を消すことが年に一度か二度ほどあった。別段徳川に内通などはしてない。ただ、元、であるはずの主君家康に内密に目通りし、世間話などをするだけである。徳川と織田は現状同盟関係にある。織田で得た機密などを伝えたりはしないが、明智の家で見聞きした笑い話などを話の種にしたりはする。それで家康が何を感じ取るかは守勝の知ったことではない。

 その時もふらりと鷹狩に出かけた家康に狩場の隅で挨拶をし、笑い話に花を咲かせ、そうして家康が借り受けた名主の屋敷の隅で握り飯を頬張っているところだった。

「おい、菊」

 不意に後ろから声を掛けられて守勝は眉根を寄せる。久しぶりとはいえ聞きなれた声だった。

 同輩の声はしっかりと聞こえていたが、守勝は敢えて無視をした。それと分かっているであろうに、彼は笑いながらもう一度呼んだ。

「菊千代」

「うるさい、幼名で呼ぶな」

 罵りながら振り返る。声の主は優男というには少々毒家のある面持ちで笑う若い男だった。彦四郎、と眉を顰めて名を呼び咎めると、男はからからと笑って守勝の背中を豪快に三度ほど叩いた。

 この男、名を安藤彦四郎直次という守勝の同輩だが、己の才一つで家康の信頼を勝ち得た側近でもある。勿論守勝の出奔の経緯も良く知っていた。

「木俣守勝は今や華々しい明智の家臣だ。こんな東におるわけなかろう。だからお前は菊でいいじゃないか。それよりお前、あれを見てみろよ」

 直次は守勝の膝の上にあった握り飯を一つ奪い取ると、顎で庭の向こうを指した。立派な松が枝を広げていて、その向こうに屋敷の縁側が見えた。ひょろりとまだ薄い体つきの少年が所在無さげに松の枝を見つめている。見知らぬ顔の少年だった。

「誰だ」

 目を少年に向けたまま直次に聞くと、彼は肩を竦めて指に付いた米粒を舐った。

「さあ、先日殿が連れてきた新しい小姓だとかなんとか。まあそれより」

 直次はそこで言葉を一旦区切ると、にたりと笑った。

 嫌な予感がする、と守勝は思った。

「なかなか見目のいい餓鬼じゃねえか?」

 なぜこういう予感は外れないのか、と直次のうれしそうな声を聞き流しながら守勝は思った。この男は守勝と同い年の二十一歳で家康の覚えもめでたく、男ぶりもなかなかで気風もいいし三河の男にしては粋も知るいい男であるのだが、どうにもこっちの方面でだらしがないのが玉に瑕だった。男でも女でも、好みであればどちらでも構わないらしい。これでもてなければただのだらしない男で済むのだが、幸か不幸か直次はいい男だった。いつか色事で失敗するのでないかと踏んでいる。守勝はうんざりしながら首を振った。

「お前の趣味はよくわからん」

「そうか? 殿だって随分褒めておったぞ、あの面を」

 家康の名前を出されるとなんともけちを付けにくい。仕方なく新しい小姓だとかいう子供をまじまじと見た。色が白く鼻筋が通っていてまだふっくらとした幼さの残る頬は僅かに紅かった。まだ薄く線の細い体つきが妙に危うい。きつい目つきもきりと上がった眉も整っていると言われればそうかもしれないが

「生意気そうだ」

と、守勝はばっさりと切り捨てた。

「それがいいんじゃないか」

 直次は顎を撫でながらじろじろと不躾に少年を値踏みした。おい、やめておけと小声で制したけれど、それぐらいで直次の悪癖が収まるわけもない。あまりにも執拗な視線だったからか、ぼんやりしていた少年もこちらに気づいたようであった。訝しげに眉を寄せ、こちらを睨みつけてくる。なかなかのいい度胸の持ち主だった。

「お、先輩を睨むとはなかなかやるなあ」

「呑気だな、お前」

「ますます好みだ」

 直次の言葉に守勝は砂を噛んだような顔になった。守勝はここを去れば近江坂本に戻るだけだが、直次は家康の直臣であり、となるとあの少年とも長々と蜜に付き合っていかねばならない。自分ならばあんな面倒くさそうな子供は真っ平御免だ。

 少年は直次に張り合うかのようにきつい視線をこちらに向け続けた。直次が笑いを含みながら、おい、と声を掛けると、彼は返事もせずに唇をきつく噛んだ。

「殿のお呼び待ちか?」

 直次の言葉を下世話な意味と取ったのか、少年はあからさまにむっとした顔をした。軽口を叩く直次を肘で突いて咎めると、少年の視線がこちらに流れ、かち合った。

 割れた黒曜石のように尖った目だ、と守勝は薄ぼんやりと思った。それでその目に見入ってしまっていたことに気がついた守勝は、頭を軽く振って彼に声を掛けた。

「坊主、こいつの言うことなど半分は聞き流しとけ。悪気はあるが悪意はない」

「おい、菊、ひでえな」

 本当のことだろう、とやり合っていると、まっすぐにこちらを見たままだった少年がゆっくりと口を開いた。

「万千代だ」

「は?」

 まだ幾分高く掠れた声が吐き捨てるようにそう告げるから、妙な居心地の悪さを感じる。守勝はその声ばかりに耳を取られ、彼がなんと言ったか分からなかった。

「坊主ではない。井伊、万千代だ。今朝、家康様から名を頂いた」

 万千代と名乗る、まだ声変わりを終えていないのだろう上擦った声が、少し誇らしげにそう告げてくる。守勝は、ほほう、と内心感心した。井伊という家名は聞いたことがある。戦乱の遠江で消えた藤原氏庶流の古い家だとかなんとか。確か当主が今川の家臣に騙し討ちされたとか聞いた。なるほど、今川を捨て徳川に来たか。今川は未だ多大な勢力を誇る名家ではあるが、己の立場を除外しても賢明な判断だと守勝は考えた。

 万千代はしばらく黙っていたが、伏せた目線をちらりと守勝の目より僅か下に這わせた。薄く赤い、乾いた唇が僅かに開くのを守勝はなんとはなしに眺めた。

「口元」

「は?」

「米粒が付いている」

 万千代の硬い声に慌てて我に返り、手の甲で口元を拭うと、さきほど頬張っていた握り飯の米が二粒ほどくっついていた。そのまま食んでちらりと目を上げると、万千代は口を歪めてこちらを見下ろしていた。いや、見下していた。完全にこちらを馬鹿にしている顔だった。音を出さないまま、歪んだ万千代の唇が小さく動いた。いなかもの。音にはならずとも、守勝にははっきりとその言葉が読み取れた。思わず目を剥いて見返すと、万千代はふいと顎を上げて顔を逸らした。

 かわいくねえ! 

 思わず飛び出そうになった言葉を守勝はぐっと飲み込んだ。横で笑い転げている直次を片足で蹴っ飛ばすと、守勝は足音高く廊下を鳴らして庭から離れた。

 何が見目がいいだ。どこがだどこが。守勝とて三河の中では若輩者にすぎないが、あんな新参者の小姓如きに見下される覚えはない。守勝は憤りながらもう一度頬を拭った。あんな生意気な餓鬼、二度と御免だ。この時ばかりは出奔を命じた家康に感謝した。あれと一緒に仕事など、そのうちどこかでぶん殴ってしまいそうだ。

 廊下の端まで来た守勝は敷居を跨ごうとした足を止め、ふと振り返った。松の葉が風に揺れ、ざわりと揺らいでいる。

 濡れ縁に立つ紅顔の少年は、もうどこか遠くに視線を向けていた。張り詰めた表情は、先ほどの小生意気さを打ち消してどこか危うい。

 ふと、まだ真新しく体に馴染んでいない羽織の紐がほつれているのが妙に目に付いた。どこかに引っ掛けでもしたのか、深い黒の上等そうな組紐から糸がいくつも飛び出して、今にも千切れそうだった。なぜかそれだけよく覚えている。




 それから何度か織田家の元で家康に垣間見える機会はあったが、あの小生意気な顔を見ることはついぞなかった。ふらりと三河に戻る折にも見かけなかった。あの人を見下す目だ、案外と気の短い家康の怒りを買って逃げ出したという可能性もある、と守勝は思った。思ったものの、家康どころか直次にすら尋ねてみる気が起こらず、そのまま諾々と六年の月日が流れた。守勝は三十路に手が届く年頃になっていた。

