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「さようなら」の後は、  作者: 汐月 羽琉
第六章 終結
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護るから

「お嬢様。おはようございます。そろそろ出発のお時間ですので、お食事とお着替えがお済みになりましたら、わたくしどもにこのベルでお知らせくださいませ」

 そんな声と、カーテンの開け放たれた窓から差し込む光と、美味しそうな匂いで目が覚める。

 体を起こしたら、きびきびと働いているメイドが目に入った。

 自分のやるべきことを済ませた彼女は一礼の後に部屋を出ていき、施錠音が同時に響く。

「……そんなことしなくても、逃げないわよ」

 まだぼんやりとする頭ながら、呟いて笑った。

 言われた通り、それなりに豪華な朝食を体力づけにと綺麗に食べ切り、身支度を済ませてベルを鳴らす。

 メイドがやってくると思っていたのだが、現れたのは川原だった。父直属の使用人がこうしてやってくる辺り、相当に警戒されているらしい。

「おはよう」

 微笑みながら言う。

「おはようございます、お嬢さま」

 少し驚いたような顔をしている川原。この状況でもなお笑って、しかも挨拶なんてできている私を不審がっているようだ。

 私によく関わっていてくれた人たちはいなくなってしまっていたけれど、それでもこの人たちが私の世話をしてくれていることには違いない。たとえ父の命令で仕方なくだとしても。

 彼らを父のように邪険に扱うことは私にはできないという、ただそれだけのこと。『当たり前』なんて、いい意味でも悪い意味でもこの世には存在しないのだから。

「それではこちらへ」

 川原に導かれて玄関に向かう。当然ながら、ホールに父の影はなかった。私の発する戯言など聞きたくはない、と言った彼だ。見送ってくれることなどありえない。

 少しだけ切なくなる。

 最後ぐらい、何か声を聞きたかったのに。

 ――さようなら、お父さま。

 私はもう二度と、ここには帰ってこないつもりだから。

 玄関を出たところで振り返り、自分の育った家を見上げる。

 以前、お見合いの日にも同じような行動を取った。似たシチュエーションなのに、こんなにも心境が違う。


 あの時は総てを諦めていた。

 今は決して何も諦めまいとしている。


 車に乗り込んだその後はもう、振り返らなかった。

 車内は至って無音。私を含めて、運転手や同伴の使用人たちすら誰も口を利こうとはぜず、車窓の景色だけが目まぐるしく流れていく。

 私の場合は、これからしようとしていることに緊張していてそれどころではなかった、ということも大きいが。

 でも、緊張はしていたけれど、不思議と冷静だった。

「……川原」

 私の呼び声に彼はこちらを見、「はい」と反応する。

「ごめんなさい。お手洗いに行きたいのだけれど」

 言った途端、ほんの少し睨み合うような時間が生まれる。どうやら完全に疑われているみたいだ。

「そう言って逃げ出されるおつもりですか」

「私にそんな頭と体力があると思う?」

「お嬢さまは変わられました」

 以前は旦那さまに食ってかかられるなどありえませんでした、という彼の言葉は、私自身の驚きでもある。子供を喪うかもしれないぎりぎりの状況でもなお、これほど落ち着いていられるとは思ってもみなかった。前の私だったら確実に取り乱していただろう。

