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「さようなら」の後は、  作者: 汐月 羽琉
第六章 終結
30/32

たとえ、この身を裂かれても

 やってきた迎えの車に恐縮しながら乗り込んで、村田傘下のビル群の間を通り抜けて、そしてようやく宮苑の本社ビルで宮苑次期代表と落ち合うことができた。

 日の光に彼の金髪がきらきらと反射して、少し眩しい。

 後ろに控えているボディーガードの冬華さんは、いつも通りにきりりとした顔つきをしている。

「大荷物だね?」

 車から降りてきたおれを見て、次期代表は目を少し見開いた。

 それはそうだ。いくつかのカンバスを抱えていたから実際重たいし、他はさほどでもないけれど、1枚はとても大きなものに描かれているから。

「……それを使って伝えたいことがあるの?」

 やはりこの人は不思議だ。おれの考えていることを簡単に見抜いてしまう。勘がそれだけ鋭いのか、おれが分かりやすいのかは判断しかねるが。

「アポは取り付けた。行こうか」

 今しがたおれが降りたばかりの車に、宮苑次期代表は乗り込んでいく。慌てて従った。ちらりと見ると、冬華さんは助手席へと向かっていく。

「ゆかちゃんのことは安心して。今は和泉がついてる」

 その言葉に安心して、ありがとうの言葉代わりに深く頭を下げたら、次期代表はにっこり笑ってくれた。

 間もなく宮苑のビル群を抜け、上條の敷地内に入る。

「ごめんね。ごり押しで取り付けたはいいけど、30分が限界だったんだ」

 上條の本社ビルが視界に入ってきた頃、彼がぽつりと言った。

 おれは首を振り、充分です、とホワイトボードに記す。そもそもむちゃな要求を呑んでもらえただけでありがたいと思っていた。

「着いたよ」

 次期代表がほっとしたように微笑んでから、ふと外を見る。

 釣られておれも視線を窓の方に向けたら、確かに上條本社の車回しをゆっくりと走っているところで、間もなく車寄せで静かに停まった。

「ついてきて」

 導かれるまま、車を降りてついていく。冬華さんは、次期代表はもちろんおれを諸共に守るようにして、足音もなく追ってきた。

 受付のところで次期代表が声の出せないおれの代わりに交渉してくれ、来客用のIDカードケースを無事受け取ることが受け取ることができた。それをおれが首から下げて歩み始めようとしたのとほぼ同時、宮苑次期代表は足を止めた。

「俺が導けるのはここまで。アポを取らせてくれた条件が、『君一人で来ること』だったから」

 語りながらも、彼は心配そうな目をこちらに向けている。

 こんなに短時間で、突然のお願いだったのに上手くいったのだから、時間の指定以外に何も条件が出されていないとは思っていなかった。だから、大丈夫。

『大丈夫です。ゆかりをよろしくお願いします』

 頭を下げると、次期代表はまた心配そうにしたけれど、しっかりと頷いてくれた。

 それに笑顔を向けて一礼し、こちらへ、と言って導いていく社員の女性についていく。案内されるままに数台あるエレベーターの中から1台に乗り込んで、最上階へと向かった。

 静かに上昇したエレベーターは直通のものだったのか、あっという間に最上階へとたどり着く。ドアが開いて見えたフロアは広々としていて、豪華ながら気品を感じさせる装飾でまとめられていた。

「こちらでございます」

 女性はドアを指し示し、ノックして「お連れしました」と声をかける。

 この荘厳なドアの向こうには上條代表がいるのだ。俄に緊張してきて、ぎゅっと唇を引き結んだ。

 ゆかりがいつだか言っていたことが耳に蘇る。

 ――お父さまの声ってね、何だかお腹の底を揺さぶられるみたいで……とても怖いのよ。それだけ威厳があるのかもしれないけど。怒られていなくても怒られているみたいで、自然と体が強張っちゃう。