 坂本の明智光秀はこのところピリピリと気が立っているようだった。御馬揃えの指揮のせいかと思っていたが、どうもそればかりではないらしい。坂本に加え丹波亀山まで加増され、傍目には明智の隆盛ぶりは目覚しいようだったが、光秀本人の顔色はどうにも冴えない。そんな一抹の不安が守勝をじわじわと包んでいる頃、まるで図っていたかのように家康からの帰参の命が守勝の下へと届いた。対外的には主ではないのだから正式な命ではないが、気安く文中に書かれた清三郎、という家康の文字が、やけに望郷の念を駆りたてた。

 まだその時期ではないのではないかと思い守勝はしばし迷ったが、結局は光秀に暇乞いを出した。光秀は武功をいくつも立てた守勝を随分と名残り惜しんでくれたものの、最後には労いと名物と共に坂本から送り出してくれた。なにやら物言いたげな顔ぶりではあったが、その含みが形になるには一年を要さなかった。だが、まだ守勝の知るところではない。




 帰参し家康の元に戻ると、当たり前のような顔をしてあの生意気な顔が家康の後ろに控えていた。あの頃から背丈は並より高そうだったが、今では守勝の背も越し、すらりと手足の長い美丈夫になっている。幼さはすっかり頬から抜け落ち、えらく男前に成長していたが、あの目付きは変わらない。こちらをちらりと見下す目。間違いなく、あの万千代だった。

 まだいたのか。

 落胆の念が頭からどんと降ってきて、機嫌のいい家康の労いの言葉も守勝の耳を素通りした。万千代は無表情ながら多聞天のような目付きで周囲に目を向けている。背丈も高く手足も長いので妙な圧迫感がある。前にいる家康が短躯であるだけに余計にそれが際立っていた。

「万千代、こやつは清三郎と言ってな。長いこと旅に出てもらっていたんだがようやく我許へ戻ってきてな」

 浮かれ気味に守勝を紹介する家康の顔を見る万千代の表情はつい先程の置物のような無表情とは打って変わって和やかな目線になっていた。その家康に向ける顔との変わりように、守勝は鼻白んだ。なんだこいつは。六年経っても全くあの頃と抱く印象が変わらないとは、ある意味感心する。守勝は呆れ返った。

 早々に挨拶を終えて立ち去ろうと家康の前で腰を上げると、家康もにこにこと笑みを浮かべながら守勝に続いた。家康は家臣に対してもこのような振る舞いをすることがしばしばある。長きに渡って苦労を掛けた守勝に対する労りだとはわかっていたが、何分若輩の自分へのそのような待遇は憚られると何度も押しとどめたが、結局家康は襖に手を掛けるまで守勝についてきた。

「万千代のことだがな」

 恐縮する守勝の耳元で、家康はぼそりと呟いた。守勝は一瞬固まり、ちらりと座敷の奥に目を向けた。広い座敷の隅に万千代がぼんやりとした面持で先ほどと変わらぬ位置で座している。

「あいつは遠江の出でな、外様で三河の男でないせいか、どうも妙に浮いてしまっておってな」

 それは外様なせいだろうか、と守勝は思ったが口にはしなかった。口を真一文字にしたまま二度ほど瞬くと、家康は黙りこむ守勝を柔らかい視線で見上げて背中に手を添えた。

「すまんが、万千代を気にかけてやってくれんか」

 暖かく肉厚な家康の掌が、ぽんぽんと背中を優しく叩いた。

「頼んだぞ、清三郎」

 お前の懐の深さを見込んで頼むのだとまで言われて守勝に否と言えるはずもなかった。どうやら家康はこれを言いたいがために乙名でもないただの一家臣の見送りに腰を上げたらしい。

 ぎくしゃくとした動きで一礼し、襖を閉めた守勝は、廊下の角でにやにやと人の悪い笑みを浮かべた直次と出会した。戻ってくる守勝を待っていたのか、もたれ掛かっていた壁から背を話すと身を乗り出して守勝の肩に手を回した。

「どうだった」

「何が」

 苛立ちまぎれにそう短く吐き捨てると、直次は「なかなか美しい男に成長しただろう」と、まるで自分のことのように得意げに口元を上げた。万千代のことを言いたいらしい。確かにすらりと伸びた体躯も見事であったし、きりりと眦の上がった目元は涼やかだった。通った鼻筋も男にしては肌理の細かい肌もその造形は美しいと言えばそうなのかもしれないが、守勝はさあな、と吐き捨てた。男の顔の良し悪しにさして興味はないが、確かにあの時の小童がえらく成長したものだ。

「相変わらずお前はお堅いな」

「硬い硬くないの問題じゃないだろう。あれをそんな目で誰が見るもんか」

 そう言ってやると直次は微妙な顔をして肩を竦めた。何のことやらと思った守勝だったが、彼の顔の意味はすぐに知れた。

 どうやら万千代は家康の「お手つき」らしい。まさか、とは思ったが、あの家康の過保護ぶりを思えば一笑に付すこともできなかった。三河武士の中では半ば事実として蔓延する噂になっている。帰参した守勝の耳にすぐに触れる程度である。側近の地位も、家康自慢の名馬も、閨でのおねだりで手に入れたものだのなんだの。下世話な噂だったがなにしろ率先して息巻いているのが家康側近の旗本である榊原康政であるからどうしようもなかった。康政は有能で気のいい武士ではあったが、嫌いな人間は蛇蝎のごとく嫌うところがある。そしてどう見ても万千代は康政の嫌いな手合いの人間であった。家康と寝ているのどうのの事実の程は守勝にはどうでもいい話であるが、万千代の異例の出世ぶりと家康の態度から見れば、そう思われても仕方ないものがある。万千代の三河での浮きぶりは、本人の性格のせいもあるかもしれないが、家康の偏愛ぶりが大きいのではないかと守勝は思う。

 今日も万千代は庭で一人槍を振るっている。

 家康の私邸に呼ばれ顔を出していた守勝は、見かけた万千代に足を止めた。じゃり、と草履の裏が鳴ったが懸命に槍を振るい続ける万千代には聞こえなかったようで、風を切る槍の音は絶え間なく続いていた。

 小姓を上がった万千代は、家康の屋敷の隅に私邸を構えていた。そういうところが妬まれるのだと、なぜ家康も気づかないのか。それともわかっていて尚やっているのか、守勝には理解に苦しむところである。

 庭木に凭れかかってぼんやりと眺めていると、ようやく視線に気づいたのか、万千代は槍を止めた。腕で顎の汗を拭ってこちらを振り返る。上気して赤らんだ頬は可愛らしくもあるのに目つきは剣呑だった。

「なん、ですか」

「腰、もっと落としたほうがいい」

 腕を組んだままそう指摘してやると、万千代は訝しそうな目付きで守勝を見返した。しばらく逡巡した後、き、と最初の一文字だけを声に出して一拍置き、万千代は口を薄く開いた。

「……清三郎」

 守勝は盛大に眉根を寄せた。

「先輩を名で呼ぶな」

「殿からその名しか聞いていない」

 そう言われてみればきちんと自己紹介はしていなかった気がする。その割には苗字の一文字は知っていたのか。わざわざ名乗るのも、と思った守勝だったが、万千代をよろしく頼むと主君に言われた手前、渋々体を起こして歩み寄った。

「木俣、木俣守勝だ。お前みたいな新参者の若造は木俣殿と呼べ」

 わざと横柄にそう言ってやると、万千代は不服だったのか鼻を小さく鳴らした。

「ずっとおらなかったではないか」

「殿の話を聞いてなかったのか。所用で近江にいただけだ。三河の屋敷だってそのまま残してあったし、殿と縁を切っていたわけじゃない」

 まだ小童だったお前のことだって知っているんだぞ、と守勝は胸の内で続けた。万千代はまだ納得できかねるような顔はしていたが、気乗りせぬような声で「木俣殿」と棒読みで呟いた。及第点にもならない万千代の態度に守勝は苦笑した。

