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「さようなら」の後は、  作者: 汐月 羽琉
第六章 終結
27/32

あの人の執念

      ――さようなら の 10秒前――



   ● ● ●



 たった10ヵ月程度訪れなかっただけなのに、こんなにも懐かしく感じる。

 上條本家。私の実家。

「お降りください」

 車はしっかりと玄関の前に横付けされて、使用人によってドアが開けられる。私は無言でそれに従って降りた。

 何も余計なことは言わない方がいいと、そんな気がしたから。

 脚を進めていけば、あの頃と同じように使用人たちがずらりと並んで出迎えてくれるけれど、そこにいるはずの人物が一人いない。嫌な予感がした。

「……メイド長はどうしたの?」

 すぐ後ろを歩く川原に問う。

「……彼女ならあの事件の直後、お嬢さまの逃亡に手を貸していたとして、旦那さまが更迭なさいました。彼女の配下にいた数人も退職しております」

 ああ、やはりか、と上手く働かない頭でぼんやり思った。

 自分に逆らった者には容赦なく冷徹な顔を見せる父のこと、それくらいやらないわけがない。私のせいだ。

 まるで今生の別れのようだと思ったあの笑みは、私の気のせいなどではなかったらしい。今さら分かっても、もう遅いけれど。

 見れば、私によくしてくれた使用人たちのほとんどはおらず、見知らぬ顔が増えている。

 どこか機械のような人たちばかりの中で、一人だけ目から光を失っていない者がいた。

「前上……」

 あまりにほっとして、揺れる瞳に微笑んでみせていた。

 よかった、あなただけでも残っていて――思いながら、廊下をゆっくりと歩いていく。

 何も変わっていないこの家は、よくも悪くも、時が止まっているようだった。

 使用人たちが導いていく方向は、明らかに父の執務室に向かう通路で。再びの嫌な予感を抱えながら辿り着いた場所は、予想通りの場所の前。ドアをノックし、川原が「ゆかりお嬢さまをお連れ致しました」と声をかけている。

「入れろ」

 途端、父の低い声が飛んできた。彼が怒りの炎も燃やしながらも、それを押し殺しているときのもの。それが分かった瞬間にますます入りたくなくなったけれど、父に忠実なこの二人が許すはずもない。

「お嬢さま。どうぞ」

 川原が言い、宮野もじっと私を促すように見ている。

 ひとつ深呼吸をしてから、「ゆかりです。入ります」と言いながら一気に扉を開け放った。

 目に入ってきた日光が、彼の姿を隠す。思わず目を細めると同時に、一礼した。

「…………お久しぶりです」

 自分から逃げ出しておいてこんな台詞、厚かましすぎると分かっていた。でもそれしか言えなかった。謝りたくはなかったから。

 私が取ったのは、決して正しい方法ではなかったと重々承知していた。

 でも、こうでもしなきゃ、私の想いをあなたは本気だと受け止めてはくれなかったでしょう? 私が人形のままだって疑いもしなかったでしょう?

 パァンといつか聞いたような音が響いて、頬がじんじんと疼き出す。殴られたのは二度目だったけれど、強さはあの時以上で、強烈な血の味がした。

「……ッ」

 痛みから漏れ出そうになった声をどうにか噛み殺す。喚きたくもなかった。弱音を吐きたくもなかった。この人の前でもう二度と、惑いたくなんてなかった。

「よくも私の顔に泥を塗ってくれたな」

 怒りのためか微かに震えた声。10ヵ月経っても、この人の中であの日のことは全く薄れていなかったらしい。

「グループ内だけではない、村田傘下中のいい笑い者だ!!」

 きつく唇を噛む。揺らぎそうになったけれど、ふたつの言葉を頭の中に思い浮かべて懸命にこらえた。

 ――キミは、どうしたいの?