「入れろ」

 確かに、彼の低く響く声は、人を畏怖させるには充分すぎるくらいである気がした。

 女性から「どうぞ」と言われたので、お礼を込めて彼女に深く一礼する。

 それから静かにドアを開け、また深々と頭を下げた。失礼します、と声を出して言えないのを、こういうときは恨む。

「……何の用だ」

 顔を上げ、デスクに向かっている上條代表の姿を真正面から捉えた。

 テレビで見ていた顔と同じ。ゆかりに面立ちがよく似ている。紛れもなく、血の繋がった父親なのだ。

『初めまして。秋月和馬と申します』

 こちらに一瞥をくれもしない彼の視界に入っているかどうかは若干の疑問があったが、ホワイトボードを掲げてみせてまた軽く一礼した。

「声を出せないのだろう? そんな貴様が私と話をしたいなどと……滑稽なものだ。秋月の、しかも下級分家風情が」

 吐き捨てるように言われたものに、この人の本質を見た気がする。

 少なくともおれの周りにいた親ならば、確実に自分の子供についての話題を先に出す。しかも彼の中ではまだゆかりは今行方不明の状態なのだ。それなのに、ゆかりの『ゆ』の字も口にしないなんて。

『……ゆかりが心配ではいらっしゃらないのですか?』

 ようやくおれの文字をちらりと見た代表は、「興味がない」と言い捨てる。

「あれは確かに私の娘だ。だが無駄な知恵を身につけた。上條に相応しい者ではなくなっている。その時点で大方の興味は失せた」

 ただ、と言葉を続けた代表は、何かの作業を休むことなく続けていた。それにますます異様さを感じられる。

「血を繋ぐためにはあれの血は欠かせん。だから追う。私の認めていない者の血が混じった子供など産ませない。絶対に、だ」

 それではまるで、ゆかりは『正式な』上條の子を産むための道具ではないか。代表には見えない角度で拳を固く握りしめる。


「死なれても困るが、あまり元気でも厄介だから、弱ってその辺りで野垂れ死にかけているのを捕まえるくらいでちょうどいい」


 言い草に、ぷつん、と頭の何処かで糸が切れたような音がした。

 つかつかとデスクの方に近寄り、部屋中にダァンという音が響き渡るぐらいに強く、1枚のカンバスをデスクに叩きつける。

 多分、生涯で一番の冷えた目を向けていると思う。こんな顔、ゆかりには決して見せられない。

「……何を」

 呆気にとられたような表情になってから、不快そうに眉を顰める代表。構わずぐいっと彼の方へと絵をにじり寄らせた。

 これは、風景画や人物画を中心にして描くおれからすれば、かなり久々の抽象画だった。赤、黒、青、緑――それに限らず、様々な色が真白いカンバスを埋め尽くして、おどろおどろしく棚引いている。

 彼女がいなくなってからは、ほとんど描けなくなってしまった絵。いや、正確にはこのようなものしか描くことができなかった。

 何枚描いても、いくらカンバスを破り捨てても、心の中のドロドロが形を表してしまう。辛くて苦しくて、大きなカンバスをたくさんの色で塗り潰した。

『ゆかりを解放してください』

 沸々と込み上げてくる怒り。声が出ないのがもどかしすぎて、喉を掻き毟ってしまいたい衝動に駆られる。

 こんなにも言葉を発せないということに激しい劣等感を覚えたのは初めてだった。今だけでいい、声が欲しい――そう願っても叶わないことぐらい知っているが。

「……何を、ふざけたことを言っている?」

 すっと不機嫌そうに細められた代表の目。

『ゆかりを解放してください』

 同じ文面をぐいっと代表の顔面に近づける。

『貴方はゆかりの笑顔を愛しいと思ったことはありますか? 大事だと抱きしめたことは? 彼女の考えを、思いを、願いを、じっと聞いてあげたことは? どれかひとつでも、一度だってありますか? ――奥さまが亡くなった後に』

 ぴくりと彼の眉が一瞬動いた。口の端も引きつって、ひくひくと蠢いている。

 ああ、文字を消すのももどかしい。でも声を持たないおれは書かなければ、こうして見える形で言葉にしなければ伝わらない。

『奥さまをどれだけ大事になさっていたのか、愛していらっしゃったのか、ゆかりから聞いています。奥さまが亡くなってから貴方は豹変してしまったと。だったら貴方にだって分かるはずだ。誰かを心の底から愛しいと思う気持ちが』