 万千代はこれで話は終わったとばかりに汗にまみれ乱れていた髪をまとめ直し、口に加えた紐で結った。平紐で髪を纏めるには不向きそうなそれで器用に髪を上げる。白く長い首が顕になって妙に目に付く。万千代は横に立てかけていた槍を手に、再びそれを振るい出す。人の言葉などろくに聞いていなさそうな顔つきだったのに、守勝が助言したとおり先ほどより腰がしっかりと落ちていた。体が安定して槍の筋も随分良くなっている。ぶんと振る槍の音も豪快になっていて、長い手足が上手く働いている。

 万千代は何を言うわけでもなく、槍を握ったままちらりと守勝を見た。どうだ、とでも言いたいのだろうか。こういうところは素直なのか意固地なのかさっぱり分からない。直截な守勝にはこういう小生意気でややこしいところが癇に障るのだが、これが良いと言った直次ならばもう少し上手くこの面倒な若造を扱えるだろうに。

 殿も俺でなく、彦四郎に頼めばいいものを。

 守勝は馬鹿らしくなって踵を返した。苦労した武家の棟梁だけあって、家康は人を見る目がある。人を選ぶのも使うのもやはり上手い。万千代のお守りには守勝よりも直次の方が適任であると、家康ならば判断して然るべきはずだ。わざわざ万千代によい感情を抱いているわけでもない守勝に声を掛ける必要性が全く分からない。懐が深いなどという言葉はどう考えてもただのおだてに過ぎない。一方直次は守勝より六年も万千代と長く付き合っているし、彼のあの口ぶりからすれば仲違いをしているわけでもないだろう。だが、戯言の体をとってはいたが、主命は主命だ。無下にはできない。

 おかしなことになってしまった。守勝はそう嘆いた。しばらくは遠巻きに万千代の様子を伺っていた守勝だったが、そのうち降りかかってくる仕事に忙殺され、お守りの件など徐々に忘れていった。

 そんなある日、例によって家康の屋敷に呼び出された守勝が急ぎ向かうと、いつもの御書院ではなく私室の端に家康は座っていた。

「遊山、ですか」

 家康に呼び出され話を聞かされた守勝がそう返すと、家康は薄らに開けた障子をゆっくりと閉めて、初めて守勝に向き直った。遊山という言葉とは裏腹に難しい顔をしている。

「信長公より積年の礼と言われてな」

「はあ」

 ぽんと家康の手から放り投げられた書状を拾って、守勝はおもむろに広げた。上等な紙に、なかなか豪快な達筆が踊っている。積年の礼をしたく、京で物見遊山を兼ねてゆるりと楽しんではゆかれぬかという誘い、いや呼び出しであった。何度か見かけたことがある信長の手蹟だった。こちらに有無を言わせぬ勢いがあるのは筆でも同じだ。

 家康と信長は同盟相手である。表向きは同格である同盟のはずであったが、明智の家から見ていた折も守勝の贔屓目を抜いてなお織田信長から見た徳川家康は上等な使い走りというのが精精なのではないかという節があった。その信長が積年の礼か。礼をされるに足る働きを家康はしているのだが、相手があの信長となれば素直に受け取ってよいものか、と守勝は顎を撫でた。

「どうなさるんですか」

「どうもこうも、今まで再三断ってきたがさすがに此度ばかりは断るわけにはいくまい」

 接待役は明智光秀だという。なぜか妙に嫌な予感がした。光秀は好んで家康に害を与えるような人物ではないが、何かが胸に引っかかる。別れ際に見た、坂本に漂う暗雲が守勝の気を重くしているのかもしれない。気乗りのしない顔をする守勝をじっと見つめていた家康は、休息にどかりともたれて深い息を付いた。

「で、私について来いと」

「まあ用意だけはしておいてくれ」

 それだけ言うと、家康は再び障子を行儀悪く扇の端で三寸ほど開け、やるせない顔で庭を眺めた。

 部屋を辞した守勝は、ぐるぐると回る思考を整理すべく腕を組みながら屋敷の広大な庭を歩いた。屋根の上は清々しい青空が広がり、刷毛ではいたような薄い雲がところどころに流れている。家康が空ろに眺めていたのはこの気持ち良い空なのだろうか。ぼんやりと歩いていると、目の前の青竹の群れの向こうから家居が現れて、守勝は足を止めた。庵と言うには大きすぎ、屋敷と言うには些か小さいそれは家康が万千代に与えたものだ。

 あれも小姓としてついていくのだろうか。

 不意にそう思った。

 面構えと外面はいい寵童を離すまいという気もしたし、どうにも風波の立ち起こりそうな京には連れて行かないような気もする。

 あれでも万千代は家康の側近である。胸の内だけでも伝えておくかと思い、ゆっくりとその家居に近づいた。じゃり、と小石を踏む音がする。見れば屋敷の周りは白い玉石が敷きつめられ、見目はいいが少し歩きにくい。

「……誰」

 ふいに小さな声が屋敷からした。濡れ縁の向こう、私室の閉めきった木戸がかたりと動いた。畳が擦れるような音がする。聞こえづらいが、確かにそれは万千代の声だった。使用人が出てくるのかと思ったのか、まるで人払いでもしているかのようにその部屋以外から人の気配はしなかった。

「木俣だ。万千代、少し話があったんだが」

「木俣、殿」

 掠れた万千代の声が、わずかに躊躇っているようだった。風邪でも引いているのかと守勝は思った。少し待ったが、戸が開く様子はなかった。

「急ぎの用ではないから出直す」

 踵を返すと再び草履の下で石が鳴った。

「……待って」

 僅かの後、引き止める声がする。守勝は返した踵を止めて振り返る。さやさやと衣が動く音がして、目の前の木戸が僅かに開いた。ちょうど三寸。家康が扇で開けた障子とたまさか同じ幅の隙間であった。部屋を締め切っているのか、戸の奥は真っ暗で何も見えない。火皿も置いていないようだった。

 木戸の隙間から顔を覗かせた万千代を見て、やはり臥せっていたのかと守勝は思った。ちらりと目配せして外をきょろりと見渡してから、するりと猫のように濡れ縁に出た。手ぐしで髪をときながら出てきた彼は、乱雑に襟を合わせた小袖に羽織を掛けただけの姿だった。思っていたよりも細いな、と守勝は薄らに感じた。

「あなただけ?」

 そう問いながら、中を伺う守勝の目を遮るかのように万千代は後ろ手で戸を閉めた。いつも髪を括っている平紐が戸板に這う手首に絡まっている。寝汗でもかいていたのか、乱れた黒髪が白い首に張り付いていた。なんとはなしに直視するに憚るような気がして、守勝は目を逸らした。

「こんなところまで、何の御用ですか」

 万千代はその紐を手首から外し、髪を括りながらそう聞いた。先程までの掠れた弱い声が嘘のように、いつもの傲慢な万千代の声だった。

「殿が京へ向かわれる話、お前聞いたか」

「いえ」

「なんだ、知らんのか」

 ただの感想だったのだが、万千代は馬鹿にされたとでも思ったのか、むっとしたような顔になった。別に怒らせる意図はなかったのだが、万千代が機嫌を拗らせると面倒だ。機嫌を取るのも癪だがどう言い繕おうかと思案していると、守勝の無言に焦れた万千代は眉間に皺を寄せた。

「それだけ?」

「だから急ぎの用ではないと言ったろうが」

 咎められる理由などない。万千代の言葉に、守勝は取り繕おうとしていた思考を投げた。

「あなたがこんなところまで来るものだから、どんな私用かと思ったのに」

「通りかかっただけだ。お前に私用などない」

 ただ本当の事を告げただけだ。万千代にだって守勝に私邸まで来られる理由などないだろう。だというのに何かが彼の気に障ったらしい。全く心当たりなどない彼の癇に、守勝は両手を上げようとして、ぴたりと動きを止めた。万千代の肩越しその奥に視線を投げると、彼の顔が強張った。何か物音がしたような気がする。思わず腰に差した刀の鯉口に手を掛けた。がたり、と閉まりかけた戸の向こうから再び物音がする。

