本当の自分
沈黙を破って口を開いたのは、由子さんだった。
「和馬は元々、秋月本家の出なの」
お茶にそっと口をつけようとしていた私はそれに目を見張り、思わず勢いよく彼を見てしまう。不躾な私の態度にも彼は微笑んで見せた。
「和馬は生まれつき声を出すことができなかった。たったそれだけの理由で――」
本人を目の前にしているため余計なのか、由子さんは言葉を詰まらせる。
その内容について特に何も感じていないのか、それとも無理をしているのか、当事者である和馬さんは「本家にいるには適切じゃない、とおれの実の両親は判断したんだ」と素早く書き記す。
『外聞が悪かったのかも。幸いというか何というか、おれには兄が二人と姉が一人いた。特に後継ぎに困るというわけでもなかったから、養子に出すという決定になったんだと思う』
声を出せない、というそれだけの理由で外に出された。そんなの――。
「酷い……」
声が出せないというハンディがあるのなら、家族ならばそれを支えて当たり前なのに。自分自身が常識からかけ離れている存在なのはよく知っているが、これについては考えるまでもない。
子供を支えるべき親が、真っ先に彼を見捨てていたなんて。
だが、私の呟きに彼は目を細めて笑う。
『ある種、そういう冷酷な判断が必要な時もあるよ。ゆかりさんだってよく知っているだろう?』
目を見張るも、言い返すこともできなくて、きつく唇を噛んだ。
心当たりがないわけじゃない。それは、『自分の子供を見捨てる』というとんでもないことを、自分の父ならばやりかねないと知っていたから。
利益が何であるかを最優先させて考える人間である父は、そのためになら非道な手段だって厭わない。秋月の当主がそれと同タイプだったら、結果は考えるまでもなかった。
「だからお二人が……?」
由子さんに視線を戻すと、彼女は力なく頷いた。
「夫が秋月の人で。本家の遠縁も遠縁なんだけれど、手を挙げたの」
秋月当主に腹が立ちもするが、結果的によかったのではないか――と不謹慎ながら思う。こうして優しい人たちに囲まれて。もちろん、当事者である二人からすれば、ふざけた思いなんだろうけど。
そう考えながら由子さんを見ていたら、優しく微笑みかけてきてくれる。
「私は子供を産めない体質だから。和馬を引き取ることに反対する人間なんて、あの時の秋月には存在しなかった」
子供が産めない――その事実をこうして笑みながら言えるようになるまで、自分の中でどれほどの葛藤があったのだろうか。きっと全然及ばないのだろうけど、私も一人の女として、切なくて苦しくて、やるせなくてたまらないと想像がつく。
世の中には、子供がいらないという人もいなくはない。けれど、大抵の女の人ならば、愛する人の子供を授かりたいと思うに違いない。そして多分、由子さんは欲しかった。それなのに、叶わなかったのだ。
「いいのよ。私の子供はちゃんとここにいるもの。和馬、って大事な息子が」
穏やかに笑うその雰囲気は、和馬さんにそっくりだ。たとえ顔のどこも似通っていなくとも。
「私から見れば、そっくりです」
え? という表情をする二人に笑い、もう一度繰り返す。
「親子って、血が繋がってるだけじゃ駄目なんだなって……二人を見てると、そう思います」
言いながら、父の姿が眼裏にチラついた。
こちらを決して見はしない父。見たとしても、微笑みなんて交わすことはない私たち。
私や父のような、仮面を被って何とか親子の体裁を保っているような関係じゃ、本当に血が繋がっていようがいまいが何も変わらない。
父が悪いの? 私が悪いの? 時折考えるが、結局のところお互いにほとんど無関心なまま過ごしてきたのが、一番悪かったのかもしれない。つまり、どちらも悪いのだ。
確かに父は私を振り返ることはない。それでも、私は最初から「父はそういう人だ」と諦めてしまっていた。
――何でそんなに諦めいいの……?
