「さようなら」の後は、
気を失ってしまいそうなほどの痛みを越えて、産声が聞こえる。産室に響き渡るぐらい大きなものだと分かってはいるが、疲れ切っている私の感覚からすると、どこか遠くて。
「男の子ですね。おめでとうございます」
祝福の声も朧ろ気だった。
それでも、先生の手に抱かれた子を目にした瞬間、ぼろぼろと勢いよく涙が溢れる。止めようと思っても止まらない。
先生に私の胸へと移してもらったその子を抱きながら、生まれてきてくれてありがとう、と、幾度も繰り返した。
和馬の優しい手が、私の頭をそっと撫でている。言葉は当然ながらなかったけれど――その目は、「頑張ったね」と言ってくれていた。
10月。秋に入り、少し肌寒さも覚えるようになった頃、私は元気な男の子を無事出産した。
無茶を繰り返して入院までして、それでも元気にお腹の中で成長を遂げて生まれてきてくれた我が子は、愛しくて愛しくて、可愛くて。
生まれた、という報告をすると、幼なじみたちは順番にお見舞いに来てくれた。
和人と名付けられたその子を見て、数人は取り合いをしていたものである。まあ、主に取り合いをしていたのはひさといずだけど。
「僕が先に抱っこするって言ったじゃーん」
「いや、俺だし!」
そんな会話をしながら。
苦笑いはしたが、二人とも幼い子を抱いた経験は厚いから、何も言わないで見守っておくことにはしていた。それに、我がことのように喜んでくれることは、素直に嬉しかったから。
一方の、真面目なフーとチカの方と言えば、
「おめでとうございます、ゆかり様。とても可愛らしいお子さまを何事もなく出産なさったとお聞き申し上げまして、ほっとしております」
「おめでとうございます。ご無事で何よりです。……本当に、よかった」
心の底から安心したようにそう言ってくれた。
フーの方からは「和人さま、でございますか。『調和させる人』、ですね。よい名をお選びになりました」と褒めてもらえたので、それもまた嬉しい。
騒ぎはそれで一旦静まったと思ったのだが、幼なじみたちが私の想像の斜め上を行く人間であることを失念していた。退院して家に帰ってみれば、幼なじみたちからは大量の出産祝いが届いていたのだった。目が点になったのは言うまでもない。
会いには来てくれなかったけれど、涼さんからも「おめでとう」の一言だけが書かれたメールが届いた。
本当に、周りの人たちに恵まれたと思う。謝っても謝りきれないほどのことを私はしているはずなのに。
そしてもうひとつ、大きな変化がある。
和人を産む少し前、私の名字は『上條』から『秋月』へと変わった。
紙切れ1枚で繋がっただけなのに――なぜだろう、とても安心できた。きっと、いや確実に、『たったそれだけ』のことのためにずっと振り回されていたからだと思う。
父は病院にいる間も、退院して家に戻ってからも、一度もこの子に会いに来てはくれなかった。
――好きに生きて好きに死ね。
和馬が父から預かった伝言は、容体が安定してから聞かされた。もう、覆らないのだろう。それだけが少し寂しく、そして心残りだった。
だから私は、こうして今ここにいる。
「何をしに来た。好きに生きて好きに死ね、という伝言は聞かなかったのか? しかもわざわざ護衛付きで」
社長室の中、パソコンに向かい合ったその顔がこちらに向けられることはない。少し前まではいちいちそれに傷ついていたけれど、今の私は揺らがなかった。
退院からちょうど1週間経った今日、いずに付き合ってもらって、私は久々の上條邸へと足を運んでいた。
もう二度と訪れることはないと思っていたはずの、かつて私の家だった場所。
万が一のことを考えた末、和人は和馬に預け、家にいる。本当は連れてきたかったけれど、何かがあって後悔するのは嫌だから。
そんな薄情なことを思えてしまうのは、私が成長したのか、それともこの人が変わらなかったからなのか。
後ろにいるいずは何も言わない。ただ、私に何かしたら許さない、という気迫だけは感じられる。私が何を言われても動じないで、ただ傍にいて――その願いを最大限に叶えてくれようとしているのだ。
「最後のお別れをしに参りました」
はっきりと告げ、僅かに驚いたような表情をようやくこちらに向けた父を見つめる。
「……私……お父さまが大好きでした。ここまで育て上げてくれたあなたを、大企業のトップとして強く立つ後ろ姿を、尊敬していました。何を言ってもここまで私を育て上げてくださったこと、とても感謝していました」
どれも本当の気持ち。だけど、総て過去形。
本当は今でもそう思っているけれど、そうやって伝えるべきだと思った。いい加減、決別しなくちゃならないから。この人から、この人の支配から。