「誰か居るのか」

 腰から手を外さないままそう万千代に問うと、彼は強張った頬を動かしもしなかった。妙な胸騒ぎがした。返事がないのでつかつかと濡れ縁に近づき、草履を脱がないまま縁に足を掛ける。万千代は止めようか逡巡しているようだったが、何も言わない万千代に痺れを切らした守勝は、そのまま左手で勢い良く木戸を開けた。

 真っ暗な部屋の中に光が差し込む。建付のいい戸が軋むほどの大きな音の中、守勝は目を細めて部屋の中を睨んだ。

 光の中、埃が僅かに舞ってきらりと瞬いた。

 その向こう、部屋の真ん中の乱れた敷布の上に胡坐をかいていたのは守勝のよく見知った男だった。

「……彦四郎」

「やあ、お前か。殿かと思って肝を冷やした」

 ぬけぬけと言う直次は小袖を羽織っただけのだらしない格好で悪びれない笑みを浮かべてひらひらと手を振った。守勝はその笑顔に拍子抜けして柄から手を離した。この暗い部屋の中、二人で何をしていたのかなど一目瞭然だった。

 守勝は眉を顰めたまま振り返って後ろの万千代を見た。万千代はばつの悪そうな顔をして叱られ待ちの子供のように目を逸らした。口元が不服そうにつんと尖っているが、お前が不服を訴える権利はないと守勝は呆れ返った。

「俺が殿ならばお前の首は今頃胴と泣き別れだぞ」

「違いない」

 なぜそう呑気に笑えるのか守勝にはさっぱり分からない。この二人の態度からすればやはり万千代が家康のお相手であることは間違いないだろうに。

「お前ら、本当にこんな時に……」

「こんな時? 何かあったのか」

「何もない!」

 守勝は声を荒げて踵を返した。大股でずかずかと玉砂利を踏んで庭から出ると、慌てて身繕いしたらしい直次が袴を結びながら追いかけてきた。直次一人であることを確認して、守勝は苛立った顔を崩さぬまま渋々足を止めた。

「待ってやるからちゃんと帯を結べ。腰紐が出てる」

「お前の足が早いから」

 直次は刀を守勝に預けて袴の紐を結び直した。ようやくまともな格好になった直次は、守勝に視線を合わせて頭を掻いた。目を見張るほどの間男ぶりに、腹立ちさえも消えてしまいそうなのが逆に恐ろしい。

「念のため聞いておくが、あの小童と殿は」

「このことは殿には内密にな。まぁそういうことだ」

 なにがそういうことだ、だ。何事にもあっけらかんとしているのは直次の長所であり短所でもある。積年の付き合いでそれをよくわかっているはずなのに、守勝はどうにも気が収まらなかった。直次は主君の寵児を横からつまみ食いしたわけだ。なのになぜこんなに笑っていられるのか。守勝は苛立ちもそのままに乱暴に刀を投げ返した。

「おっと、お前もっと大事に扱えよ、これ殿から頂いた業物だぞ」

「殿の懐から掠めとったやつが何を言う」

 伸ばされた手を弾かれて宙を跳ねた鞘を、直次は慌てて掴んだ。なんとか取りこぼさずに済んだのを見て、守勝は眉根に皺を寄せたまま直次を置いてとっとと歩き出す。腰に刀を差しながら守勝を追いかけた直次は、ぐるりと回ってその顰め顔を覗き込んだ。

「お前、何をそんなに怒ってるんだ」

「怒ってない。呆れてる」

「本当に殿には言うなよ」

 直次はふざけたように唇に人差し指を当てた。声は真面目だったが目は笑っている。守勝は舌打ちした。

「こんな下世話な話、なんで俺が殿の耳に入れねばならん」

 吐き捨てながらふと守勝は庭木の向こうに目をやった。柏の木の遙か向こうに白い壁の家康の屋敷がある。今はもう閉じている障子のあるあの部屋は、先程目通りした家康の私室ではなかったろうか。そのまま視線を滑らせて万千代の家居を見る。彼はもう濡れ縁にはいなかったが、木戸は開いたままだった。

 見えるわけないか。

 守勝は深い溜息を吐いた。



 結局そもそもの話を万千代に伝える機会がないまま、守勝は再び明智光秀に相見えることになった。

 京に向かう総勢三十数名の一行の中には、やはり万千代の姿はあった。徳川の主だった家臣団の中、若い万千代は小姓のように家康の周りと立ち回り、光秀との間に立つ守勝とは殆ど口を聞く間もなかった。

 京に向かう前、安土の城で信長と共に遊ぶ家康は随分と機嫌よさそうに振舞っていた。一方接待役の光秀は細々とした心配りに奔走していたがどうにも心ここにあらずといった具合で、守勝も殆ど挨拶程度にしか言葉を交わす事ができなかった。織田側の噂ではどうやら信長が随分と苛立っているらしい。西では大規模な毛利攻めが行われている中、物見遊山の接待などしている場合ではないという光秀の気持ちもわからないでもない。結局徳川方でありながら明智とも通じている守勝は、接待役側に立ってあれこれ走り回る羽目になった。

「最初からこうなることは分かっていたから構わんのだがな、それはそうとお前たちは明日から上洛するんだったな」

 守勝は宿坊にしている大宝坊の庫裏の入り口でばったり出くわした万千代を捕まえた。そう言うと、腕を取られたままの万千代は珍しく神妙な顔をして頷いた。

「本多殿たちもいらっしゃるし、大丈夫だとは思うが殿の身の廻りには十分気をつけておけよ。嫌な予感がする」

「何かあるんですか」

 訝る万千代に、守勝は手を振った。

「何もない。ただ少し気に掛かるから譫言を言っただけだ。お前は殿の一番近くにいるはずだから」

 その手でそのまま髪を掻きむしりながら言うと、万千代は真っ黒な瞳をじっと射るように向けてきた。もう守勝より伸びてしまっている身長では見下ろしているはずなのに、なぜか上目遣いのように感じた。

「あなたは」

「俺は雑事があるから後から追いかける」

 言うと万千代は僅かばかりに考えこむように目を伏せた。守勝の感じている不安を読み取ろうとしているのか、その歩きすぎて煤けた守勝の足袋に目線が落ちている。

「彦四郎が一緒ならばよかったんだが」

 守勝は単に独り言を呟いただけのつもりだった。他意などない。

「なぜそ、」

 万千代は何かを言おうとしたようだが、途中で舌を動かすのをやめた。口の形からするに、なぜそこに直次の名が出てくる、とでも言いたいのかもしれないが、なんのことはない、直次は守勝の信頼できる同輩で幼馴染だからでしかない。それだけだったのだが、万千代は当てこすりとでも考えたらしい。ひどくむっとした顔になった。墓穴を掘りかけた自分に怒っているのかもしれない。

「安藤殿がおらずとも、俺は殿をお守りできる」

 そう言い残して、足音高く方丈へと戻っていってしまった。

「あいつ何一人で怒ってるんだ」

 やれやれと頭を掻く。さてどうやら機嫌を盛大に損ねてしまったらしいあれをどうするか、と頭をひねろうとしたところで顔なじみの明智の家臣から呼ばれ、再び慌ただしく動くうちに守勝は結局万千代の機嫌のことなど忘れてしまった。

 ただでさえ忙しかった守勝がさらに慌ただしくなったのは、四国の戦況が捗々しくないところにある。織田の毛利攻めに守勝が関与しているわけはないのだが、今回の家康の接待役から光秀が四国に赴くために降りたのだった。光秀解任の話を聞いてこれは家康と離れずに済むかもしれないと思ったのだが、そうは問屋が下ろさなかった。引継に忙殺されているうちに家康一行は京に向かってしまった。

 あれから万千代は守勝と一度も目を合わせなかったが、あの庫裏での会話以前よりもぴたりと家康に寄り添っているので、守勝の話は頭にきちんと入っているようだった。

「木俣殿は結局慌ただしいだけですな」

 井戸端で握り飯を齧って昼飯を済ませていると、信長直臣の近習がどこから持ってきたのか茶と漬物を差し出しながらそう声を掛けてきた。労いをありがたく受け取りながら守勝は苦笑した。