 ――どんな道を選ぶとしても、どうか貴女様の意志で勝ち取ってください。

 頬を押さえたまま、俯けていた顔を上げる。今までにないくらい強い視線で父をねめつけながら。

「……何だ、その目は」

 彼の額に薄く青筋が浮かぶ。

 怖かった。今すぐ「ごめんなさい」と謝って、逃げ出してしまいたかった。

 でも、そうしてはいけない。

 それは自分の考えを曲げること。戦いもせず負けを示すこと。そんな自分、もう絶対に嫌だと思った。

 私は変わった。これからも、更に変わることができるのだから。

「お父さまの根回しを総て無にしたこと――それは、申し訳なく思っています。でも」

 独りでに回れ右してしまいそうな足を必死で地面に縫い付けて、父を見つめる。

「……お父さまが何とおっしゃろうと。私は、あの時の私を、後悔などしません」

 自分で考えて、自分の意志で、初めて選んだ道だから。

 ひくひくと父の頬が引きつった。

「何を生意気なことを……」

 彼がもう一度手を振り上げたのが見えたが、あえて逃げようとはしなかった。

 別に自暴自棄になっていたわけではない。殴りたいのならば殴ればいいと思った。どんな暴力で抑え込もうとされても、私は屈するつもりがないのだから。

 ただ、反射的にお腹だけは両腕で覆っていた。

 すると、それを見たためなのかどうかは定かではないが、彼は振り下ろしかけていた手をぴたりと止め、軽く舌打ちした。

「……子供ができたようだな」

 声は相変わらず低いままだったが、感情的ではなくなっている。

「……はい」

 お腹はしっかりと覆ったままで返した。

 今、私の身に何かがあったら、この子にまで被害が及ぶ。絶対に避けなければならない事態だ。

 まだきちんと確かめたわけではないのに、なぜか私は確信していた。和馬との子がここにいると。

「産めると思うなよ」

 冷たく言い放たれた一言は予想の範囲内だったから、全く驚かない。ただ強い目で返す。

 でも、父はもう視線を交わしてくれようともしていなかった。

「明日、別荘に行け。その近くの医者に根回しをしてある。言っている意味は分かるな?」

「嫌です」

 この子は奪わせない、誰にも。

「川原! 宮野! こいつを部屋に閉じ込めておけ!」

 私の言葉を耳に入れようとしない父が部屋の外で待機しているのだろう使用人たちの名前を呼ぶと、間もなく「失礼します」と一礼しながら入ってくる二人。時間がない。

「お父さま!」

「一言も発するな!! お前の戯言など私はもう聞きたくもない!!」

 鋭い返しに言うべきことを見失った。

 戯言なの? 自分の子供を奪われそうになっている人間が、奪おうとしている張本人に対して思いの丈をぶつけようというのは、戯言だというの?

 あなたは、たとえば私が誰かに奪われそうになっていても、そう言うの?

「お嬢さま、こちらへ」

 後ろから声がかかっているのは分かっていても、応じられない。

 泣きたくもないのに雫が伝う。

「たとえあなたが望んだ相手との子供ではなくとも! この子は紛れもなく私の血を継いだ子です……つまりあなたの血も流れています! その子を殺せと言うんですか!? あなたはそうおっしゃるというんですか!!」

 羽交い絞めにするかのように、二人の使用人が私の腕の片方ずつを押さえている。だけどそんなことで私を止められると思ったら大間違いだ。

 何としてでもこの子を護りたい。その気持ちは誰にどんな言葉を紡がれようとも、浴びせられようとも、変えられるものではなかった。


「私の認めない血が混じった時点で、私の血縁ではない。異形の子だ」


 願ったのに。期待していたのに。ほんの少しでもいいから、理解を示してくれると。

 そんな感情こそ、初めから間違いだったのだとあなたは嗤うの?

「……この子が異形というのなら! あなたも私も異形です! 自分自身を異形ではないと思い込んでいるあなたこそが異形です!! その子供である私も異形でしょう!! 異形が異形を産んで何の問題があるとおっしゃるのですか!?」

 父の部屋から半ば引きずり出される。彼が私をその目に映すことはもう、きっとない。それでも言葉はあふれ出る。無情にドアは閉められても、私の心に蓋はできない。

「馬鹿みたい……」

 吐き捨ててからドアを睨みつけると、私を幼い頃から知っている川原は大きく目を見開いた。私がこんな顔をするなんて、こんな言葉を吐き出すことができるなんて、彼はきっと思ってもみなかったに違いない。

