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苦手な方はご注意ください。

鋼鉄の巨象

作者: 海雀鳥落

この作品は完全なフィクションではありませんが、完全なノンフィクションでもありません。

史実と違う点もありますので、そのあたりをご留意ください。

〈プロローグ〉



 人気(ひとけ)のない寂れた博物館に、一体の巨象が眠っていた。

 激戦の中で巨象に刻み込まれた弾痕の数々は上から塗られた新品のペンキで隠され、絶えず泥に塗れていた履帯は綺麗に洗われ、元の暗い鉄色に輝いていた。


 巨象の名はフェルディナント、またの名をエレファント重駆逐戦車。

 かの第二次世界大戦において、ドイツ軍が用いた駆逐戦車である。

 この巨象は西部と東部の両戦線において、祖国ドイツのために戦い抜いたのだ。


 だがしかし、新品同様の姿になっても、二度とこの巨象が目覚めることはない。

 戦争は終わったのだ。

 その巨体が動き出す事も、長大な主砲が筒音を上げる事も、もう二度と無いのだ。

 巨象はその事を喜びもせず、悲しみもせず、ただ博物館の屋根の下で、何も言わずに眠り続ける。

 

 そして終わりなき微睡みの中で、鉄の巨象は夢を見るのだ。

 かつて砲煙弾雨の戦場の下を共に駆けた、あの男の夢を……。




〈1〉






 時は1944年、6月のローマ近郊。


「――撃てぇ!」

 

 独特の金属音が混じった砲声が轟き、88ミリの被帽付徹甲弾が砲口から飛び出す。

 弾は螺子の様に回転しながら飛翔し、1000メートル先にいたM4シャーマン中戦車の装甲板を貫通。

 操縦手の上半身を粉々に消し飛ばして車体後部のエンジンに食い込んだ。

 そのまま砲弾内に充填された炸薬に火が付き、砲弾が爆発して車内を完膚なきまでに破壊する。

 戦車としての機能を完全に奪われたM4はその場で炎上し、その中から弾薬が誘爆するボン、ボン、という破裂音が聞こえた。脱出した乗員の姿はない。


「25輌! ――米軍(ヤンキー)の戦車は大したことないな、ストーブみたいに良く燃えるぞ!」

『そうも言ってられんぞ、ベルント。11輌いたフェルディナントも、今や俺達2輌だけだ! 

 ――それ、26輌目! 撃てっ!』


 その声の直後、再び向こうでM4が爆発し、燃え上がる戦車の残骸が2つに増えた。


 男――ベルント・フォン・バウアー少尉と、その戦友ディルク・シュライネン少尉は、ドイツ国防軍第653重戦車駆逐大隊の第1中隊に属する戦車兵だった。


 東部戦線でのクルスクの戦いの後、第1中隊は本隊と別れてイタリア戦線に投入されていたが、連合軍の数の暴力の前に戦力は少しずつ消耗し、今や残っているのはベルントとディルクの2輌のみとなっていた。

 

 しかし二人の表情に恐怖や焦りはない。数の差を物ともしないだけの車両性能の差が、彼我の間には広がっているからだ。

 

 男達が乗るのはフェルディナント重駆逐戦車。イタリア戦線に来る頃にはエレファントと改名されていたが、二人は今でもそう呼んでいた。

 この鉄の巨象の正面装甲はティーガーⅠ重戦車の倍の厚みを持ち、敵弾を容赦なく弾き返す。

 旋回砲塔こそ無いものの、戦闘室から伸びる八八ミリ砲は71口径の長砲身を持ち、連合軍の所有する戦車のほぼ全てを1000メートル先から撃破できる。

 代償として65トンに達する大重量と、モーター駆動による燃費の悪さがあるものの、敵が向こうから勝手に押し寄せてくるこの状況では大した欠点にはならなかった。


『2時方向、700メートル先にシャーマン4輌発見! こっちは左端から狙うぞ!』

「了解! 車体2時方向、徹甲弾装填! 右端から狙え!」


 キューポラから顔を出して周囲の様子を窺いつつ、車内通話機で操縦手と装填手、そして砲手に指示を出す。ウイイィィ、というモーター独特の駆動音が響き、フェルディナントの巨体がその場で旋回した。旋回する砲塔を持たないフェルディナントは、車体ごと相手を向かなければ狙いをつけられないのだ。


「――徹甲弾、装填完了!」

「狙い良し、撃ちます!」


 装填手と砲手が立て続けに叫んだ。再び発砲音が響き、徹甲弾が低く伸びる弾道を描いて飛翔する。

 今度はM4の砲塔側面、米軍の国籍マークである星印が描かれた位置に着弾し、その裏の弾薬庫を誘爆させた。砲塔が宙を舞い、車体のタレットリングの中から火柱が上がる。


「やった! ……おっと」


 残った3輌のM4の砲塔がこちらを向いていることに気付き、ベルントは慌てて頭を車内に引っ込めた。

 三門の76.2ミリ主砲が一斉に火を噴き、その全てがフェルディナントに命中。金属を棒で叩いたような鈍い音が響く。3発の内2発は装甲に衝突した衝撃でそのまま砕け、1発は弾き返された。