「どこも近臣などこんなものでしょう」

「違いない」

 彼は屈託の無い笑顔でからからと笑った。彼の主君信長も、中国遠征のためにここ安土にはもういなかった。守勝の主君も今頃は京にいる頃だろう。明日か明後日には追いかけられるだろうか。そう考えながら三河の自分の寝床よりは幾分厚いばかりの布団に潜り込んだ守勝だったが、明け方にたたき起こされて床の上で呆然とすることとなった。

 織田信長討死。

 守勝は聞いた言葉が耳を素通りしていくのを感じた。とにかく這いずるように床から抜け出し、冷たい水で顔を洗って口を濯ぐ。

 毛利に討たれたのかと考え、即座に首を振った。信長が安土を発ったのは数日前である。備中に着くには早すぎる。

 安土の織田家は大混乱の中にあった。追加の報で、信長を討ったのは明智光秀と伝えられた。絶対的な主君が討たれた上、敵は身内だという。おまけに主だった織田家家臣団は各地に散っており、即座に戻ってこれる状況にない。筆頭家老は魚津にある。

 なるほど、暗雲とはこれか。

 守勝は妙にすとんと胸のつかえが落ちるのを感じた。今までずっと肩にのしかかっていた靄が形になったのだ。と同時に、二条御所にいた信長の長男も討たれたと聞いて、全身の血の気が引いた。

 引いた瞬間、何も考えずに守勝は飛び出した。

 家康も京にいる。もしかすると堺に向かった後かもしれない。そうであってくれ、と守勝は祈った。信長を討ち、織田と敵対した明智にとって、その盟友である家康もまた討つべき敵である。おまけに他の織田家臣団と違い、遊山中の家康はあまりに無勢すぎた。いくら四天王とまで呼ばれる屈指の武人たちが付いているとはいえ、供回りすべて合わせても三十余人しかいない。三河の雄とて一溜まりもない。

 万千代は。

 守勝は混乱の中借り受けた馬を走らせながら考えた。

 万千代は無事であろうか。あの若者は、己の才を笠に着て無茶をするところがある。だが、今は無茶のしどころだった。守勝とて口から泡を吹く馬の尻を叩いている。

 なぜ万千代の無事を考えたのだろうか。守勝は思った。万千代は家康の傍に侍っている。彼が無事ならば家康も無事なのだ。だからに違いない。

 家康は京にはすでにおらず、変事の際にはすでに堺に向かっていた。だが堺とて安心ではなかった。大和の筒井家は明智の縁者でもある。大和と堺は目と鼻の先だ。だが筒井が動いたという話も明智の軍勢に襲われたという話もまだ聞こえてこない。そうであればもっと明智の士気は上がっているだろう。それだけ確かめると、守勝は明智に知れた己の顔を再び頭巾で隠し、休むまもなく南に馬を向けた。

 存外に早く、一行は見つかった。

 顔見知りの商家で馬に水をやっている時に飛び込んできたのは榊原康政だった。

「清三郎!」

 鬼気迫る声で叫ばれて、守勝は一瞬言葉を失った。ここは堺まではまだまだ距離がある山城と河内の境であった。

「無事だったか」

 ほっとしたその声を聞いて、守勝はようやく強ばりを僅かに解いた。変事の報を聞いてすぐに同行していた御用呉服屋の伝で一行はこの先の寺に潜んでいるという。すれ違わずによかったと背中を叩かれ、守勝は馬から手を離した。

「殿はご無事ですか」

「ああ、相当取り乱しておいでだったがな。今は大丈夫だ。平八郎たちが付いている」

 本多忠勝の名を出され、なおも守勝は安堵と危惧がないまぜになって押し寄せてくるのを感じた。よほど青い顔をしていたのだろうか、康政は当てていた手でゆっくりと背中を撫でた。

「万千代も大事ない」

「なぜ……」

 なぜ万千代の名を、と思ったが、守勝の胸のうちに彼の安否がのしかかっていたのは事実だった。康政は、なぜの言葉が大事ないに掛かったのと思ったらしく、僅かに顔を顰めた。

「途中変事を聞きつけおった輩の一揆に遭ってな、あやつとっさに殿を庇って背に傷を負いよった」

 康政の言葉に、守勝は瞠目した。

「だが傷は浅いし、あの男、すぐに敵を軒並み切り伏せておったぐらいだ。本人も平気そうにしている」

 康政は相当に万千代を毛嫌いしていたはずだが、今の声色にそれは浮かんでいなかった。むしろ、感心している様子であった。

 あの万千代という男は、小生意気な態度は当初から全く改めずにいるくせに、こうやって徐々に憤っていた古参でさえも緩やかに懐柔している。康政のような堅い男にはこうした不器用なかわいげを訥々と見せているものだから、絆された男たちは自分が万千代に懐柔されているなどと露ほどにも思っていない。

 康政と共に逗留先の寺に向かうと、すぐに家康が守勝たちを出迎えた。守勝の無事によほど安堵したのだろう、満面の笑みではしゃいだ家康は守勝の体を確かめるよう無茶苦茶に摩っている。まだ相当狼狽しているのだろう、家康は様子がおかしかった。これで落ち着いたと康政は言っているのだから、一時の動揺ぶりが分かるというものだ。

「清三郎、奥に万千代がおる」

 一通り喜んだ家康は、声を一段低くして、そう呟いた。なぜこの人までも己の顔を見ると万千代の名を出すのか。微妙な苛立ちを覚えたが、守勝に万千代の守りを命じたのは他でもない家康であった。守勝は余計な事を考えそうになる頭を叩いた。

「様子を見てきてやってくれんか」

 家康はそう言うと、守勝に軟膏を渡した。傷を負っているという万千代のための薬だろう。薬事に長けた家康の手製のそれはよく効くと評判である。家康自身の評ではあるが。

 板張りの上に累々と転がる三河者たちをくぐり抜け、守勝は廊下の一番突き当たりの障子を開ける。三畳あるかないかの小さな部屋に、小袖姿の万千代が片膝をついてしゃがみこんでいた。袴も履いていない軽装だった。

 顔を上げ、障子に手を掛けたまま見下ろしている守勝を認めた途端、万千代の顔はくしゃりと歪んだ。泣き顔にも似ているそれは、あ、と声を出す間もなく消え失せた。万千代は口元を掌で拭ってすぐに俯いた。

「無事でしたか」

「お前こそ」

 守勝はそっと障子を閉め、狭い小部屋に入り込むと万千代の傍にしゃがみ、畳に膝を付いた。

「よくやったと聞いた」

「当然です」

 あなたに頼まれたからじゃない。偉そうな口の聞き方をした万千代は、俯いたまま口を尖らせている。普段ならば注意するところだが、なぜか苦笑しか浮かんでこない。必死にその薄い背で家康を守ったのだ。あの康政ですら悪態を閉じ込めるほど奮戦したのだから労うべきだ。その小さな頭を撫でてやろうかとして、己がそうしても彼は喜ばないであろうと守勝は手を引いた。僅かに動かしたその手を、万千代の視線が追っているのに気がついた。

 守勝はその手を誤魔化すように何度か握りこんで袴の中に押し込むと、話の矛先を変えた。

「傷はどうだ。痛むか」

「このぐらい、平気です」

 そういう割には顔色が悪い。白い顔から血の気が引いていていっそ青いぐらいだった。

「ほら、傷を見せてみろ」

「嫌だ」

 即答した万千代は歯を剥いて威嚇した。

「嫌も何もあるまい。殿の薬を無下にする気か」

 守勝はやれやれと抱えた手桶と薬を畳に置き、小袖の襟首に手を掛けた。ぐいと引くと白いうなじが顕になった。拭いそびれている血が飛んで固まっているから指で擦ると、粉のようにぱらぱらと散った。

「ほら、むこう向け」

「あ、だから嫌だと……!」

 強引に背中を剥くと、ばさりと袈裟掛けに斬られたような赤く長い傷が顕になった。両肩の骨あたりから腰まで続いている。簡単な手当はしたのだろうが、未だ血が滲み出している。守勝は思わず顔を顰めた。