ひさの切なそうな顔が蘇る。
彼はきっと、私のそういう部分を昔から悲しく思っていたのだと思う。
ごめんね――馬鹿なお姉さん分で。
父との関係も、母が生きていた頃はまだ違った気がする。
私が初等部生だったころに亡くなってしまったのだけど、あの人はいつでも優しい雰囲気をまとっていた。母がいれば、父の周りの空気もいくらかは穏やかで。私たちの関係も、きっとちゃんと『家族』だった。
私が何となく落ち込んでいるのを気づいたらしい和馬さんが、そっと私の頭を撫ぜる。前回のように驚かせないための配慮だろうか、ごくゆっくり近づいてきた手。
つまり私は、よけなかった。
甘えたくなってしまったのだ。
『家族』という足場すら不確かで、自分自身すらよく分からない『私』の存在を、捕まえてもらいたかったのかもしれない。他ではない、和馬さんに。この穏やかで不思議なオーラを纏う青年に。
『ゆかりさん』
彼から差し出された紙に記された文字を見て首を傾げかけたが、最後まで文を読んだら目が点になった。
『陶芸、やってみる気はないかな?』
「え?」
意外すぎる言葉、そしてなぜ今そう問われるのか意味も把握できず、二の句が継げなくなった。
そんな私を見かねたのか、急いで更に文が続けられる。
『ゆかりさんが音楽をやるのは話を聞いたから知ってるよ。でもね』
一度区切るようにペンが止まり、少しの間が空いてから次の文字が書かれた。そこからはノンストップだ。
『君が今まで生きてきた世界の人間と隔絶されたここで、やったことのない方法で「自分」を表現できた方がいいと思って』
呆けることしかできないでいる私。だが和馬さんの優しげな微笑みと共に紡がれる文字はやはり、止まることを知らない。
『かといって、俺や両親が提供できるのは絵画や陶芸くらいだし。絵は描いたことがあるって言ってた気がするし、そうすると少なからず教わった先生の癖が出る』
ゆかりさんが解放されるべき世界の色がこの森に混じるなんて、それこそ本末転倒だろう?
そこまで続き、文はいったん終わりを告げた。
「ゆかりさん。やってみる気、ないかしら?」
和馬さんの言葉を継ぐようにして微笑む由子さんに、ますます心は揺れ動く。
やってみたい、という気持ちはないわけじゃない。
だけど現実問題、難しいと思う。父が日本にいない今、上條の代表として出席しなければならないパーティーなどが山ほどあったり、同時並行でこなさなければならない学校の課題があったりする。
毎日この森に通う、なんて我儘が通らないことくらい、嫌ってくらいに分かっている。ただでさえ無理な頼みごとをして使用人たちには面倒をかけているというのに、これ以上負担を増させることなんてできない。
ぐるぐると思い悩んでいたら、こつん、と軽く頭を小突かれた感触を頭に覚えた。
「……!?」
驚いて勢いよく和馬さんを見ると、彼にしては珍しいくらいの呆れ顔がそこにはあった。
『ゆかりさんは大事なことを分かってないよ』
「へ……?」
訳の分からなさに、間抜けな声しか漏らせない。どうにかしてほしい、私のこの理解能力のなさを。
『おれが聞きたいのは、やりたいかやりたくないかの答え。やれない、ううん、やらない理由じゃないよ』
和馬さんが文章化するにしてはやはり珍しい、厳しい言葉。
厳しい、けれど。それでも彼の台詞は胸にすとんと降りてくる。ああ、と納得することができる。
私は自分の頬をぺちんと張った。気合を入れ直したかったのだ。
「ゆかりさん?」
驚いたように目を瞬かせる由子さんと和馬さんに笑みを向けてみせる。
「ごめんなさい、和馬さん。『できない』って初めから諦めて理由をつけたくなかったのに、結局同じ轍を踏みそうになってた」
本当に、馬鹿。『お嬢様』ってことに何より自分自身が一番甘えていて、それではいけないのだと気づいたのに。変わらないのなら、気づいていないのと一緒だ。
「やる。やりたい……やらせてください」
二人の目をしっかり見て、はっきり言い放つ。
道を示してくれた和馬さん。そして、その道を歩く手助けをしてくれるかもしれない由子さん。ちゃんと、そんな二人に自分なりの覚悟を示したかったのだ。
しばらくどちらもじっと私の目を覗き込んでいたが、まず和馬さんが視線を外し、由子さんを見る。「いいんでしょ?」と確認するような目で。
「ゆかりさん、いい目をしていたわね。私たちに言う瞬間」
自分の瞳がどんな色を宿しているかなんて知りようもない。だから分からないが、そうなのだろうか。
「そういう一生懸命な目をしている人は、好きよ」
ふわりと笑った後にそっと伸ばされた手は、先ほど彼女の息子がそうしたように、優しく私の頭を撫でていった。
それに驚いて身が自然と硬くなる。年上の女の人に頭を撫でられるなんて、母を亡くして以来なかった。久方ぶりの感覚にどうしたらいいのか分からなくなったのだ。
私のそんな失礼な態度にも由子さんは笑顔を崩さず、ゆっくりと立ち上がる。
慌てつつも不思議に思う私に「ついてきて」と柔らかい声がかかった。
「見せてあげる。私たちがどうやって作品を作っているのか。そしてひとつ、一緒に湯呑みくらい作ってみましょう?」
少し迷ってから、しっかり頷く。ね、と私の不安も何もかもを包み込むように笑うその表情と、それに同意するようにしながら私を優しい目で見る和馬さんが見えて――自分を変えたい、という覚悟が、決して揺らがないように。