「でも、皆平等に愛することなんて、できないと知ったのです。薄情、でしょうけれど――私は、和馬が、我が子が愛おしいのです。きっと、あなたよりもずっと」
驚きの色はもう潜められ、父は無表情にこちらを見ていた。口を挟まないでいてくれているだけ、多分、この人なりの優しさを最大限に向けてくれている。
「あなたが私を、お母さまのこと以上に愛することがなかったように」
持ってきた封筒を取り出して、彼のデスクの上に置いた。怪訝そうな表情をした父に、涙をこらえて微笑んだ。
「和人の写真です。私がこうしてあなたにあの子の顔を見せるのはこれきり。一生ありません。私をほんの少しでも想ってくださるのなら、手元に置いてはくださいませんか」
下手くそに、自分が今できる限りの笑顔を浮かべた。それが限界だった。
大嫌いで、でも大好きで、憎らしくて、愛おしい。私とこの人の関係は、恐らく命が尽きるその時まで、中途半端なまま動かない。
歪な親子関係。でもそれが私たちにとっては正しい形。
「さようなら、お父さま――」
この瞬間から、私たちは赤の他人。片や上條代表、片や秋月の遠縁の妻、という遠い距離が二人を隔てる。
「愛して、いました」
愛している。愛している。全身で叫びたかったけど、震える足へ懸命に力を込め、回れ右をした。
いずが何とも言えない表情で私を見ている。
嫌だな。私、そんなに情けない顔になっているのだろうか。
「ゆかり」
ふと、低い声が私を呼び止めた。
驚いて振り返ると、父が私を見つめている。お見合いの日に一瞬だけ見せたような、悲しげに歪んだ表情で。
あれは見間違いだと思っていたのに。そちらの方が勘違いだったのかと目を見張る。
「――お前は、まひるにそっくりだ」
「え」
かたん、と小さな音を鳴らして、彼は立ち上がった。そのまま私に背を向け、窓の方へと視線を遣る。
釣られて見ると、彼は庭を見ているようだ。木のブランコがあるその場所は、遠い記憶の中で父と母、私の3人がよく過ごした場所だった。
「まひるも、あっという間に私の手から逃れて駆け出し、ずっと先で笑っているような女だった」
どこまでもどこまでも、追いかけたところで背中は掴めない――そう呟いて、まひる、と母の名を口にする彼の顔は、見えない。
でも、微かに言葉尻が震えていたのは、気のせいなんかじゃない。そうは思いたくない。
「……お母さまに少しでも似ているのなら、嬉しいです」
お元気で、と言葉を残して、ドアを開ける。
完全に閉まる寸前になっても、彼がこちらを見ることは、なかった。
「泣かないんだねぇ? ゆかチャン」
廊下をすたすたと速足で進んでいく私を、いずの声が追いかけてくる。
「分からない。不思議と、涙が出てこないのよ」
本当は泣きたいのかもしれないけれど、目頭が熱くなることもない。
「強く、なれたのかな?」
振り返った私に、いずは優しく笑ってくれる。
「きっと、大丈夫だよー。君が、強くなろうとし続けるのならねぇ」
彼の言葉に、私もやっともう一度心から笑うことができた。
『ゆかり、こっち』
和人を抱いて、和馬の後ろをついていく。私の調子に合わせてゆっくりと歩いてくれる彼の広い背中を眺めながら、黙々と歩く。
やがて、いきなり視界が開けた。
「わあ……っ」
お散歩を兼ねて、近くの自然公園に来た私たち。ちょっとした丘があって、登ってみると展望台があって。和馬のお気に入りの場所だと言うから、私も立ってみると、思わず感嘆の吐息が漏れた。
私たちの生きる街が一望できるその場所は、一瞬にして私にとってもお気に入りとなる。
私の腕の中にいる和人はすやすやと眠っていて、とってもいい子だ。寝顔を見てみてもまだどちらに似ているのかいまいち分からないが、和馬だといい。そんなことを考えつつ柔らかな頬を撫でた。
それから和馬を見上げる。
この子が誕生した時、誰よりも一番喜んだのはもちろん、和馬だった。感動で涙を流すことしかできない私と一緒になって、声の出ない喉を震わせ、息の音を漏らしながら、ぼろぼろと泣いたほど。
そうして全身で喜びを表現してくれる彼が今までにないくらいに愛しくなって、私は和馬が更に大好きになった。
「和馬?」
街から目を離さない彼に声をかけ、和人の寝顔を近づけてみる。すると和馬は口元をほころばせ、自らの息子の頬にキスを落とした。
『ゆかり』
「ん?」
微笑ましく眺めていたところで肩を叩かれ、きょとんとして首を傾げる。だが彼は何も続けようとせず、ただ頭をなでなでしてきた。
どうしたのかな、と思っていると、ようやく彼はホワイトボードに文字を書き始める。
『おれ、ゆかりに会えてよかったよ』