 この段になってようやく万千代は抵抗を止めた。背を丸め、畳に両手をついて項垂れている。守勝は薬と共に持ってきた水桶で手ぬぐいを濡らすと、傷口の固まった血を拭った。

 康政が言うとおり、傷は思いの外浅そうだったが、それでも痛むのか万千代は唇を噛み切らんばかりに食いしばっている。

 一揆勢と言っていたがこの傷を見るからにそれなりに斬れ筋のよい刀で斬られたようで、傷口自体はきれいなものだった。牢人崩れか、それとも筒井が動いたのだろうか。逆に鉈や鍬で襲われていたらこんなものでは済まなかったかもしれない。

 渡された軟膏を指に取り、丁寧に傷に塗りこむ。やはり痛いらしく、万千代の背は小さく震えていた。力んでいるせいで白い背が僅かに赤く染まっている。黒く流れる髪から覗く小さな耳も、端が赤らんでいた。

「痛いか」

 強がって首を振るから、守勝は遠慮なくぐいと指を強く滑らせた。背中が強ばって波打った。

「あっ、……い、」

「我慢しろ」

 言い捨てると、守勝の言いように我慢がならなかったらしい万千代が、勢いよく振り返った。

「している!」

 振り向きざま、万千代の白い鎖骨のくぼみの下に、赤く散るものが見えた。こんなところにまで怪我してやがる。守勝は万千代の二の腕をつかんで振り向かせ、そこに手ぬぐいを当てようと手を伸ばして、それが刀傷でも血が飛んだ跡でもないことに気がついた。

 赤いそれは吸い跡だった。

 固まった守勝に怪訝な顔をしていた万千代だったが、すぐにそれと気がついたらしい。慌ててむこうを向くと、薬を塗ったばかりの背を小袖で隠した。

「もういいでしょう、出て行ってくださいよ」

「あ、ああ」

 袖に手を入れ襟元を合わせる万千代の、皺の寄った背中を見ながら、あれは誰のものだろうかと嫌な想像をしてしまった。

 初めて見た万千代の肌は、白く、薄くはあるが硬い筋肉で引き締まった美しい背であった。骨のくぼみに落ちた影さえも白い。小袖の上から羽織も肩にかけた万千代のその背はもう守勝の目の前にはなかったのに、目に焼き付いているかのように忘れられない。

 万千代は唇を尖らせて、黙っている守勝に向き直った。万千代の白い手が邪魔な桶に掛かり、それを膝の横にずらした。中の水がたぽんと音を立てて揺れている。なんとはなしにその波打つ水面を見つめていると、焦れたように万千代が手を畳について、まだ襟元が少し撚れたままの上半身を守勝に近づけた。

「言いたいことがあるなら言ってくださいよ」

 切りだされて、守勝は眉を寄せた。

「別に、俺がとやかく言うことでもない」

 万千代は尖った目でじろりと睨んでくる。

「本当に?」

 しつこく絡む万千代に、守勝は鼻の上に皺を寄せた。

「お前は俺に何を言って欲しいんだ。ああ、殿には気づかれんように十分気をつけるんだな」

 言葉を終わらせる前に、万千代の手から濡れた手ぬぐいが飛んだ。絞ってもいないそれは勢いよく守勝の鼻っ面にべちりと当たって膝に落ちた。蜻蛉切とまではいかずとも、名槍を振り回す万千代は思った以上の豪腕だった。

「お、まえ……」

「殿のお顔を見てきます」

 万千代はきっちり襟を直すと、すっくと立ち上がって部屋を出ていった。行儀悪くピシャリと音を立てて障子が守勝の鼻先で閉じた。

 残された守勝はびっしょり濡れた袴から手ぬぐいをつまみ上げる。ぼとぼとと水が垂れて、畳も袴の下の下帯もずぶ濡れだった。

「面倒臭いやつだな」

 何に憤ったのかさっぱり理解できないが、水をぶちまけることはないだろうに。

 守勝は絞った手ぬぐいで畳を拭き立ち上がると、縁側の障子を開けて濡れた袴も絞った。すっかり皺だらけになってしまってみっともないことこの上なかった。



 


 三十余名の一行が河内山城から伊賀を抜け、命からがら三河までたどり着いた頃、世の情勢は大きく変わろうとしていた。

 そもそも中央にさほど興味を持っていなかった家康の目は、混乱の中にある西ではなく、長年の脅威である東に向いた。信長が死ぬ直前に滅んだ武田の土地を挟んで北条と争ううちに、気がつけば信長を討った明智はすでに亡く、織田の綺羅星は羽柴という将に変わっていた。

 守勝はというと、武田の遺臣を掻き集め、戦の終わった北条との講和に赴き、と家康の命により東奔西走していた。

「殿も人使いが荒いな」

 今日も家康に呼ばれるがまま、ばたばたと忙しなく走り回っている所を呑気そうな直次に捕まり、守勝はため息を吐いた。なにか、いろんな厄介ごとを持ち込むのは長年の親友であるこの男のような気がしてならない。

「お疲れ様。落ち着いたら飲みにでもいこう」

 へらりと笑うその顔にあまりに毒気がなくて、守勝は結局やれやれと八つ当たりに近い苦情の文言を舌から吐き出すのをやめるのだった。

「講和はお前、副使だったんだろう。なら少しは楽だったんじゃないのか」

 しかも万千代とずっと一緒だったんだろう。そう囁かれて、守勝は黙ったことを後悔した。お前と一緒にするな。肩に手を回して抱き寄せてくる直次を鬱陶しく肘で押しのけ、守勝は悪態を吐いた。

「だから余計に大変なんだろうが。あいつの首根っこ捕まえながらあの北条とやりあうのがどんだけ大変だったか、お前一度やってみろよ」

「俺はお前と違ってこっちの方だから」

 守勝の恨み節に、直次は槍を振るう素振りをした。確かに直次は戦場の華だし、守勝は腕に自信がないわけではなかったが、どちらかというと折衝事の場によく連れだされた。

 だから俺が万千代に宛てがわれたんだろうな、と推し量って、いやそれだけではないのではないかと否定した。

 家康は、直次と万千代の事に気がついているのではないだろうか。

 扇で開けたあの障子の隙間が脳裏に蘇った。

 ちらりと横を見る。当の直次は、鼻歌をうたいながら空を仰いでいる。直次の首を見た。もう秋も半ばだというのに小麦色に灼けた首は太くてたくましい。

 そんなわけないか。

 直次は邪気のなさそうな目をくるっとさせて、自分を見つめる守勝に視線を合わせた。いたたまれなくなった守勝はそっと目を逸らした。

「どっちにしろ、講和も終わった。そろそろ俺もお役御免だろう」

 この図々しくも肝の座った同輩ですら、今年の正月に家康から所領を賜っていた。そろそろ自分の番になってもおかしくないし、主君からはそれなりに可愛がられているとも自負している。ここしばらくの苦労を考えてみれば、直次以上の禄をもらっても罰は当たらないのではないか。

 そう少しばかり浮かれていた守勝は、そのまま見事に打ち砕かれることになる。

 直次と別れ、そのまま呼び出された御書院に入ると、喜色満面の家康がいた。その向かい正面、少し右に万千代が座していた。家康は、守勝を見ると忙しなく手招きして万千代の横に座らせた。

「此度の講和、大儀であったな」

 家康の機嫌の良さに、守勝はもしかするとこれは本当に領地拝領かもしれん、と内心期待しながら手を畳に付いた。それはもう、本当に大儀であったのだ。普段はふてぶてしいばかりの万千代であったが、徳川講和の正使という看板を肩にしょった彼は、関東大国北条の御本城様を前にすっかり飲み込まれていたようだった。あまりに緊張しすぎて、やるべきことを箇条書きした備忘録を部屋に置きっぱなしにし、守勝が気付かなければそのまま忘れていくところだった。もういっそお前は黙って笑っていろと何度言いそうになったことか。

「万千代、清三郎。甲斐、信濃二国も持って帰ってくるとは大した手腕だ。さすがわしが見込んだだけある」

 家康はそう言って膝を打った。

「万千代には以前より強請られておった井伊谷四万石、くれてやろうと思ってな」

 恭しく頭を下げる万千代の横で、守勝は四万石かと頭の中で算盤を弾いた。吝嗇で有名な家康が二十歳を少し超えたばかりの小僧に宛てがう所領としては破格だった。あれが四万石ならば俺は、と薄目で数えていた守勝に、家康はにこりと微笑んだ。

