ラプソディ・イン・ブルー
「和馬さんは何歳くらいから絵を描いてるんですか?」
特に構えた様子もなく、さりとて手を抜く様子もなく描かれていく森を見ながら尋ねる。昨日と似たようなアングルなのに、また違った様相を見せているから、森というのは生き物なのだと改めて知る。
確かに木は動かない。それでも『生きている』のだ。
私の問いに描く手を休め、和馬さんはにこりと微笑む。
『ずいぶん小さい頃……5歳とか6歳くらいかな?』
私が渡したルーズリーフには彼の丁寧な字が踊っていた。
やっぱり、私はこの瞬間が好きだ。罫線以外まっさらの、いつでも他のもので代替できそうだった紙が、どんどんと唯一無二のものになっていく。和馬さんの手によって。
「そんな小さな頃から?」
『うん。父と母は陶芸家だからね。芸術っていうか、そういうものが身近だったんだよ。最初は陶芸もやってたんだけど、絵の方が性に合ってたみたい』
和馬さんは持ってきていたらしいポットからあたたかいコーヒーを注ぎ、私に渡してくれる。お礼を言って受け取りながら、初めて聞く彼のご両親のことについて目を瞬かせた。
「すごい……陶芸家なの?」
習い事として色々なことに手を出した私だけど、陶芸には一度もチャレンジしたことはない。何となく、難しそうというイメージもあった。
『うん。たまにおれも作らせてもらうけど、やっぱり二人みたいなセンスはないな』
照れ臭いのか、和馬さんはそう息の音を漏らして笑った。
芸術家というのは得てして自分の極めたもの以外が不得手という人も多いけど、彼の場合もそうであるらしい。
『絵以外に得意なものってあんまりないんだ』と、私の思考が分かったのか和馬さんは頬を掻く。それを見て私もくすくすと笑うような、穏やかな空気が心地いい。
メイド長のお許しが出たことで、私は何の後ろめたさもなしに和馬さんのもとを訪れることができた。
彼は昨日と同じように穏やかな笑顔を湛え、不思議な雰囲気をまとい、私を迎え入れてくれて。彼を逃げ場にしているみたいであることには少し後ろめたさはあったけれど、会いたい気持ちは決して偽りじゃない。それには代えられない。
『ゆかりさんは何かやってないの?』
書道とか楽器とか、と続いた文字を見て微笑む。
「やってるよ。3歳くらいからはピアノ。書道も絵画も、それ以外の楽器もいくつかやったんだけど。ピアノ以外は続かなかった。あんまり上手にならなくてね。華道とか日舞とかは好きなんだけど、やっぱりあんまり上手ではないかなあ」
へへ、と誤魔化すように笑う。「上條はあらゆることで一番でなくてはならない」のに、私はあまりにも何ひとつ上手くこなせない。そういう部分が父を呆れさせている一因であることはよく知っていた。
そんなことを思って気分がちょっと落ち込んだのを察したのだろうか。和馬さんは私に手を伸ばしてきて、ぽんぽんと優しく頭を撫でてくる。
「……っ」
驚きと戸惑いと何だかよく分からない恥ずかしさで、一瞬にして顔が赤くなった。それを隠すために目を伏せ、息を詰める。速まった鼓動に気づかないふりをしたいのに、心臓は騙せないほどに弾んでいた。
彼にとっては何のことはない触れ合いなのかもしれないけれど、免疫のない私にとっては一大事。もしも無意識にやっているのだとしたら、彼は結構罪作りな人なのかもしれない。
私が突然俯いたので不思議そうにしていた和馬さんが、ちらりと顔を覗き込んでくる。慌てて顔を覆おうとしたけれど間に合わず、赤面をばっちりと見られてしまった。
途端に手が勢いよく離され、慌てたような文字がルーズリーフに走り書きされる。
『ごめんね?』
心底焦っているような文字を見てふるふると首を振る。
頭を撫でられたぐらいで大げさに反応し過ぎた私も悪い。過剰反応だというのは重々承知だけど、どうしようもない。顔が赤くなるならないは個人の意思で操作できるようなものでもない。
「大丈夫です……駄目ですね、女子校育ちだと。兄もいないし」
苦笑混じりに笑うと、今度は和馬さんが首を振った。
『前置きもなしに触ったおれが悪かったよ』
ごめんね、ともう一度綴られた文字にさらに勢いをつけてぶんぶん首を振った。しかし和馬さんも首を振る。私は更にそれにまたかぶりを振って――はたと堂々巡りだということに気づく。さっきからお互いに首を振ってばかりだ。
和馬さんの方も同時に思い当たっていたのか、苦笑いをしている。私も多分、同じ表情をしていることだと思う。