たくさん泣いたしたくさん心配したけど、それ以上に笑顔をくれて、優しい気持ちをくれたんだ、と。
「何それ、今生の別れみたいな」
縁起でもない、と笑うと、「それは嫌だけど真剣だから」と断言された。
『こんなふうに、可愛い子供まで生まれてくれた』
和人ごと私を抱きしめる腕は、とても力強い。
私の大好きな人。愛しい、人。
「私だって会えてよかったよっ」
和馬がいなければ、きっと私は自分の世界に疑問を持つこともなかった。ただただ父に用意された道のりを歩く、からくり人形になっていたと思う。
だけど、彼は止めてくれた。
その人に乗り越えられない試練を、神さまは決して与えないという。つまり乗り越えられると思ったから与えてきたということで。
それならきっと、私の身に起こったことの総ては意味のあるもので。
辛かったけれど、苦しかったけど、逃げ出したくもなったけれど、神さまのことを恨んだことも有ったけれど。あの経験たちが今の私を形作ってくれているのだ。
もう絶対に、自分が嫌いだと泣きたくない。大好きな人が大好きだと言ってくれる自分のことを、嫌いたくない。和馬や和人を愛すように、大切にしたい。
「ねえ、和馬?」
今度は彼が首を傾げる。
「……この子にもきっと、『こんにちは』の瞬間が、来るんだよね?」
それまでの自分が間違っていたと思うのならば、そんな自分には「さようなら」を告げて、その後は新しい自分に「こんにちは」と告げればいい。
私たちがいつか体験したように、この子も迷いながら進んで、立ち止まっては振り返って、自分が間違えてしまったことを悟るのだろう。
でも、間違えたって構わないのだ。新しい自分を探すことを、決してやめることがないのならば。
和馬はただ、あたたかくも不思議な笑みを浮かべていた。
――新しい自分と 新しい小さな命に 「こんにちは」――
● ● ●
「和人ー!」
少年は呼び声に顔を上げ、振り返った。その先にいた少女を見て、彼は嬉しそうに頬をほころばせる。
「弥子」
少女はぱたぱたと駆け寄ってきて、彼が差し出していた手を握った。導かれるまま少女は歩を進め、眼下に広がるものを見渡す。
彼らの目の前にあるのは、生まれたてだった頃の少年を抱えながら、少年の父と母が見ていた景色。
あの頃とは街並みは大きく様変わりしている。あまりに幼すぎた彼には、その差は分からなかったが。
「ここにいたのね。おばさまから聞いたの」
彼は街に視線を落としたまま、少女の言葉に頷く。
「今日、新しい自分に『こんにちは』したからね」
そんなことを呟きながら。
「え?」
きょとんとしている彼女の頭を撫で、少年は柔らかく笑んだ。父親そっくりの顔で。
「こっちの話」
当然ながら怪訝な表情を維持したままの少女の手を引いて、少年は丘をゆっくりと下りていく。
「……変な和人」
眉を顰める彼女の反応を、彼は楽しげに笑った。
少年の耳に、母に幼い頃から言われていたことが蘇っていたのを、少女は知る由もない。
――もし、今までの自分を間違っていたと思うのなら。その時はこの言葉を思い出しなさい。昔ね、お母さんもお父さんに教えてもらったの。
それまでの間違っていた自分に「さようなら」を告げて、
「さようなら」の後は、
新しい自分に「こんにちは」って告げればいいんだよ
お付き合い、ありがとうございました。
これにて完結です。
作者としては、声の出せないという設定の和馬の描写にとても細やかな配慮が必要とされる作品でした。
しかし、この二人――特にゆかりの成長の様子を描き出すのはとても楽しかったです。二人の物語の中に散りばめた私の思いの欠片をひとつでも感じ取っていただけたなら、作者冥利に尽きます。
最後まで読んでくださった皆さまに、心からの感謝の念を述べさせていただきたいと思います。
繰り返しになりますが、ありがとうございました。
2014/07/28 汐月 羽琉
※以下は参考文献になります。
新井英靖『障害児者へのサポートガイド』中央法規出版、2007年
『みんなの知識【ちょっと便利帳】- 指文字』[http://www.benricho.org/yubimoji/](最終検索日:2014/07/28)
『手話サークル「四季の会」- 基本手話の一例』[http://www7a.biglobe.ne.jp/~siki/kihonn.html](最終検索日:2014/07/28)
『手話辞典・手話動画 - Weblio辞書』[http://shuwa.weblio.jp/](最終検索日:2014/07/28)
『手話勉強会』[http://www.syuwabenkyokai.jp/syuwa/](最終検索日:2014/07/28)