「効くものか、フェルディナントの面の皮を舐めるなよ」


 キューポラの覗窓からM4の様子を見つつ、ベルントが呟く。

 次の瞬間、ディルク車が発射した砲弾が左端のM4を貫き、その場で擱座、炎上させる。

 生き残った2輌のM4は攻撃を諦め、こちらに背を向けて逃げ出し始めた。

 が、ここは起伏の少ない平地、フェルディナントの砲弾から逃げ切れる道理はない。

 

「撃てぇ!」

『撃てっ!』


 ほとんど同時に放たれたフェルディナントの砲弾は開いた距離を一瞬で詰め、車体後部のエンジンルームに飛び込んだ。エンジンから火が出たのだろう、2輌のM4から黙々と煙が上がり、そのまま停止してしまった。ハッチが一斉に開き、中からわらわらと乗員が脱出するのが見えた。


「車長、撃ちますか?」 


 車内通話装置を通して、ベルントに無線手がそう問いかけた。

 クルスク戦後に増設された装備として、フェルディナントは7.92ミリのMG34機関銃を備えており、この機関銃を撃つのは無線手の仕事であった。


「止めておけ、神の加護を失うぞ。どうせ大した武装も持ってはいまい、機銃弾は歩兵相手にとっておけ」

「了解」


 ちら、とディルクの方を見ると、向こうも逃げる戦車兵に対して機銃を撃つことはしていなかった。

 これは開戦以来、二人が貫いてきたジンクスだった。打ちのめされて戦う力を失った敵――例えば降伏した敵兵や、乗車を破壊された戦車兵――を撃ち殺した卑怯者は、神に見捨てられて無様に死ぬ。

 近代戦の時代においては酷く時代錯誤な思想だが、二人はそれを固く信じていた。


『もう敵の後続は無いようだな。……そろそろ撤収命令が出そうだ、後退しよう』

「ああ、そうするか。このデカブツが愚図りださなきゃいいんだが」 

 2輌はその場で反転し、後方に向かって退却を始めた。

 この日の戦いは10時間に及び、2輌はこの間に30輌の敵戦車を撃破していた。





 〈2〉






 ディルクが予想していた通り、2輌は西部戦線から撤収。東部戦線の第2、第3中隊と合流し、後に『バグラチオン作戦』の名で広く知られることとなるソ連軍の大攻勢を迎え撃つ事となった。


「来たぞディルク、イワン共のスチームローラーだ!」

『ああ、見えているとも! 先頭の奴から落ち着いて狙え、側面に回り込ませるな!』


 ベルント達に向かって草原の向こうから押し寄せてくるのは、跨乗歩兵を乗せたソ連のT-34中戦車が数十輌。ダルマのように背が高いM4とは違いその姿勢はしゃがんだように低く、厚さ45ミリの正面装甲には60度の傾斜がつけられている。

 そして76.2ミリ砲を搭載する既存のT-34-76の中に、85ミリ砲を搭載した新型T-34-85の姿もあった。


「〝85〟もいるようだが、T-34はどこまでいってもT-34だ。

 フェルディナントの敵ではない。落ち着いて狙え!」

 

 ベルントがキューポラから頭を出して周囲を確認しつつ、砲手に指示を出す。

 

 ドイツ戦車兵の多くは視界の広さを重要視していた。

 キューポラから頭を出せば、そこを歩兵に狙撃されて死傷する可能性も高い。

 しかしペリスコープから得られる視界は酷く限定的で、歩兵や敵戦車の待ち伏せに気付けずに撃破される危険性が増えるのだ。ベルントが今まで会ったベテラン戦車兵は皆、危険を冒してでも必ず周囲をその目で見回していたし、ベルントもそうしていた。


 フェルディナントの八八ミリ砲が咆哮を上げる。鋭い放物線を描いて飛んだ弾は、しかし敵部隊の先頭にいたT-34-85の頭上を飛び越し、そのまま遠くの地面に落ちた。


「クソッ、外した!」

「続けて撃て! 距離を詰めさせるな!」


 T-34-85がベルントの600メートルほど先で速度を落とし、その主砲から徹甲弾を発射した。同時に車体後部に跨乗していた歩兵が飛び降り、戦車を盾にしてジリジリと前進を始める。


 発射された砲弾はフェルディナントの戦闘室正面に命中、装甲板に突き刺さり、そのまま止まった。鈍い衝撃音が車内に響く。


「ド素人め、200ミリの装甲をこの距離で貫通できるものか! 撃てぇ!」


 こちらがお返しとばかりに射撃すると、徹甲弾は今度こそT-34-85を正確に撃ち抜いた。

 敵戦車がくぐもった爆発音を上げて停止、生き残った乗員が慌てた様子で脱出する。


「よし次だ! 〝85〟から狙え!」

「了解! ……そこだ!」


 今度は初弾から敵戦車に命中した。車体側面の燃料タンクに命中した弾はそのまま戦車の中を横断して後部のラジエーターに到達、そのまま内部で炸裂して戦車を炎上させた。


 先頭を潰された敵の戦車隊が半壊するまで、そう時間はかからなかった。

 大挙して押し寄せていたT-34の群れは、焼けたフライパンにバターを押し当てたように溶けてなくなっていった。かつてクルスクの大戦車戦を乗り越えたベルントとディルクにとって、この程度の数の敵は物の数ではなかった。


 第一、こちらはフェルディナントなのだ。フェルディナントは重量65トンの威容を誇る重駆逐戦車。

 砲身6.3メートルの「アハト・アハト」こと88ミリ砲を搭載し、装甲厚は最大200ミリにも達する。

 この怪物に立ち向かおうとするものがいるか? 