 自分自身、ここにいた頃との自分のギャップに驚いている。

 人は変化したらもう同じ人物ではない。こぼれた水は、二度と元には戻せない。

「お母さまが今のお父さまを見たら、きっと嘆きます! どうしてそんなふうになってしまわれたのですかと……!!」

 戻せない、けれど。

 もう一度変わることはできるのに。自分が変えようと思えば、いくらでも。

 それすらこの人は分からなくなってしまったのか。

 お願い。お願いだから、もう一度だけでいいの。

「私はお父さまの笑顔が見たい……」

 母がいた頃のように笑ってほしい。どんなに不器用なものだっていいから。それ以上望んだりしないから。

「この子は、お母さまの血も引いているんですよ……?」

 あなたが愛した人を受け継いで生まれてくるのに。

 いくら待っても、返事は、なかった。

「……お嬢さま」

 川原が呼びかけながら首を振り、促してきた。

 私にも分かっている。

 無理なのだ。変わろうとしていないあの人に、何を言ったところで意味がないのだ。届くことは、永劫ないのだ。

 分かっていても、辛くて、悲しくて、苦しい。

 子供のようにぼろぼろと泣く私を導いていく川原と宮野。

 気づいたら、お見合いの直前と全く変わらない様子をした自分の部屋に押し込まれていた。

 外から鍵をかけられた音がする。明日まで私はここに閉じ込められるのだろう。

 ふらふらとベッドに向かい、倒れ込む。

 お腹にそっと手をやった。

 変わるわけもないと思っていたけれど、やはり一切の変化がなかった父。彼の中の常識はもう凝り固まり、私の言葉なんて届かなかった。

 しかし、彼の常識はもう私の常識ではないから、受け入れられない。どんなに権力で挫こうとされても。

 ――『常識』って言葉は、いつだってあやふやで、不確かだよね。

 いつだかの和馬の台詞を思い出す。

 私がお見合いから逃げ出して少し経った頃、夏の盛りだった気がする。

 あの日、私たちは和馬の大好きだという少し遠方の水辺にいて、彼はとても楽しそうに絵を描いていた。

 それを見ながら、私は無意識に呟いたのだ。

 ――私は和馬の絵をとても綺麗だと思って見るけれど、きっとお父さまにとっては違うのよね。

 唐突な台詞に和馬は目を瞬かせて、私自身も慌てた。

 おろおろして話せないでいる私を見て笑いつつ、彼は作業を中断して、スケッチブックに「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないね」と書いた。

 ――お父さんの常識がゆかりの常識ではなくなったからね。

 今度は私が目を瞬かせた。

 彼は「だってそうだろう?」と言っているかのような表情をしていて。

 ――もうとっくに、お父さんが言っていたことの総てが、ゆかりにとっての『当たり前』ってわけではなくなっている。違うかな?

 かぶりを振ると、いい子だね、と言うみたいに頭を撫でてくれる和馬。

 ――同じように、お父さんの『当たり前』は、ゆかりの『当たり前』では測れない。『常識』って言葉は、いつだってあやふやで、不確かだよね。

 多くの人が信じている『常識』なんて、『大多数の人間の共通意見である』だけ。本当にそれが正しいものかは分からないのだ。

 父の周りの人間は、父のような考えを正しいと言っていて、それを否定する人はいなかった。だから彼はその考えを信じ続けている。

 私の周りの人間は、父のような考え方ではないものを正しいと言っている。彼の考えを否定してくれる人がいたから、私はそれを信じるのをやめた。

 たったそれだけの違いだけど、最初は小さな差だったかもしれないけれど。両者の距離が大きいほど、だんだんと大きな齟齬を生む。修正不可能なほどに。

 ――どちらが真実に正しいのかは、多分誰にも分からないよ。だって相手にとっては正しいものが、自分にとっては誤りなんだ。お互いに。

 和馬の言葉はきっと正しい。

 だからこそ、横暴だね、と言葉が飛び出た私。

 その時々によって移り変わり、誤りが正しいとされてしまうなんて、『常識』なんて必要ないじゃないか、と。

 でもいつだって、和馬の考えは私の予想の斜め上。

 ――そうかもしれないね。そう思うのなら、信じ通せばいいんだよ。自分の信じる常識を。正常を。

 ――その常識がもし、間違ってたら?

 声の震えを抑えられない。今すぐ彼を揺さぶって答えを得たい。

 ――その時は見直せばいい。言っただろう? 常識なんていつだって曖昧で、不確かだ、って。ゆかり自身、体験したはずだよ? 考えが全く正反対になるような状況を。

 不思議な微笑みは、いつだって私を惹きつける。

 ――だからそうなったならば、それまでの間違っていた自分に「さようなら」を告げて、その後は……


「新しい自分に、『こんにちは』を告げればいい」


 ベッドに顔を埋めつつ吐き出した。

 ああ、こんなことを思い出すからだ、和馬に会いたい。あの優しい笑顔で包んでほしい。

「和馬……」

 呼びながら、お腹に添えた手を撫でるように動かした。

 ここに、私じゃない、もう一人の人間がいる。

「馬鹿なお母さんでごめんね……」

 聞こえているのかは分からないけれど、言わずにはいられなかった。

 でも、護るから。絶対にあなたを殺させはしない。

「優しいお父さんに、会おうね」

 この部屋は2階。私が自分だけの身だったら窓からの脱出を考えてもいいが、そういうわけにもいかない。

 そしてこの広大な庭だ。私の運動神経じゃ門までたどり着く前に捕まりそうだし、よしんばたどり着けても、セキュリティのせいで門を開けられない気がする。

 だったら、チャンスは一度。別荘に向かうためにこの家を出た後しかない。どうにかして車から抜け出し、和馬の元へ戻らなくちゃ。

 そのためにも体力を保たなければ――思いながら目を閉じたら、疲れていたのだろうか、すぐに眠りに引き込まれた。

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