「それで清三郎、お前なんだが、万千代の与力になってやってはくれんか」

「はっ、喜んで」

 勢い良く額を畳につけようとして、守勝は固まった。

「……今、なんと」

 恐る恐る顔を上げると、家康は手にした扇を閉じたり開いたりしながら熱弁を奮った。

「万千代もこれで四万石の大名だ。だが何分まだ若い。経験もまだまだ少ない。井伊谷がいかに元井伊家の領地だったとはいえ領主としては足りぬところもあろう。そこでだ」

 家康は名案を思いついたような顔をして休息から身を乗り出した。

「清三郎のような切れ者が家老でおれば、わしも安心じゃ」

 守勝は、ぎょっと目を見開いて家康を見た。まさか、この人は俺に嫌がらせをしているのではあるまいな。だが穴が開くほどまじまじと見つめたところで、家康の笑みの上には悪意の欠片もなかった。長年遠くから近くから眺めていただけに分かる。この人は、これが最善だと思っているのだ。恐ろしいことに。

「万千代も、異論はないな?」

「殿の仰せに異論など」

「よいか、万千代。四万石は清三郎の分込みであるぞ。清三郎の言うことをよく聞き、重用するようにな。清三郎は井伊谷に劣らぬ宝だ。清三郎はわしに代わり、万千代をよく盛り立てるよう頼んだぞ」

 万千代は深く頭を下げた。守勝は呆然とした。呆然としすぎて後半は殆ど耳に入ってこなかった。目の前の家康は、悪戯が成功した童のような顔をしている。仕方なく守勝も頭を下げた。じろりと横から睨むと、万千代はわかりやすく「素知らぬ顔」をした。

 お前か、首謀者は。

 守勝の無言の罵りを、万千代は軽く受け流した。

 満足気な家康に二人して頭を下げ、並んで御書院から退出すると、守勝は強引に万千代の腕を掴み、庭の端まで引っ張っていた。

「おい、どういうことだ」

 詰め寄ると、大人しくここまでついてきた万千代は、守勝の腕を鬱陶しそうに払った。

「なんでお前が四万石な上に俺がお前の家臣にならねばならん!」

「さあ、殿のご判断ですから」

 嘘吐け。お前がおねだりしたんだろうが。守勝の手腕をすべてかっさらっていった万千代の横で、守勝は不服げに鼻を鳴らして腕を組んだ。

「納得いかん」

「殿はあなたの力量を分かってますよ。大層な褒美の言葉があったじゃないですか。井伊谷に並ぶ宝、でしたっけ」

 万千代は口の端に笑みを載せて小首を傾げた。目が猫のように細くなり、長く濃い睫毛が揺れている。こんな顔をして家康や直次に甘えてみせたのかもしれないが、守勝には腹立たしいだけだった。

「おだてで腹が膨らむか」

「三河の男は膨らむものだとばかり思っておりましたが」

「お前、馬鹿にしてるのか」

「敬語」

 万千代は白く細い顎をつんと上げて守勝の言葉を遮った。切れ長の目をそっとこちらに流してくる。女であれば随分婀娜っぽい仕草だろうが、と守勝は薄らに思う。やはり腹が立つ。

「あなたは井伊家の家老になるのだから、敬語使ってください」

 正論ではある。守勝はぐっと黙り込んだ。

「それから俺のことは今後殿と呼ぶように」

 偉そうに、と思ったが守勝は投げやりに頷いた。確かに井伊家の家老であれば当主である万千代を殿と呼ぶのは然りである。仕方ない、仕方ない。殿のご判断だ、と守勝は胸の内で繰り返した。この殿はもちろん万千代ではなく、家康のことである。

「分かった。仕方がない。殿と呼んでやる。だがな」

 守勝は言葉を区切ってその形のいい鼻の頭にぐいと指先を向けて押した。形のいい鼻が僅かに潰れるが、それでも小憎らしいほど整った美貌は崩れない。

「対外的には、だ。いいか、俺はあくまで徳川家の直参だ。殿の、いや大殿の命でお前に力を貸してやるだけだ。あくまでも与力だ。分かったか」

 万千代は守勝の指を叩くと、聞いているのだかいないのだかさっぱり分からない顔をして明後日を向いた。だめだ、と守勝はくらりと目を瞑った。

「あ、そうだ。じゃあ、これから俺はあなたのこと、殿のように清三郎って呼んでいいですか」

 なにがじゃあ、だ。やっぱり聞いていないな。どうでもよくなって好きにしろ、と投げ捨てると、万千代はにんまり笑った。

「それとも、菊がいいかな」

 脱力していた守勝は飛び上がった。

「お前……なんでお前が俺の幼名知ってるんだ」

 万千代は黙って小首を傾げた。守勝はずるずるとしゃがみ込んで大きくため息を吐くと、首を曲げて万千代の顔を仰いだ。

「彦四郎だな。あいつがばらしたんだろ」

 どこでとは言わないが。そう言外に乗せて詰ると、万千代は肩を竦めた。

「さあ、どうでしょうね」

 守勝は頭を抱えた。直次が嬉々として守勝の昔話をする様は簡単に想像できた。菊千代という己の名前がうまく言えなくてきくちょ、になってたとか、生まれて初めて家出をしたら肥溜めに落ちてあやうく死にかけたとか、そんな碌でも無い話を。

「なんでお前ら俺の話なんてしてるんだよ。変なダシに俺を使うな」

「いいじゃないですか。俺はもっと聞きたいな」

 するりと擦り寄る猫のような顔をする万千代の鼻っ柱を、今度は思い切り指で弾いた。

「いたっ」

「俺にその顔を向けるな」

 鼻の頭に皺を寄せてそう吐き捨てると、それほどまでに痛かったのか、鼻を片手で押さえた万千代が目を三角にして噛み付いた。

「主君に対してなにをする!」

 にわか主君が何をいう。思ったが、守勝はそれを口にはしなかった。守勝は湧いた言葉を胸の奥にぐっと押し込めて顎を上げた。

「じゃあもっと主君らしくしろ。威厳を持て。むやみに媚びるな。人の話は聞け。俺の主に対する要求は厳しい」

 腕を組んでふんぞり返る守勝に、万千代はふんと鼻を鳴らして外方を向いた。平紐で括った髪の先が黒猫の尻尾のように跳ねた。自分で結んだのか、少し紐が捩れている。守勝は何かを思い出しそうになったが、結局なにも思い出せなかった。揺れる毛先を見つめながら、守勝は言った。

「……彦四郎でなくて、よかったのか」

 万千代はくるりと振り向いた。守勝が目で追っていた髪が視界から逃げる。

 なんのことだと恍けるかと思ったのに、万千代はまっすぐに守勝を射ぬくように見返した。家康を唆して守勝を嵌めたことは認めるらしい。それほどまでにして己を得ようとしたことを、嬉しく思うか腹立たしく思うかは微妙なところだな、と守勝は他人事のように考えた。

「あなたのそういうところ、嫌いだ」

「そりゃどうも、殿」

「そういうとこも」

 嫌だと言うならとっとと手放せばいいものを。万千代は立腹した様子で珍しく足音高く庭石を踏み鳴らしながら庭から出ていった。

 その背中と揺れる髪を見送りながら、なぜこんなことになってしまったのか、と守勝は嘆いた。

 嘆いた、と胸中で言葉を拾ってはみたものの、それほど落胆はしていない自分がおかしかった。不満があるかないかでいえば大いにある。直次がこの件を知れば、膝を打って大笑いするだろう。実際それが一番辟易することで、そんなものだった。

 本多家や酒井家のような三河の名家の生まれではなかった。

 それでも安祥譜代の家臣たちに負けぬ勤めを必死で果たし、若い頃から主君に目を掛けられ、いずれ大名になるべき男と称されてきた。守勝はそれほどに奮戦してきた。

 それがまあ、こんな若造に。

 いつ道を踏み外してしまったのか、一つ一つさかのぼってみたけれど、どれもこれも間違いだったような気もするし、これでよかったような気にもなる。

 まあどうせ数年だけの話だ。これまで以上に万千代に振り回されることは必至だが、殿の気が済むまで精精頑張ってみるか。

 守勝は自分の中でそう決着を付けて、やれやれとため息を漏らしながら家康の屋敷を出た。

 それから数ヶ月後、万千代は家康から新たに直政という名と名馬黒半月、それに武田の遺臣団を貰い受け、十五の頃から傍についていた家康の元を離れ、父祖の地井伊谷に入った。