 アハト・アハトは無敵なのだ。

 フェルディナントの砲口に睨まれたT-34は、それで最期なのだ。


「榴弾装填! 目標敵歩兵、前方四〇〇メートル! 撃てぇ!」


 車体に据え付けられたMG34がドラムを叩くような猛烈な発射音を上げ、前方から迫って来るソ連兵を薙ぎ払う。そこに砲手が放った榴弾が飛び込み、破片と爆風で歩兵隊を粉々に粉砕した。


「第一波は捌ききったか。ディルク、お前は大丈夫か?」

『何とかな。貫通弾も出ていない。……少し下がろう、俺達2輌だけ孤立している』


 ディルク車は敵のいる方向を向いたまま、のろのろとバックし始めた。

 厚い装甲と巨大な火砲の代償として、フェルディナントは路上でも時速20キロしか出せない。

 まして今いるような草原の上では、時速15キロが精々であった。


 ベルントはもう一度キューポラから顔を出し、周辺状況を確かめた。今のところ敵影は見えない。

 少し安心して、自分も操縦手に命令を出そうとして咽頭マイクに指を当てた。

 

 しかしその時、再び草原の向こうから、ソ連軍の戦車が新たに4輌、一斉に身を乗り出してこちらに向かってくるのが見えた。


「前方に敵戦車5輌! ……T-34か?」


 敵戦車の傾斜した前面装甲を見たベルントが呟く。

 が、それが間違いであることはすぐ解った。

 敵戦車はT-34より二回り大きい上に、その長大な主砲の先には巨大なマズルブレーキが着いていたのだ。


『――違う、スターリン戦車だ! 後退は中止、先頭の奴から二輌がかりでやるぞ!』


 ヨシフ・スターリン・ドヴァー、通称IS-2重戦車。

 搭載する口径122ミリのカノン砲はフェルディナントの88ミリ砲に迫る破壊力を持ち、厚さ120ミリの正面装甲にはT-34同様、当たった砲弾を滑らせるのではないかと思う程のきつい傾斜がつけられている。

 書記長スターリンの名前を冠する、名実ともにソ連軍最強の重戦車であった。


「目標スターリン戦車、前面のバイザーブロックを狙え! そこが垂直のはずだ!」


 轟音と共に砲が後座し、秒速1000メートルにまで加速された徹甲弾が発射された。

 今まで幾多の戦車を破壊してきた必殺の砲弾は、寸分違わずIS-2の車体正面、操縦手用の覗窓がある位置に着弾し――、そのまま明後日の方向に跳弾する。


「跳ね返されただと! 馬鹿な、バイザーブロックに直撃したはずだ!」

『いいや、よく見ろ。正面装甲に垂直部分がない、改良型車体だ!』


 ディルクに指摘されて、ベルントはもう一度こちらに突撃してくるIS-2を見た。


 確かに、傾斜した前面の中で一ヶ所くびれたようになっていた垂直部分が無くなり、前面装甲全体が均一に傾斜している。バイザー自体も開閉可能なものから固定式へと変わっていた。

 弱点狙撃による撃破は不可能。ならば――。ベルントとディルクが一瞬で同じ結論を出す。


「硬芯徹甲弾だ!」

『硬芯徹甲弾装填!』


 指示を受けた各車の装填手は脇から「PzGr40/43」の文字が記された砲弾を取り出し、通常の徹甲弾よりずっと軽いそれを握り拳でもって砲尾に押し込んだ。


この砲弾は表面こそ柔らかいプラスチック製であるが、中にはタングステン合金の硬い芯が入っている。

軽い分、より高速で飛翔し、この硬い芯でもって敵の装甲を打ち破るのだ。

貴重なタングステンを使うため生産量が少なく、頻繁に撃つことはできない、まさに虎の子の弾だった。


 ほぼ同時に左右から硬芯徹甲弾を撃ち込むと、IS-2は沈黙し、車体のあちこちから灰色の煙が上がった。

 派手に炎が上がっていないのを見ると、おそらく乗員が全滅したのだろう。

 硬芯徹甲弾は中に炸薬が入っていないが、装甲を貫通する過程で帯びた高熱と飛散した装甲片で乗員を殺傷するのだ。

 