「……やめにしましょうか」
『そうだね』
こくりと頷いて、彼はスケッチを続けていく。私はまたそれに見入った。
もらったコーヒーはあたたかくて、美味しかった。ちびちびと飲んで見守っているうち、あっという間に絵が完成する。
新しいページをめくって、和馬さんはふとこちらを見る。きょとんとすると、また新たな文章がルーズリーフに踊った。
『でも、聴かせてほしいと思ったんだ。ゆかりさんのピアノ』
それに私は困りつつ笑う。
本当に、私の腕なんて高が知れているのだ。同じ先生についてもらっている生徒が1年間の成果を見せる発表会でも、年下の子の方がラストを任されているぐらい。長くやっているのに、しかも練習も割と真面目にやっているのに、である。演目の最後というのは一番上手い人が任されるべきだから当然だ。
「そんなに上手くないですよ?」
『それでも聴いてみたい。ゆかりさんの指はどんな音を奏でるのか気になるよ』
音にはその人の特徴が表れるって言うだろう? と笑う彼。
確かに、と思う。幼なじみでも何人かピアノを弾く人がいるけど、それぞれ性格や本質が表れている。
たとえば、ひさもピアノの名手だけど、彼の音は優しげであると同時に寂しげだ。優しくて寂しがりな彼の性格をよく表している。
そういえば私は昔、「音に芯が定まっていない」と先生に言われたことがあったっけ――と思い出して、少し苦い気分になった。どうやら音まで迷っているらしい。
「じゃあ私の音はどんな音がすると思うの?」
分かっているのに、くすりと笑って和馬さんを見上げる私はたいがい駄目だなと思う。少しでも優しい台詞が欲しいらしい。
『そうだね……優しくてあたたかくて、柔らかそうな音かな?』
しかし、予想以上にプラスのイメージが返ってきたもので恐縮して固まってしまう。そんなたいそうな、と。
「私、そんな音……」
『おれはそう思う、ってことでいいんじゃないかな』
出せない、と言おうと思ったら、遮るように急いだような文字が書き足された。からかわれたのかな、と思うも、和馬さんは真剣な目をしていたから、そうではないのだろう。
それに彼がこういうふうに人をからかうようなタイプではないことも、短い交わりの印象でも何となく分かる。
だがこんなことをさらりと言えるとは、もしかするとこの人はとんでもない天然たらしなのかもしれない……とか、くだらないことを考えてみもした。
私のしょうもない思考の間にも、和馬さんの絵は再びどんどんと完成に近づいていた。息を呑みつつその過程を見守る。
木の葉は風によって優雅に舞い、動物たちは生き生きとした表情を見せる。彼の中にある一瞬を切り取り、スケッチブックという小さな世界を閉じ込める。色もつかないモノクロの世界なのに、何と美しいのだろう。
『ゆかりさんは』
完成目前という時、和馬さんはふと鉛筆を止める。何だろうと思っていると、ルーズリーフの最後の罫に文字が記された。
「うん?」
『どんな曲が好きとかあるの?』
何だ、と脱力してそれに思わず私は吹き出してしまう。
「完成直前に真面目な表情をして訊くから、何事かと思った」
わざわざ今なの? とくすくす笑うと、和馬さんは曖昧に微笑むので、不思議に思った。顔に出ていたのか、彼は「あ」という表情をしてかぶりを振った。その様子がますます不思議だ。
だが、訊いても答えてくれそうにはないし、好きな曲を頭の中で浚ってみる。
好きな曲。色々なものを弾いてきたけれど、その中で「好きだ」と思える曲は何だろうか。
やがて、あるメロディが脳裏を掠める。
「ラプソディ……」
呟きに彼は「ん?」という表情をするので、ふわりと笑ってみせた。
「ラプソディ・イン・ブルー」
新しいルーズリーフを出しながら、小さく続けた。和馬さんは目を瞬かせ、それから微笑む。やはりそれは、いつもの柔らかい笑み。
『ラプソディ・イン・ブルー?』
「うん。大好きなの」
出だしのクラリネットの柔らかな音色。トロンボーンの発する音は美しく伸び、弦楽器たちは自由に鳴く。ピアノはどこまでも軽やかだ。
「好きなんだ。とても」
どうしてそこまでこの曲に焦がれるのかは分からないけれど、好き。
『それならおれも聞いたことあるよ。有名な曲だし……少し切ない感じのする曲だよね?』
「うん。綺麗だからこそ余計、切なく感じるのかもしれない」
それと私の心情も関係しているのかな、と呟いた。それが聞こえたのか、和馬さんが怪訝そうな表情になる。