 ゆかりは気に病んでいた。自分の言葉が父親を縛りつけてしまったのではないか、と。

 今ならはっきり言ってあげられる。そうじゃない、と。

 お願いだ。お願いだから、分かってほしい。理解してほしい。ゆかりがお父さんに向けた言葉は、決して縛り付けるための言葉ではなかったのだと。


『幼かったゆかりの言葉を、ゆかり自身を、あの子の優しさを――自分のどうにもならない思いを昇華するための逃げにしないでください』


 ――なかないで、おとうさま。ゆかりは、つよいおとうさまがすきです。

 彼女は幼いなりに、妻を失って涙に暮れる父親を慰めようと思っただけ。責められる謂れも、彼女自身が己を責める必要もない。

 現在の彼女は、そうでも思わないと、自分を含めた周りの人間に冷たく接する彼を直視できなかったのだろうけれど。

「分かったような口を……」

 額に青筋が見える。

 人はなぜ、誰かに言われたことに苛立つのか。もちろん、そうでない場合もあるけれど、多くは単純に――その人に言われたことが図星だからなのだ。

『分かっていらっしゃるのでしょう? ゆかりの言った「強さ」と貴方が逃げ込んだ「強さ」は、全く違うものだと』

 ゆかりはただ、父親にもう一度笑ってほしかっただけなのに。

 幼い子の考えで、『泣くことは弱いこと』とでも思っていたのなら、『笑うことが強いこと』に繋がっただろう。それがこの人には分からなかったのか。未だに分からないのか。

 彼が『強さ』を周りに対して堅固に対応することだと解釈した時点で、大きな齟齬が生まれてしまったのだ。

 噛み合わなくなった親子の意見は、こうして彼女が大人へと成長と遂げて、表面化した。

『奥さまのことを後悔するばかりに、もう二度と自分の周りの人間を失わないように、ゆかりを縛りつけようとしたのでしょう? 今回のことも、ご自分のご存じない彼女の部分を認めたくなかったのでしょう?』

 代表は青筋を立てたまま何も言わない。

『もう、ゆかりを解放してあげてください。貴方というしがらみから』

 見せてから、先ほどのカンバスと合わせて持ってきた数枚の絵をデスクに載せる。

『彼女はあんなにも明るく笑うことができるのに……貴方の前で、これほど明るく笑っているところをご覧になったことはありますか?』

 父親のことを語る彼女はいつも、悲しそうで、辛そうで。笑っていても、それは懸命に作られた笑いで。おれの大好きな、周りも明るくしてくれるようなものからは程遠くて。

『おれとの子供を産ませてください。その子はあなたの愛した奥さまの血も継いで産まれてくる。貴方は、奥さまをもう一度殺すような真似ができるのですか?』

 ――奥さまの血を半分継いだゆかりから、この笑顔を奪うことができるのですか?

 続けながら、並べたものから順に布を取り払った。

 残っていたカンバスたちは総て、一緒に暮らすようになってから描き溜めたゆかりの絵。

 シチュエーションは全く違ったとしても、全部、眩しい笑顔だ。おれの大好きな表情だ。弾けるようなエネルギーを感じさせる笑みなのだ。

『お願いします。貴方にとっての奥さまを、おれから奪い取らないでください』

 深々と頭を下げるも、代表は何も言わない。

 だけどおれも彼からいい返事を引き出すまでは動くつもりはなくて、ただじっと立っていた。

 沈黙が流れ、1分、2分、5分――どんどんと時間は過ぎていく。

 何も返事がもらえないのだろうか。そう思い始めた時だった。

「失礼」

 軽いノックと共に、聞き慣れない声がドアの辺りから聞こえる。おれは反射的に勢いよく振り返った。

 そこにいたのは男性だった。どこかで一度見たことがあるような、と思い、記憶を浚う。

「涼さま……」

 代表の驚いた声も大きな手がかりになった。

 村田涼。ゆかりのお見合い相手で、婚約者になるはずだった人だ。

「どうしてここにいらっしゃるのですか……?」

 代表の疑問はおれの疑問でもあり、おれは呆けたように口を開いた。

 涼さんはその台詞に「久弥に頼まれたからな」と軽く肩を竦めてみせる。

「宮苑次期代表から直々に頭下げられちゃあね。村田とはいえ分家の人間に無視はできねーよ」

 気だるげにドアに寄りかかっていた彼はまっすぐ立ち直して歩き始め、おれの隣に並んだ。

「上條代表。あんたはあの子――ゆかりが欲しいんじゃなくて、上條を滅ぼしたくないだけなんだろ?『ゆかりにはもう興味がない』って俺はさっきはっきり聞いたし、あんたも聞いてたよな?」