 71口径のアハト・アハトが放つ硬芯徹甲弾の威力は、ただでさえ高いフェルディナントの攻撃力を限界まで引き上げた。4輌いたIS-2のうち、既に3輌に火がついていた。


「装填完了! 硬芯徹甲弾、これで最後だ!」

「構わん、出し惜しみをするな! 撃て!」


 600メートルほどまで接近された状態で、フェルディナントと4輌目のIS-2がほとんど同時に発砲した。

 硬芯徹甲弾は見事に傾斜のついたIS-2の車体を打ち破り、着弾箇所に風穴を空けた。


 同時に122ミリの徹甲弾がフェルディナントの車体前面に着弾する。

 25キロもの重量がある122ミリ弾が叩きつけられ、車内にバギンという嫌な音が響く。

 しかし200ミリの正面装甲は破られることなく、見事に敵弾を弾き返した。


 被弾で操縦手が死んだのかIS-2は停止したが、そのまま沈黙することは無かった。

 砲塔がゆっくりと動き始め、第2射を放とうとこちらに狙いをつける。


「落ち着け、122ミリ砲の装填には早くとも30秒はかかる。もう一発食らわせろ!」


 慌てた様子を見せずにベルントが言った。

 しかしそれを聞いた装填手が次弾を込める間もなく、IS-2の胴体にもう一つ風穴が空いた。

 ディルクのフェルディナントが側面に回り込み、そこから車体を撃ち抜いたのだ。


「すまんなディルク、おかげで助かった」

『お互い様だろ。さあ今のうちに下がろう、イワンの増援が――

 ――ウワッ!』


 通信機の向こうから短い悲鳴と衝撃音が響いた。

 思わずベルントがハッチから顔を出し、ディルク車がいる方向を見た。


「! ……ディルクッ!」


 ディルクが乗るフェルディナントは80ミリしかない側面装甲を破られ、あちらこちらから煙を上げて停止していた。数秒後に脱出ハッチが開き、その中から大慌てで乗員が出てきたが、そこにディルクの姿は無かった。


 1000メートル先、草原の向こう側からIS-2がもう一輌身を乗り出していた。

 それがディルク車の側面を撃ち抜いたのだ。敵の側面を撃った時、こちらも敵に側面を晒していたのが仇になった。狡猾な五輌目のIS-2は、そこを狙ったのだ。


「ソ連製の照準器で、あんな遠くから当てたというのか? ……くそっ、撃て!」


 こちらが発射した徹甲弾は敵戦車の砲塔に命中、しかし弾かれる。新手のIS-2はフェルディナントと遠距離から撃ち合う愚を犯すことなく、そのままバックして草原の向こうに下がっていった。

 ベルントは頭を出して双眼鏡を目に当て、ディルクを仕留めたIS-2、その車体正面に描かれた赤い星のマークと、白文字で記された『432』の車体番号を見た。





   〈3〉






 ディルクの遺体は占領している村の一角に埋葬し、弾薬箱から抜いた釘と拾った端材で作った十字架型の墓標を立てて、ディルクの名前をそこに書いた。

 儀式のような事は何もやらなかったし、やる時間もなかった。


「ペンキと細い筆をくれ。フリッツ」

「どうぞ」


 砲手の差し出したペンキを筆につけ、ベルントは墓標に短い言葉を書いた。


――ドイツの勇敢なる戦士 ディルク・シュライネン 

           我が誇りと共に永遠に眠る

       君の仇を取るその日まで、我が戦いの終わることなし

                戦いの終わりし時、我生きて帰ることなし 

                          ベルント・フォン・バウアー少尉――

 

 ディルクを埋葬した次の日も、ソ連軍は変わらず大攻勢をかけてきた。

 ベルントらフェルディナント部隊は奮戦したものの、周囲の味方はソ連軍の突撃を跳ね返すことができず、結果として戦線はじわじわとドイツの方へ後退していた。



 その日、ベルント達はささやかな反攻作戦に駆り出されていた。

 押し返された戦線を押し戻すため、ソ連軍の守る防御陣地を装甲擲弾兵と共に占領するのが目的だった。

 

 ソ連砲兵の猛烈な射撃によりクレーターだらけになった大地を、フェルディナントはのろのろと進む。

 

 ソ連軍の迎撃はとても激しかった。隠蔽された対戦車砲陣地から、対戦車銃や76.2ミリ野砲(ラッチュ・バム)の射撃が次々飛んでくる。機関銃兵がフェルディナントの後ろに続く装甲輸送車を狙って掃射を行う。

 その間にも152ミリや122ミリの重榴弾が霰のように空から降り注いでいた。


「榴弾、遅発信管! 1時方向のラッチュ・バム、撃て!」


 枝や葉で巧妙に隠蔽された対戦車砲は、戦車兵にとって最も脅威となる存在だった。

 背が高い戦車や自走砲と違い、対戦車砲は相手が一発撃たない限りその所在が分からない。

 そしてその最初の一発がこちらにとって致命打にならないとは限らないのだ。


 幸い、フェルディナントに限ってはそのような事態はそう起こるものではなかった。

 新品に換装されたばかりの装甲板は逞しく銃砲弾を弾き、敵の前線との距離は確実に縮まっていった。


 前線まであと50メートルほどになった所で、装甲輸送車から兵士達が飛び降り、一心不乱に突撃を開始した。輸送車自身も搭載された機関銃を連射して敵の頭を押さえ、兵士達の突破を助ける。

 ベルントらフェルディナント部隊は塹壕の手前で停止すると、塹壕からこちらを撃ってくる機関銃や対戦車砲を榴弾で次々片付けていった。ドイツ軍が陣地を奪取するまで、それほど時間はかからなかった。

 

――12時方向、戦車多数!


