『お嬢さま』
深呼吸を繰り返し、自分を落ち着かせる。
今はひさの台詞にあまり気を取られすぎても駄目だ。使用人たちをどう宥めるか、考えないと。
「どうするって言っても、ひたすら謝るしかないんだけど……」
私より年上しかいないこの家だ。父に意見することはほとんどない使用人。しかし父が厳選する彼らには教養もあり、一番の若輩者である私の言動が間違っていたら、容赦なくそれを指摘してくる。父が留守中のことを細々と命じている分、私に対しての発言力は大きい。『お嬢さま』の立場なんて、案外弱いものだ。
結局平謝りすることしかいい案は浮かばず、覚悟を決めてドアの取っ手に手をかけた。
「……ただいま帰りました」
「お嬢さま!? 今までどこにいらしたのですか!」
そろりと中に入る。その途端に聞こえてきた声に息を詰めて、思わず首を竦めた。目線だけをその主の方に向かって視線を向ける。
するとそこには予想通り、祖父の代から仕えてくれているメイド長が目を三角にして立っていた。ちなみに、仁王像のように。
「……ごめんなさい」
消え入りそうな声で言えば、彼女は呆れたように大げさなため息をついた。
「とにかく、ご無事でよかった……お嬢様付きの者たちから『お嬢様がいらっしゃらない』と連絡をもらったときには、本当に肝が冷えましたよ……」
「……うん」
目を合わせることができない。
何しろ、メイド長は私のことを赤ん坊の時から知っている人だ。隠し事なんて昔からできないから、目を見られただけで全部を見透かされそうなのである。
でも、そんな抵抗すら彼女の前じゃ無意味だったようで。
「おっ、じょ、う、さ、ま? こちらをご覧になってはくださいませんか」
つかつかと近寄ってくる足が見えて、びくっと肩が跳ねる。そう言われて従わないわけにいくだろうか。いや、いくわけがない。
「う、うん……?」
怯えながら見上げたら、メイド長は腰に手を当て、ぐんっと顔を近づけてきた。だいぶ丸くて大きいその体は、私の視界をお馴染みのエプロンで埋めたほど。
そして何を言うのかと思えば。
「まさかまさか、男の人とお付き合いでもしていらっしゃるんじゃないでしょうねぇ……?」
そんな疑念をぶつけてくる。
つつくところをきちんと心得ている辺り、さすが歴戦の猛者のメイド長。勘はいいし怖いところを突いてくるけれど、残念ながらそんなことはありえない。
「まさか。私にそんな度胸があると思う? お父さまの不興なんて買えないわよ。命は惜しいもの」
苦笑いをこぼす。
逆らったら最後、それこそどんな地獄が待っているのか想像もつかない。
あの人は、自分に従わない者を許さないのだ。たとえそれがたった一人の実の娘であっても。
メイド長はまだ疑いのまなこを向けてくる。それにますます苦笑して、
「私はもうすぐお見合いして婚約して結婚する。そうでしょ?」
と呟いた。
分かっているわよ、と俯く私の瞳に、彼女はいったい何を見たのだろうか。
今の今まで恐ろしいほど濃い皺ができていた眉間が、緩んでいく。それを目にして、今なら聞いてくれるかもしれないと声を振り絞った。
「だからせめて、お父さまが海外にいるときくらい、放課後だけでいいから自由にさせて……」
言葉尻が掻き消えそうになる。
いっそ、この存在も溶けて空気になればいい。そうしたらもっと自由になれるのに。
「お嬢さま……」
深いため息が耳に届いてまたも身を竦めると共に、やっぱり駄目かと小さく嘆息する。
小さな頃、私も他の子供たちがしているように皆で放課後集って遊びたい、と駄々をこねたことがあったけれど、聞き入れてはもらえなかったことを思い出した。
――どうして? みんなあそんでるんだよ! ゆかり、ともだちとあそびたいよ!! やくそくやぶってみんなにきらわれちゃうよ!!
訴えて訴えて、涙が枯れてもう出てこなくなるぐらいには泣いて、それでも幼い願いが叶うことはなかった。父もメイド長も言ったのだ。
――お前は上條本家の娘だ。分家や他の家の子供と、親しくする必要性はない。外出も許さない。学校からはまっすぐ帰って、その後はレッスンがあるだろう。
――お嬢さま、貴女は特別なのですよ。お父さまに喜んでもらいたいでしょう? 放課後は遊ぶことよりお稽古事に一生懸命になってください。
蘇った、寂しくて悲しくてたまらなかった記憶。もちろんその出来事以来、私に近づいてくるクラスメイトたちはいなくなった。
土台無理な話なのだ、『お嬢さま』の私が普通の女の子と同じように過ごすなんて――諦めて踵を返しかけた時。
「5時までございます」
聞こえてきた台詞が信じられなくてがばっと頭を持ち上げると、メイド長は少し呆れたような、それでいて慈しむような目で私を見ていた。
「人通りの少ないところや危ないところには、決してお入りにならないこと。制服からお着替えになること。それから防犯用の緊急時発信器を手放さないこと、決して時間の期限を破らないこと」
呆けたようにしながら目を瞬かせた私に、ちゃんと覚えていてくださいね? とでも言う感じで強い視線が向けられる。どうやら驚きすぎて聞いていないものと思われたらしい。
だが真実はそうではない。ただ単に信じられなさすぎて言葉が出てこなかっただけなのだ。
だって、あの真面目で父の命令に中々逆らうことのないメイド長が、私の外出を認めた? しかも私付きの使用人が同伴しない外出を?
大げさかもしれないが、私にとっては天地がひっくり返るぐらいの驚きだったのである。
「ひとつでも破られた時点で、放課後の出歩きは禁止致します」
待ち合わせである学校の正門前に来るのが1分でも遅れた時点で、即アウト。厳しく定められたように思われる約束だが、それにはちゃんと理由があった。
「お嬢様は誘拐されやすいお立場にいらっしゃるのですから。そこのところをきちんとご理解を」
『上條グループ代表の一人娘』――そういうブランドは悪事を働く人間にとってとても魅力的だと、私だって昔からよく知っている。それこそ、蜂や蝶が群がるような甘い蜜を持つ花なのだと。
それでも束の間の自由が嬉しくて、私はメイド長にぎゅっと抱きついた。
「ありがとう!!」
「あらあらお嬢様……」
「ありがとう」
困ったようにくすくすと笑う彼女を遮って、一度ますます力を強めてから離れる。
「きちんとご自分でもお気をつけくださいませ。そうでないと英斗坊っちゃまに申し訳が立たないですから」
私の目をしっかり見て言いくるめるメイド長。
ちなみに『英斗』とは私の父のこと。祖父を『旦那さま』と呼ぶ彼女にとって、父すらも『坊っちゃま』なのだ。
「うんっ」
着替えようと駆け出した私の背中を、「すぐにご飯でございますよ!」という声が追ってくる。
「はーいっ」
元気よく返事をして私室に飛び込みながら、へにゃりと笑った。
嬉しかったのだ。和馬さんとした「また明日」という約束を反故にしないで済んだのが。反故にした、と約束したことそのものを後悔しないで済んだのが。