 唐突に話を振られて度肝を抜かれるも、こくこくと頷く。それを見て涼さんは満足げにし、代表に向き直った。


「俺と結婚させたがってたのだって、ゆかりの幸せを願ってじゃない。村田の血を上條に組み入れたかっただけだろ? だったら俺が養子になってやるよ」


 彼の突然の提案に目を見張る。

「何を……」

 さすがの代表も意外だったと見えて、これ以上ないほどに目を見開いていた。

「何を驚いてる。元々婿養子として入る予定だったんだ。別に構わねぇだろ?」

 村田の血を引き入れられるぜ、とニヒルに笑う彼。

「まあそれだけじゃ納得しねーだろうから、和馬、お前にも条件をひとつ。別に生まれたらすぐにとは言わない。充分に成長してからでいい。これから何人生まれるかは知らねーけど、お前らの間の子を一人、俺に養子に寄越せ」

 おれはますます大きく目を見開いた。

 確かに理には適っているけれど、それではこの人は? この人には何の得もないではないか。代表にもゆかりやおれにもきちんと利はあるのに、涼さんには何ひとつ。

「俺は誰とも結婚するつもりはねえし、それなら子供ができることもない。ややこしい相続問題も起こらない。上條令嬢の子を養子にもらえば、血が絶える心配もない」

 あんたにとっては悪くねぇ条件だろ? と、涼さんは代表を見つめているが、思案しているのかそれとも呆気にとられているのか、代表は何も言わない。

『それじゃ、貴方には何のメリットもない……!』

 おれは黙っていられなくて、走り書きした文字を必死な顔で涼さんに見せた。

「あるよ。メリット」

 だが、あっさりと返された。え、と思う間もなく、「上條が存続すること」と続く。

「俺たち村田にとっても、上條はなくてはならない傘下なんだよ。滅びられたら困る。そのためなら安いもんだろ。しかもほとんど知らない相手と結婚する、なんて面倒なこともしなくて済むしな」

 ああ、この人には敵わない――楽しげに笑う彼に思い知る。

「異議は認めねぇよ? つーか今回のことなんて、一人娘が初めて言った我儘だろうが。それくらい叶えてやれる器を、こんな大企業のトップが持ってなくてどうすんだ」

 代表は苦虫を噛み潰したような顔をしている。ほとんどのメリットが上條にあるような条件なのに、代表の中では何かしらの葛藤があるらしい。自分の思う通りにならないことが気に食わないのか、それとも負けたかのようで気分が悪いのか。

 だからもう一押しすることにした。

 それに、おれだって少し気に食わなかったのだ。まるで現恋人の自分が元婚約者に負けたみたいで。

 自分にもこんな負けず嫌いな一面があったのかと少し驚く。

『おれが生まれつき声を出せないことも、使ってください。どれぐらい役に立つかは分からないけれど――上條の名を更に高めるために』

 きっとゆかりにも、両親にも渋い顔をされるだろう。

 でもそうして自分の代わりに辛そうな顔をしてくれる人たちがいるということだけで、おれは充分だ。たとえこの世界のほとんどが同情でしか見てくれなかったり、おれを馬鹿にして笑ったりしていたとしても。


『こんな「異端」なおれを、村田の第一傘下である上條が受け入れていたら……きっと、医療事業をこのまま進めていく上でも、多少なりともイメージがよくなると思いますが?』