 しかし陣地を占領した数時間後に、ソ連の戦車部隊が夜の闇の中から、再奪取を目的に襲撃してきた。

 

 こちらの対戦車兵器はフェルディナントを除けば鹵獲した僅かな対戦車銃と対戦車砲のみ、砲撃支援もほとんどない。ベルント達が敵戦車を食い止められる唯一の戦力だった。


「味方の爆撃機(シュトゥーカ)や砲撃はなし、か」


 フェルディナントの車内でベルントが無感情に呟いた。

 

 西でも東でも制空権は連合軍の物になっており、かつて猛威を振るったドイツの急降下爆撃機を見る事は急激に少なくなった。

 それと入れ替わるように、西部戦線では米英の戦闘爆撃機(ヤーボ)が、ここ東部戦線ではソ連の地上襲撃機(シュトゥルモヴィーク)が現れ、空から地上を焼き払っていくのだ。


 誰もが、かつてはドイツの勝利が目と鼻の先にあるように思えていた。

 それが今となっては、手が届かないほど遠くに行ってしまったように感じていたのだ。


「――目標、先頭のT-34。撃て!」


 ベルント達はフェルディナントと対戦車砲で即席の対戦車陣形(パックフロント)を作り、向かってくるソ連軍を待ち受けた。

 こちらの方が早く敵の所在を掴んだため、ドイツ軍は戦力の差を補って戦うことができた。

 無数の砲の射線の中に入って来たT-34は次々と炎上し、敵の攻撃部隊は大きな出血を強いられた。


「撃てぇ!」


 最後に残った1輌に砲弾を撃ち込むと、車体後部に被弾したT-34はそのまましばらく走っていたが、やがて停止した。

 

 ハッチが空き、乗員が這い出てくる。ベルントはその様子を何の感情も籠っていない目で見つめ、喉の咽頭マイクに手を当てた。


「ハンス。……撃つなよ」

「解ってますよ。……まだ『誓約』を守る気でいるんで?」


 僅かに非難の色が混じった無線手の言葉に、ベルントは表情を変えずに返答する。


「俺の命令に従え。……正面に敵歩兵、向かってくるぞ! 機銃、撃て!」


 了解、という声と共に、車体に据え付けられたMG34が火を噴く。


 MG34は単発でも人を死に至らしめるに十分な威力を持つ7.92ミリの小銃用実包を、分間800発のペースで吐き出す汎用機関銃。この殺人兵器の銃口からシャワーの様に吐き出される弾丸は人体を容易にズタズタに引き裂き、ボロ雑巾の様にしてしまう。

 

 無線手は反動で暴れる機銃を上手く押さえつつ狙いをつけ、迫り来るソ連兵を片端から薙いでいった。


「よし。……これで全部ですかね、車長殿?」


 最後の一人を射殺した無線手が訊くと、ベルントはそれに「ああ」とだけ返した。


 翌日、司令部から撤退命令が出た。

 他の戦線が押し込まれたため、左右から挟撃されるのを防ぐために現在位置から西に後退することになったらしい。昨日の戦いは、全て無駄に終わった。


「他の戦線の奴らは何をやってるのかね、情けない。死んでいった戦友が泣くよ」

「言ってやるな。もう碌な装備も、経験豊富な古参兵もない部隊がほとんどなんだよ」


 持てるだけの装備と共に後退していく兵士たちは口々にそう嘆いていたが、ベルントは特に悲しむでもなく、黙々と自分のフェルディナントを整備していた。


「あんまり残念そうじゃありませんね、少尉」 

「別に。正直、戦線がどう動こうと、もう俺には関係がないんだ。どっちにしたってイワン共の戦車が押し寄せて来るのは変わらないんだからな」


 ディルクが死んだ後、ベルントは自分から敵戦車を探し求めるようになった。

 積極的に戦闘に参加し、その分以前より多くの戦車を撃破するようになった。

 

 それでも脱出した戦車兵を撃ち殺すことはしなかった。

 かつてディルクと共に定めた誓約を破りたくはなかったし、逃げる戦車兵を撃ち殺しても大した戦果にはならない事を理解していたからであった。

 

 ――しかしディルクを殺した『赤い星と432』が描かれたIS-2、あの一輌だけは。


(……あいつだけは、あの一輌だけは。クルーの一人も、生きて返すものか)


 どす黒い決意を胸に抱き、ベルントは毎日のように『赤い星』を探して戦い続けた。

 しかしベルント個人が如何なる戦果を上げたところで、全体としてのドイツ軍の劣勢は覆しようがなかった。ソ連軍が徐々に勢力を増していくのと反比例して、ドイツ軍は日増しに不利になっていった。