「……以前の方がよかった、とあなたは言うの?」

「私は意見できる立場にございません」

 彼ら使用人の伝家の宝刀だ。そうして自分の考えを隠してしまう。

 私が聞きたかったのは、『上條家の使用人』や『お父さまの腹心』ではなく、『川原』という一人の人間の答えだったのに。

 ふ、と笑った。

「……そう。とにかく、お手洗いに行きたいの。お腹が痛くなってしまうわ。そんなに心配なら、誰かがついてくればいいのよ。さすがに個室の中までは勘弁だけれど」

 再びの睨み合い。

 私は譲るつもりはなかったし、きっとそれは彼も同じ。どちらが先に負けるかの我慢比べ。

 しかし、当然ながら川原の方もなかなか譲らない。

 少し心苦しさを感じるけれど、この方法しかもう残されてはいない――だから、私はにっこりと笑った。

「出して。私の言葉が聞けないの?」

 卑怯な言い方であることは知っていた。立場を盾にして、命令を無理矢理に聞かせるようなものだから。

 予想通り、川原は言葉を詰まらせる。

 だが彼は優秀で、それでも粘って私をじっと見ていた。けれど、とうとう根負けしたようだった。

「……分かりました」

 深いため息とともに頷いて、「一番近い店で止めろ」と運転手に声をかけてくれる。

 すると言葉通り、すぐ近くにあった店の駐車場で車は停まった。和馬とも彼の家の近くにある店舗に数回訪れたことのあるぐらい、ポピュラーな家電量販店だ。

「私と、メイドが二人、ご提案の通りに追従致します。よろしいですね?」

「ええ」

 これ以上の我儘を言って、川原の考えが変わっても困る。素直に頷いて、お手洗いの方に向かっていく。

 逃げられるか逃げられないかの瀬戸際だ。さすがに心臓が口から飛び出しそうなほどに激しく脈打っている。

 入り口の付近に川原を残して、メイドと共にトイレのスペースに入った。


 3室しかない個室は、既にふたつ埋まっている。しかも、外に繋がる窓の付いた一番端を残して。


 神さまは最後の最後で、こうして私に希望を見せる。

 それとも、お腹の子が私を応援してくれているのだろうか。お母さん、頑張って、って。

 私は努めていつも通りを装い、ドアを閉めてしっかりと施錠した。

 ますます大きくなった鼓動のせいで、痛みすら感じそうな自分の胸。どうにか宥めて、バッグから手帳を取り出す。

 お父さまと、ここまでついてきていた川原に向けた短いメッセージを残したページを静かに破り、便器の蓋の上に置いた。

 時間がない。急がなくては。

 改めて窓を見ると、換気と明かり取りが目的のものであるからして、当然ながらそんなに大きくはない。

 だが幸いなことに、上げ下げタイプの窓だ。

 この時ばかりは自分が小柄な方でよかったと思う。何とか出られそうである。

 嵌め殺しや、開いたとしても倒し窓だったらアウトだった。神さまに心から感謝し、音を立てないように気をつけながら窓を開ける。

 これから先は、恐らく激しい動きも厭わず行くしかないだろう。和馬との子が強い子だと信じるしかない。

 ごめんね、頑張ってね。お母さんも、きっと頑張るから。あなたを守りきってみせるから。

 お腹に一度当てた手を窓の縁につき、ぐっと体を持ち上げる。そのまま狭い空間をどうにか通り抜け、外に降りた。

 音で個室のドアが叩かれているのが分かる。

「お嬢さま? 大丈夫でございますか? お嬢さま!」

 メイドにも心の中で「ごめんね」と謝ってから、走り出した。

 店の裏手に回り、恐らく従業員用の通用口であると思われる場所から店の敷地を出て、全力疾走で道を駆けた。

 あっちは車だ、なるべく細い道を選んだ方がいい。

「ゆかり様!!」

 背後で聞こえたのは、間違いなく川原の声だった。

 振り返らない。多分、その瞬間に止まってしまう。止まりたくなんかない。

 だが、聞こえてきた言葉は、予想もしていなかったもので。


「どうか、ご無事で……!」


 え、と思わず立ち止まりそうになって、背後にいる川原を慌てて見る。

 彼は走っていなかった。追いかけてきてはいなかったのだ。

 川原の本当の狙いが何だったのか、今ごろになって分かった気がした。

 父の命令を無視してまで、逃がしてくれた。

 最初から逃がすつもりで、ここまで私を連れてきてくれた。私が自分で「逃げたい」と思い、行動する限りは、協力してくれるつもりで。

 ありがとう、と、言葉にならなかったけれど心中で叫び、そのまま走り続けた。