 涼さんはおれをちらりと見、わずかに呆れたようにしてみせるも、何も言わなかった。止めようとしたところで無駄だと分かってくれたのかもしれない。

 代表はますます渋い顔になり、じっくりと考えているようだった。

 重苦しい沈黙のせいで息をするたびに肺が痛む。この空気はどうにかならないものか。流れる冷や汗を不快に感じ始めた頃だった。

「ゆかりに伝えろ」

 代表に視線を向けられていることに気づいて目を瞬かせ、勢いよく頷いた。

 ようやく願いは聞き入れられないかもしれない、と覚悟を決めるとほぼ同時。


「『これから先、お前がすることに一切責任は持たない。赤の他人と同じ扱いをする。好きに生きて好きに死ね』と」


 彼はやはり不機嫌そうな様相のままで、放たれたその言葉はきっと突き放してはいたけれど。おれたちが共に生きることを、認めてくれたのともまた違ってはいると思うけれど。

 でも、「好きに生きろ」と彼女に言ってくれただけで充分だった。

 お礼の言葉代わりに深々と頭を下げる。

「用が済んだなら出ていけ」

 彼がゆかりを愛しているのか。生まれてくる子を愛してくれるのか。きっと期待をしても無駄なのだろうに、希望を抱く。

 多分それは、ゆかりが諦めないからだろう。

 あの子は「自分が分からない」と泣いたけれど、それは求めることをやめていないということで、おれもそう在りたいから。

 今度は軽めに一礼をして部屋を出た。

「じゃあ、今日のところはこれで。また後で話し合いやら書類記入やらするから」

 涼さんもそう言い残しておれについてきて、ドアがゆっくりと閉まっていく。彼の言葉に対しての返事は飛んできたが、代表がこちらを見ることはなかった。

 重い音を立てて閉じた扉を見ながら、寂しさを覚える。ゆかりはこんな感情をいつも抱いていたのかと思うと、なおさらに胸が痛かった。

「何であんな自分をショーケースに入れられた商品みたいに扱え、って言ってるみたいな提案、わざわざしたんだよ。馬鹿だろ」

 しばらく何も言わないままにおれを見ていた涼さんが小さく言う。

 それは、悔しかったからだ。

 おれの言葉を加えなくても、彼の提案だけで代表はゆかりを解放することに頷いていたかもしれない。それはきちんと理解している。

 だとしたら、余計に耐えられなかった。おれではない他の男にゆかりが救われるだろうことが。そんな未来を、自分の目に映したくなかっただけ。くだらない嫉妬だということは分かっている。

「……ま、いい」

 訊いた涼さんだって、知っていたのだろう。おれが彼に複雑な感情を持っていることを。

『だったら貴方こそ、どうしてあんな行動を? これから先の貴方の人生……上條に捧げるような真似を』

 野暮だと知っていながらも、彼の登場に救われたことは間違いないからこそ、尋ねずにはいられなかった。

 彼はエレベーターのボタンを押しながら「理由なんか訊いてどうする?」と肩を竦めた。

『知りたいのです』

「嫉妬か?」

 またもニヒルに笑う彼。いや、『嗤われた』気もしたが、構わない。

『そうだと申し上げたら?』

 まっすぐに目を射抜いて答えると、今度は微かに目を見開いて驚いたようにした直後、頭をガリガリと掻く。

「……ったく、さっきから調子狂う奴」

 はあ、とため息をついて、真正面から視線を返してくれた。

「似てたからだよ」

『……似て、いた?』

 ああ、と頷いて腕を組む様子を眺めながら、続く言葉を待った。

「もう二度と会えないけど、死ぬほど大事だった奴に」

 涼さんはちょっと言いにくそうにしながらも、言葉を紡いでくれた。

 ――涼さんは、引き裂かれたの。心底愛し合った人と。

 耳に蘇るゆかりの言葉。

「勘違いすんなよ。だからって、あんたの彼女を愛してるとかそういうわけじゃない。――ただ、あいつの代わりに好きな相手と幸せになってほしかっただけだ」

 エゴだって笑えよ、と投げやりに吐き捨てられる。

『笑いません。だったらさっきのおれの感情はそれよりも更に笑えるものですよ。嫉妬から、貴方にだけゆかりを救われるかのようで耐えられなかった』

 だけどそれだけじゃない。この人が語っていることだって、きっと総ての理由ではないはず。

 かつての恋人への愛情とか、ゆかりへの哀れみとか、村田としての矜持とか使命とか、そういうものが複雑に絡み合った結果なのだろう。

 おれだって、涼さんに嫉妬したからという理由だけで、代表にあんなことを言ったわけではなかった。


『だけどそれ以上に、たとえこの身を裂かれても、ゆかりと赤ん坊を護りたかった。そのためならあれくらい、よかったのです』


 大切な人たちを、自分なりの方法で、護りたかった。ゆかりがそれこそ命懸けで赤ん坊を護り抜こうとしたように。

「そりゃ、いいことだな。護れる人間がいるってことは」

 彼は初めて、虚無的ではない柔らかな笑みを見せてくれた。

 それとほぼ時を同じくして、エレベーターの到着を知らせるチャイムが響く。

「ほら、行くんだろ」

 乗り込みながら、涼さまは振り返った。

「ようやく会えるんじゃねぇの?」

 先ほどの柔らかなものはどこへやら、意地の悪い笑みで見られる。

 少し目を丸くしたが、笑顔で首肯して自分も乗り込んだ。

 ――ゆかり。

 気持ちだけは逸り、彼女がいるという病院まで勝手に飛んでいく。

 ――ゆかり、今行く。

 頑張ったねと言うよ。だから待っていて。

 言えなかったこと、言いたかったこと、ちゃんと君に伝えるから。

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