 

 結局、ドイツ軍は敵の夏季攻勢を防ぎきることができず、ドイツ第三帝国はさらに勢力圏を縮めていく事となったのだ。 




〈4〉






 1945年4月。アドルフ・ヒトラーが自殺する数日前。

 

 ベルリン近郊の市街地で、ベルント達は攻めてくるソ連軍を待ち受けていた。

 

 かつて栄華を誇ったドイツ装甲部隊にもはや以前の面影はなく、連合軍に包囲殲滅されるのは時間の問題だった。当初90輌が生産されたフェルディナントも、今や生き残っているのはベルント車を入れて、たったの4輌だけである。


『なぁ、ベルント。……ここから逃げてさ、アメリカ軍のところに行って降伏しないか』

「聞かなかったことにしておいてやる」


 ベルント車の隣を走るフェルディナントの車長が通信を入れてきたので、ベルントはそう返した。


『俺には君の戦闘意欲の根源が良く解らない。

 ……解っているはずだ。もう勝ち目なんてない。ドイツの負けだ。

 今更ヒゲの伍長の死守命令なんか守って、何になる?』

「そういう問題ではない。総統の命令が無くても、俺はここに留まる」


 僚車の車長がうんざりしたように息を吐いた。


『前にも言っていたな。「赤い星と432」が描かれたスターリンだろう? 

 そいつが今でも生きているなんて証拠があるのか? 既に別の部隊が仕留めているかもしれない。

 乗員が死んで、君の戦友を殺したイワン共とは別の人間が乗っている可能性もある。

 それでも友の仇を取る為に戦い続けようっていうのかい?』

「無論。可能性が1%でもある限り」


『賭けてもいいがね、それこそ奇跡でも起きなきゃ君の敵討ちは一生終わらないよ。無理を承知で言うが、割り切ってしまったほうが利口じゃないかね』

「馬鹿で結構! 口を出さんでもらおう!」


 僚車の車長が更に何か言おうとして、そこで止まった。

 2輌のフェルディナントが見張っている道路の向こうから、ソ連の戦車部隊がやって来るのが見えたからである。

 建物の中からのパンツァーファウストによる攻撃を恐れているのか、ソ連軍は道路の右側に寄って進んでいた。T-34を先頭にし、その後ろに歩兵の群れがぞろぞろと続いてきていた。


「距離は800メートルといったところか。目標、敵先頭のT-34。撃て!」


 ベルントの号令と同時に砲手が引き金を引き、戦いの始まりを告げる号砲を鳴らした。


 平らに均された道路の上を砲弾は低く伸びる弾道を描いて飛び、敵の先頭にいたT-34を黙らせた。

 後ろについていた敵戦車の群れが道路の左側へと進路を変え、撃破された残骸を避けようとする。

 そこを狙って僚車が弾を撃ち込み、もう一つ残骸を作って道路上のスペースを更に狭めた。

 

 しかしそれでもソ連戦車部隊は前進を止めず、こちらの装填中の隙をついて戦車が1輌、2輌と残骸のバリケードを通り抜けてベルント達に向かってくる。


「俺が左をやる」

『じゃあ俺は右側だ』


 しかし2輌のフェルディナントはそれらを1輌ずつ着実に仕留めていく。

 襲ってきた戦車は全て残骸に変わり、バリケードのように街道上を塞いだ。


「あとは歩兵だけだ。榴弾装填――ん?」


 キューポラの覗窓から残骸の後ろに(たむろ)するソ連歩兵を見て、ふと違和感を覚えた。

 戦車が全滅した以上、歩兵部隊がフェルディナントを撃破する術などない。

 味方から鹵獲したパンツァーファウストでもあるのならともかく、そうでなければ榴弾と機銃の餌食になって終わりだ。

 であるのに、逃げない。撃破された戦車の陰に隠れつつ、その場にじっと待機している。


『ベルント。あいつら、何かを待ってる』

「らしいな。……前から来たぞ、戦車だ!」


 その時、1000メートル向こうで、敵歩兵部隊が左右にさっと別れた。新たなエンジン音が近づいてくる。


『ありゃ、スターリン戦車だぞ!』


 僚車の車長が呟いた。増援としてやってきたのは、2輌のIS-2だった。

 前方で燃えるT-34の残骸を馬力に任せて押しのけつつ前進し――ベルント達の前に出る。


「――あいつはッ!」


 そのIS-2の片方には、赤い星のマークと432の車体番号が記されていた。


『……驚いた。ベルント、賭けは君の勝ちのようだな。

 「赤い星」は譲ってやる。俺はもう片方を』

「悪いな……この時を待っていたぞ! 硬芯徹甲弾装填! 叩き潰せ!」


 装填手が言われた通りに弾を込める。操縦手がその場で車体を旋回させて位置を微調整する。そして砲手が照準眼鏡を通して『赤い星』のIS-2を捉えた。


「――撃てぇ!」


 クルスクから今に至るまで、数多の敵を屠ってきたアハト・アハトが吼えた。

 砲弾が『赤い星』の砲塔正面、そこの防盾上部に命中――貫通せずに、上に跳弾する。


「くそ、角度が悪かったか!」

「次弾も硬芯徹甲弾、その次も! 出し惜しみするな!」

「今ので最後です! 知ってるでしょう、もう一週間も補給が来てないんだ! 