 青毛の馬に跨った万千代は、いつも白白とさせている顔をその時ばかりは白桃のように赤らめていた。

「清三郎」

 万千代は、舌を縺れさせながら守勝の名を呼んだ。あの日庭で人をからかうようにその名を口にしたのとは、まるで別人のような声だった。

 しばらく待ったが、万千代の口から続きの言葉は出てこなかった。代わりに鳥の甲高い鳴き声が降ってきて、守勝は空を仰いだ。青空には羽ばたく影も見えず、ただ薄い雲が緩やかに流れていた。

 木俣守勝は、万千代の横にいる。




          §


 いなかもの。

 声には出さずにそう目の前の男を罵ると、菊と呼ばれていた彼はまるで胸中の自分の声が聞こえたかのように目を見開いた。しまった、と思うがもう遅い。万千代は慌ててつんと顔を逸らした。

 養母にも再三注意されていたことだった。思ったことをすぐに口に出すな。人を見下すな。当主たるもの、家臣領民遍く愛し愛さねばなりませぬ。尼僧の彼女はそう何度も優しく強く諭したが、その教えは未だ身に染み渡っていなかったようだ。今でこそ流浪の身、田舎百姓上がりの野武士ではあるけれど、あなたの父は藤原家の流れを汲む名家の子、なんぞ今川などに屈するものではないのですよと幼い頃から何度もも実母に繰り返し刷り込まれたそれを打ち消すに至らなかった。分かってはいる。いるのだが、この性根はどうしようもない。

 万千代より五つ六つは年上であろうその男は、隣で磊落に笑う同輩を蹴り飛ばすと、憤った様子で足音高く出ていった。蹴り飛ばされた男、確か安藤何某とかいう新しい主君の近習は、あいつは根に持つから気をつけた方がいい、とからかい混じりの助言を残して大きな手で万千代の背中を軽く叩くと、からから笑いながら主君のいる座敷に戻っていった。

 またやってしまった。粋がってみせても、所詮まだ万千代は十五の子供であった。入ったばかりの家の近習を怒らせてしまった。万千代は腹で結んだ羽織紐をぎゅうっと握って顔を顰めた。遠く、松の向こうで高く細い鳥の鳴く声が聞こえたような気がして、途方にくれた万千代は、その声を追うように視線を投げた。

 気配を感じて、万千代は視線を正面に戻した。目の前には先ほど憤って出て行ったはずの男がいた。驚いて目を見開くと、彼は機嫌の悪さを隠さないままに万千代の前にしゃがみこんだ。

「手、離せ」

「え」

「羽織だ。紐、千切れかけてる」

 言われて俯けば、手のひらの中に収まっている羽織の紐は、確かに今にも千切れそうだった。もしかすると新しい主君の上席の小姓に生意気なと小突かれた時に破れかけたのかもしれない。ちなみに万千代に手を上げたかの年長の小姓へは、脇腹の見えないところに拳を突き立てて仕返しはしている。

 慌てて袖を上げて身頃の縫い目を見る。破けてはいないだろうか。新しく仕立ててもらったばかりの羽織なのに。怒られる。どうしよう。

 ここでおろおろとしてみせればかわいげがあるというのだろうが、万千代にできるのは強張った顔を必死で押さえ、無表情でいることだけだった。子どもらしいかわいげなどあるだけ邪魔な子供時代を、ついこの間まで過ごしていたのだ。その頃と変わったのは、ただ青竹のように伸びたこの手足と背丈、それから少し肉が削げて大人びたこの面構えだけだ。

 彼はしゃがみ込んだまま、自分の羽織紐を解いた。見下ろした先の彼の眉間にはずっと皺が寄っていて、怒っているというよりは元々の彼の素がこの表情らしいと気がついた。もったいない、と自分のことは棚にあげて万千代は思った。

 もったいない。さっきまでそこにいた、目鼻立ちの派手でおおらかなあの優男のような華はなかったけれど、目の前で俯く男はなぜか万千代の目を惹いた。彼は朴訥とした、それでいて丁寧に鉋をかけた檜のようだった。

 彼の旋毛に松の葉が付いているのに気がついて、万千代はそっと手を伸ばそうとした。

「おい、じっとしてろよ」

 思考の渦に陥っていた万千代は、急にそう言われてびくりと体を引いた。だからじっとしてろって言ってんだろ。そう彼は言って、万千代の羽織の紐を引いた。

「ちょ、ちょっと何を」

「動くなって言ったろうが」

 彼は万千代を制止すると、外した紐を羽織の乳から解いて外した。持ってろ、とそれを手渡されるから思わず受け取る。

「また殿の所に戻るんだろう」

 しばし迷って万千代は頷いた。

「折角のいい紐だ。直してもらってなにかに使え。だが殿の前に出るならみっともない格好はできんだろ」

 彼は自分の羽織の紐を外すと、万千代の羽織に付け替えた。平織りの、飾り気のない質朴な千歳茶の紐だった。

「使い古してはいるが、そう悪いものじゃない。急場しのぎぐらいにはなる。新しいのを調達するまでこれを付けておけ」

 彼はぶっきらぼうにそう言ってすっくと立ち上がった。紐がないからだらりと襟が開いてみっともない姿だった。

「あなたは」

「俺はもう屋敷に帰るだけだから構わん」

 そう言うと、彼は紐を無くした羽織を脱いで肩に掛けた。ひらひらと手を振って立ち去ろうとした彼は、思い出したように足を止めた。

「ああそれと」

 振り返った彼の眉間には、最善からずっと刻まれていた皺が消えていた。

「紐と一緒にその生意気ぶった態度、次に俺に会う前に直しておけよ」

 万千代は思わずかっとなって、握っていた紐を彼に投げつけた。軽い紐は彼に当たることなくひらひらと舞って地面に落ちた。

 土の上にくたりと落ちたそれを拾い上げて砂を払い、懐に入れた時にはもう彼の姿はなくて、それから羽織を直し、新しい上等な紐に付け替え、新しい羽織を仕立てる頃になってもその姿を見かけることはなかった。

 あれから何くれとなく面倒を見、ついでにちょっかいも出してくる直次とはすっかり仲良くなったけれど、彼のことだけはねだって聞いてみてもはぐらかされるだけで名前すらわからなかった。それとなく家康に聞いてもみたが、さあてと首を傾げられるばかりで埒が開かなかった。

 万千代はただ菊という名と使い込んだ紐を握りこんだ。羽織の乳から外した彼の紐を口に咥え、万千代は伸びた黒髪を括った。少し結びにくかったけれど、毎日使っているうちにすっかり慣れた。

 あれから七年。

「清三郎は」

 あの日のことを覚えてはいまい。自分のくれてやった羽織紐を見ても顔色ひとつ変えなかった。知らぬ顔をする利などないから、本当に忘れているだけだろう。

「なんですか、殿」

 文机に頬杖を付いて細筆を咥え、滔々と思い出の記憶に浸っていた万千代は、守勝の低い声に我に返った。

「独り言」

「ああそうですか」

 守勝は気のなさそうな顔でそう返すと、きょろきょろとあたりを伺った。それで自分の他に家臣がいないのを確かめると、咥えていた筆を取り上げ、ぴしゃりと肘を叩いた。

「行儀悪い、筆を咥えるな」

 最初の約束を律儀に守る守勝の、その声の切り替わりの速さには未だに驚く。万千代は、取り上げられた筆を硯の上に置くと、立ち上がって伸びをした。

 開け放した障子の向こうから、ぴい、ぴいいと高く引きずるような鳥の鳴声が聞こえた。多分二匹。

 あの日も鷹に追われる千鳥の声がした。そうして無償の厚意をかわいくない万千代に施してさっさと一人忘れてしまった男の手は、思ったより冷たくて、少し驚いた。

 なぜかそれだけよく覚えている。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