「ラプソディの意味って知ってる?」
『狂詩曲、って意味だったかな? あんまり音楽には詳しくないけど』
「そう。狂詩曲」
和馬さんはじっと私の話を聞いている。しっかりと私を見て――そういう視線を感じる。でも私は何となくそんな彼を見られなくて、完成の一歩手前のまま止まっているスケッチばかりを見ていた。
「その『狂詩曲』って、辞書的な意味で言えば、『自由なファンタジー風の楽曲』って意味なんです」
自由、とは私から最も縁遠い言葉だ。いや、私だけではなく、きっとこの現代のこの国に生きる人間たち総て、皆が何かしらに縛られて自由を失くしている。
もしかしたらそのせいで余計に焦がれるかもしれない、と今度は心中で呟いた。追い求めても追い求めても決して手に入ることのないそれを、この曲の中に見出そうと。
「私は籠の鳥だから」
笑ってみせれば、和馬さんはどこか痛そうな顔をした。
「和馬さん?」
彼がそんな顔をする必要はないのに。まるで私の代わりに傷を負っているかのような様相に、かえってこちらの胸が痛む。私の呼びかけに少し躊躇った後で、彼はゆっくりと文字を綴り始める。
『笑いたくないところで、笑わなくていいんだよ?』
はっと目を見張るその間も、彼は文字を紡ぎ続けていた。
『ゆかりさんが普段生きている世界は、もしかすると笑いたくないときにも笑っていなきゃいけないのかもしれない』
だけどね、とやはり躊躇いがちながらも、言葉は絶え間なく続いていく。
逸らしたいのに目が離せない。これ以上見たら戻れなくなると分かっているから見たくないのに、見入ってしまう。
――ここにはゆかりさんに無理を強いる人はいない。
――笑いたくなかったらそれでいいんだ。
『せめてこの森の自然に囲まれているときくらい、自分に嘘をつかなくてもいいんだよ』
彼の綴った言葉は私の胸を強く突いた。
「だって、私……笑ってなきゃ……」
そうすることしかできないから。笑っていれば総てを誤魔化せてしまえるから。
――お前の存在価値が何であるか、私が説明するまでもなく分かっているだろう?
――お前は上條であるという理性さえあればそれでいい。個人の感情など必要ない。
『娘』ではなく『上條の令嬢』であることを、父に求められる自分。
――さすが上條でいらっしゃいますよね。身に着けていらっしゃるものが私たち下位の者どもとは違いますもの。
――ありがとうございます、ゆかり様。上條のご令嬢にお勉強を教えていただいたとみんなに自慢できます。
『クラスメイト』ではなく、『孤高の上條』であることを求められていた自分。
自分自身でだって『人形』であると納得して、いつだって真っ先にそれを理由に諦めて、言い訳にしていた。へらへらと笑っていた。そうすれば楽だったから。
だから唐突に『確固とした自分』を求められると、どうしたらいいか分からない。酷く戸惑ってしまうのだ、情けないことに。
『ゆかりさん?』
不自然なところで言葉を途切れさせて突然に黙り込んだ私を、和馬さんがどうしたのだろうという表情で心配そうに見ている。それを横目に見て分かっているから、顔を上げなくてはいけないのに。
「分からない、の……」
彼の服の袖を控えめに掴む。驚いたのかわずかに肩が反応したが、和馬さんは振り払わないでいてくれた。
「自分を作りすぎて、偽りすぎて……どれが本当の自分でどれが偽物なのか、もう、分かんない……」
私はそんな人間じゃないのに、と思いながら笑って、でもいつの間にかそれが本当の自分みたいになって。
馬鹿な自分を笑えればいいのに、私は自分が大切で、結局できない。どうして、どうして私ばっかりこんな目に、と、己を可愛がってばかりいる。
私が語るのをやめ、和馬さんも何も書かないから、森には木々のざわめきしか残らなかった。
どれくらいそうしていただろう。
やがて、和馬さんがそっと私の肩に触れた。彼を見上げると、またも彼の文字がルーズリーフに踊った。
『今日はもう遅いから、また明日おいで。そろそろ時間でしょ?』
そして彼は優しく微笑んだ。私が今まで見た笑顔の中で、最も柔らかくてあたたかい笑み。
『君をある場所に連れて行きたいんだ』
え、と私がそれに瞳を揺らす一方で、彼は中途半端だった絵を完成させた。やっぱりその絵は、モノクロなのにまるで木々が息をしているかのようで。
戸惑う私に和馬さんは不思議に笑うだけだった。
『本当の自分、見つけ出しに行こうよ』