 ――車長、俺たちのドイツはもう砲弾の補給すら儘ならないんですよ!」


 装填手が弱音を吐く。ベルントがぎり、と歯を噛みしめた。


「黙れ、エルンスト! 徹甲弾装填、急げ! ……敵、撃ってくるぞ!」


 ベルントがそう叫んだ直後、強烈な衝撃がフェルディナントの車内を揺らした。

 『赤い星』の放った大重量の122ミリ徹甲弾が山なりの弾道を描き、戦闘室正面に衝突したのだ。

 装甲板が歪んだのではないかと思うほどの轟音が響く。


「落ち着け、まだやれる! だが、どうやって撃破するか……」


 至近距離まで引きつければ通常の徹甲弾でも貫通できるが、その分こちらが貫通される危険性も高まる。

 その上こちらは無砲塔で動きの鈍いフェルディナント、側面に回り込まれれば一方的に撃破される。


(しかし、この距離から撃っても弾き返される。どうすれば……)


 ベルントの脳裏に、先ほど『赤い星』が砲塔防盾で硬芯徹甲弾を弾き返した光景が浮かぶ。


(よりにもよって、一番傾斜のきつい箇所に当たりやがって!)


 無意味だと解っていても、ベルントはそう思わずにはいられなかった。

 彼我の距離は500メートルを切るところまで縮まってきていた。

 これ以上近寄られると、122ミリ砲に装甲を破られかねない。


「……待てよ。防盾の上部に当たって、弾が上に跳ね上った……。

 フリッツ、徹甲弾装填、防盾下部を狙え! 

 砲塔の顎の部分、一番傾斜がきつい場所を撃つんだ!」

「弾かれちまいますよ?」

「いいんだ、俺を信じろ! ……撃てぇ!」


 殆どの敵を一撃で仕留めてきたことからも解る通り、フリッツは優秀な砲手だった。

 ベルントが指示した通り、徹甲弾はIS-2の丸みがかった防盾の下部に激突し、そのまま下に跳弾。

 ――操縦手がいるIS-2の車体上面に、そのまま突き刺さった。

 

 傾斜を相殺する形でほぼ真上から飛び込んだ砲弾は、『赤い星』の正面装甲をあっさり突き破った。

 車内の操縦席に飛び込んだ砲弾によって、操縦手の上半身がもぎ取られ、機器が破壊される。

 操縦手と操縦機器の両方を失った『赤い星』が、その場で動きを止めた。


「ざまあみろ、ショット・トラップだ! 

 ――全速前進、300メートルまで接近、このまま奴に引導を渡す!」

 

 エンジンが起こした電気がモーターを回転させ、フェルディナントの巨体がゆっくりと前に進み始めた。


 『赤い星』が砲塔だけを旋回させ、最後の悪足掻きとばかりに砲弾を発射する。

 放たれたのは対戦車用の徹甲弾ではなく榴弾であり、車体正面に命中した瞬間に大爆発を起こした。

 衝撃で道路両側にある建物の窓ガラスが残らず砕け、水晶のように輝きながら道路に降り注ぐ。


 だが今の爆発を受けても尚、フェルディナントの歩みは止まらない。

 200ミリの正面装甲に無数の窪んだ弾痕を作っても、この鉄の巨象が斃されることはない。

 かつてクルスク戦で受けた「最高かつ最強の兵器」という評価は、決して伊達ではないのだ。


「距離300メートル! 撃ちます!」


 次に放たれた徹甲弾で、完全に『赤い星』の車体は破壊された。

 車体に空いた穴から綺麗に飛び込んだ砲弾は車体を一直線に貫通し、そしてエンジンルームで炸裂した。

 

 エンジンから出火し、『赤い星』の車体がたちまち松明のように炎に包まれていく。


 車長ハッチが開き、そこから火達磨となった戦車長が喚きながら出てきた。

 転がり落ちるように燃える戦車から離れ、地面にゴロゴロと転がって体についた火を消そうとする。


「ハンス、機銃だ。……奴を撃ち殺せ」


 ベルントが、それまで一度も出したことのない命令を出した。

 無線手が一瞬驚いたように「え?」と聞き返し、それから機銃を構え――機銃に榴弾の弾片が食い込んでいることに気付く。


「射撃不能! 榴弾で機銃がやられてます!」 

「そうか。――榴弾装填!」

 

 ベルントが不気味なまでに落ち着いた様子で命じた。

 装填手が砲弾を砲尾に装填すると、ガコンと音を立てて尾栓が閉まり、薬室が密閉される。

 砲手が引き金に指をかけ、照準を『赤い星』の戦車長に合わせた。

 『赤い星』の戦車長は体に着いた火を消し終え、必死に逃げようと道路を這いずっていた。


「もしもディルクが生きていたなら、俺はここで貴様を見逃していただろうな――」


 ベルントがキューポラから体を出して、感慨深げに呟いた。

 しかし次の瞬間、落ち着き払っていたベルントの表情が激情の色に染まる。


「――だが、あの時の俺はもういない! 我が親友と共に死んだのだ! 