 逃げなくちゃ。逃げなくちゃ。

 走って走って、これ以上は息ができないというほどに走り、ようやく止まる。

 そこは駅だった。たくさんの人が出入りを繰り返している。

 ここからならたくさんの場所に向かえる。電車が出ているし、バスも様々な方向に数分おきに出発しているのだから。

 とりあえず、少なくとも都心からは出なきゃ――考えていた時、和馬に何も告げることのできないまま連れていかれたのだから、きっと心配しているに違いないと思い当たる。

 上條邸にいたときは彼の元に帰ろうとしていたけれど、よくよく考えてみたら、もう和馬の家の場所も知られているのではないか。

 考え出したら、頭の中でぐるぐると嫌な考えばかりが巡り巡って、足が竦んでしまった。

 私はどうしたらいいのだろう。

 逃げなければならないのに立ち尽くしたままだった私の視界に、ふと飛び込んできたのは公衆電話。

 そうだ、電話だ。これで今の状況を伝えればいい。携帯電話だと電源を入れたら居場所が知られてしまう可能性があると思ってできないが、これなら大丈夫だろう。

 電話ボックスに入り、財布から数枚の十円玉を取り出して、挿入口に落とし込んだ。指が微かに震えているのを意識しながらも、和馬の自宅の番号をプッシュすると、間もなくコール音がした。

『はい』

 聞こえてきたのは、由子先生の声。

「ゆかりです……」

『……!! ゆかりちゃん! どうしたの!? あなた今、いったいどこにいるの!? 大丈夫なの!?』

 彼女が心配してくれているのが声から伝わってきた。申し訳なさに胸が痛む。

「由子先生……今、公衆電話からかけてます。時間がないので、言わなきゃならないことだけ」

 受話器をぎゅっと握りしめた。彼女が戸惑っているのが電話越しでも伝わってくる。

「私、……多分、子供ができました」

 息を呑んだ音が聞こえた。

 もっと落ち着いた状態で、喜びながら伝えたかった。それは叶わないけれど、きっとちゃんとした形で、もう一度伝えよう。心に決め、言葉を続けた。

「それを父に知られました。あの人は何をしてでも私にこの子を堕ろさせようとしています。今はどうにか逃げ出してきたところです」

『あなた、体は? 大丈夫なの?』

 大丈夫です、と告げてから、息をつく。

「和馬に伝えてください。……『ごめんなさい、心配かけて。堕ろせなくなるまで逃げるから。大丈夫だから』って」

 心配しないで、とは言えなかった。私が彼でも心配しないわけがないから。

 でも、父が本気なら私も本気だ。家を守るための当主の気持ちか、それとも子を護るための母親の気持ちか。

 どちらも本気なら、どちらの気持ちがより強いかで決まるのだ。

『何言ってるのゆかりちゃん、帰ってきて! それから和馬と一緒に……!』

「そちらにもきっともう、追手が来ます。ごめんなさい、先生方にもいつもいつも迷惑ばかりかけて……」

 あちら側がどたばたと騒がしくなるのが分かる。孝太先生の「何ですか貴方たちは!?」という大声も。

 私にも時間がない。

 ごめんなさい、ごめんなさい。迷惑ばかり、心配ばかりかけて。

 何度目か、お腹に触れた。たとえこの選択が大衆から見て間違っていたとしても、他に方法はない。この子を護るためには、進まなければならない。


「進むために、逃げます。どうかお元気で」


 由子先生がまだ何か言っていた気がしたけれど、聞こえないふりをして受話器を置く。

 泣きそうになったのをこらえて、深呼吸をひとつ。

 私があの場にはいないのだから、さすがに和馬や先生方には何もしないだろうと信じるしかない。

 お見合いからの逃亡に手を貸した和馬は父に相当に恨まれているだろうから、心配ではある。助けに行きたいのは山々だけど、私が捕まったら元も子もないから、ぐっとこらえた。

 和馬――呼びたい名前を呑み込んで、歩き出す。駅に向かう人波に飛び込んだ。

 まず向かう場所は、一番遠い場所。この駅から出る電車の中で最も遠いところまで行くことのできるものに乗ろう。

 逃げるときには、深層心理で自分の知っている場所に行こうとしてしまうらしいよ。誰かから聞いた知識が一瞬頭をよぎったが、無視した。

 たとえ私に関わりがあったとしても、それができる限り薄い場所へ。

 もう一度深呼吸をし、改札を通り抜けた。

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