 ――殺せ! 奴を地獄に落とせ!」


 ベルントが叫んだ。

 同時に砲手が引き金を引く。


 榴弾は一瞬で音を置き去りにし、戦車長の目の前に着弾し、炸裂した。

 戦車長の身体はベルトの一本も残さず吹き飛んでいた。戦車長がいた場所の周囲に、空中に吹き上げられた血と肉の欠片がボトボトと降り注ぐ。

 


 ベルントはハッチから上半身を出し、『赤い星』を見た。

 

 煌々と燃える戦車の中ではボン、ボン、と弾薬が誘爆する音が聞こえていた。

 今に榴弾に引火して、派手に砲塔が吹き飛んで宙を舞うだろう。

 その横には戦車長の身体の欠片が散らばっていて、血痕が道路のあちこちについているのが見えた。


 ほとんど一年をかけて探し求めた親友の仇は、ベルントの手によって息の根を止められたのだ。

 じわじわと実感が湧いてきて、ベルントは重い荷物を降ろしたような様子で、ゆっくりと息を吐いた。


「ディルク――」




「――パンにはパンを(フレブザフレブ)、血には血を(クロフザクロフ)」

 ベルントからずっと離れた建物の中で、誰かがロシア語で呟いた。



  

 辺りに乾いた銃声が響いた。ベルントの身体がびくん、と痙攣する。


 身体が後ろに倒れ、車体にもたれるような形でベルントは天を仰ぎ見た。

 空は曇っており、今にも雨が振ってきそうだった。

 

 ベルントの眉間にはソ連製の7.62ミリ小銃弾による風穴が空いていたが、ベルント自身は己が撃たれたことに気付かなかった。気付く前に生命活動が停止したからである。

 

 車内にいた砲手と装填手が銃声に驚いて向き直り、死んだベルントを見て表情を凍り付かせた。

 

 僚車の車長はもう一輌いたIS-2を撃破し、ソ連歩兵が逃げていくのを見届けた後で、ようやくベルントが狙撃されて死んでいることに気付いた。

 彼は頭痛を堪えるように額を抑えると、自車の無線手に命じてベルント車に通信を入れた。

 

 すぐにベルント車の操縦手が車体を旋回させ、その場から離れようとしたが、そこでフェルディナントのモーターから炎が上がった。

 

 何週間も整備無しで戦い続けていたため、とうとうモーターがショートしてしまったのだった。主の後を追うように、フェルディナントもその役目を終えた。


 搭乗員たちはハッチから脱出すると、後方に向かって走り始めた。

 それを見送った僚車のフェルディナントは周囲に敵がいないのを確認すると、自らも後退していった。

 

 ベルントと彼のフェルディナントだけが、敵戦車の残骸たちと共にそこに残された。




「……なぁ、ハンス」


 どうにか後方の安全地帯に辿り着いた頃、砲手が隣を歩く無線手に話しかけた。


「何だよ」

「少尉が言ってた事、覚えてるか。脱出した戦車兵を撃つと――」

「神の加護を失うって奴か? それが何だよ」


 ふぅー、と息を吐きながら、砲手が続ける。


「もしかすると……もしかするとだが、あのスターリン戦車の車長を殺したせいで、少尉は……」

「有り得んね」


 現実主義者の無線手は、フリッツの言葉をピシャリと切って落とした。そして続ける。


「あんな戦友思いの人を、どうして神が見捨てるっていうんだ。……行こう。今にこの街も陥落する」


 そう言って無線手は早足でその場から歩き去ろうとし、砲手は慌ててそれに続いた。





〈エピローグ〉





 

 寂れた博物館の一角で、今も鋼鉄の巨象は眠っている。

 

 だがその巨体に、もはや戦場を闊歩したころの面影はない。

 ショートして焼け焦げた駆動機関は残らず取り外され、空の弾薬庫には蜘蛛の巣が張っていた。

 巨象は内臓を奪われ、腹の中は空洞になっていて、鉄の外皮だけが残されていた。


 巨象に新たな内臓が与えられ、再びエンジンが唸り声を上げることは、きっと、もう二度と無い。

 巨象の使命は、すでに終わったのだ。


 巨象は眠り続ける。あの戦友思いの男の夢を見ながら、永遠の時を眠り続けるのだ。

 その鋼鉄の体が錆びて朽ち果てるその日まで、きっと……。




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[良い点] 松本零士の戦場まんがシリーズを想わせる雰囲気が、世代的に刺さります。
[良い点] 面白い…この作品には不適切かもしれませんね。 良い作品なのに感想が無いのは残念です。 [一言] 特にジンクスとラストが繋がったのは良かったです
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