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「さようなら」の後は、  作者: 汐月 羽琉
第五章 静閑
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壊してしまった

 開いた窓から爽やかな風が吹き込んで、部屋の中に溜まった絵の具の匂いを押し出していく。

 見事な花を咲かせた桜の木々が瑞々しい新たな葉を吹いてから、いくらか経った。それでもまだ夏と言えるような陽気ではなく、日向にいると心地よくて眠たくなってしまうような毎日。

 上條邸以外で初めて迎える春だ。

『ゆかり、あの筆持ってきて』

「了解っ」

 ひさといずの庇護の下、和馬の家に住まわせてもらうようになってから、毎日はあっという間に過ぎた。

 上條の生活はとても単調だったけれど、ここでの日々は総てが目まぐるしく、真新しくて。彼に出会った時は19になったばかりだった私も、もうすぐ二十歳になろうとしていた。

 和馬が絵を描くときにこまごまとした手伝いをしたり、陶芸を再開して、先生方に作品を見てもらったりして過ごしている。

 上條のことが気がかりじゃなくなったわけではない。でも、直後のような悶々とした思いは割とすっきりし始めている。一度離れて、じっくりと考えてみることも必要だと結論づけられたから。

 父も私も、あまりに近くにいたせいで見えなかったものがある。

 最初の頃のような日常生活での戸惑いもだいぶ減った。

 使用人がいないこと。そのためにあらゆることを自分でこなさなければならないこと。そんな当たり前な、初歩の初歩のことに慣れるまでにかなりかかった私に、3人ともよく根気強く付き合ってくれた。私が逆の立場だったら明らかに匙を投げるレベルだったと思うし。

 今は1円の価値がどれだけ重いか、身に染みて分かるようになった。先生方にももちろん和馬にも、感謝してもしきれない。

『ありがとう、ゆかり』

 指定されたものを持っていくと、自分の手が汚れていないか確認してから、頭をなでなでとしてくれる。

「うんっ」

 そういう細やかな気遣いが好きだ。

 嬉しくなってにこにこと笑うと、彼もつられたように笑ってから作業に戻っていく。私は窓の傍に座って、ぼんやりと彼の後ろ姿を眺める。少し力の入った背中が、真剣さを物語っていて――これが今の私の日常で。こうしている時間が私は大好きだった。

 もうひとつの進歩といえば、日常会話程度の手話はだいぶこなせるようになってきたことがある。会話も筆談が減った分、スムーズにできるようになったと思う。

 長い会話となると厳しいので、それは未だに筆談だが、努力は着実に実っているはずだ。今日も和馬の絵が一段落したら教えてもらうつもりだし、こういうのは積み重ねが大事だと、日本語英語を始めとして6ヵ国語が堪能ないずは言っていた。

 こてん、と定位置の椅子の傍にある壁に頭を倒す。

 和馬は相変わらず集中して描いている。そういう姿を見つめるのが大好きなはずなのに、今日はどこか心細く感じて仕方がなかった。

 何だか熱っぽいからかなあ、と思いつつも、和馬の姿をまだ見ていたくて、視線は逸らさない。

 だが、しばらくしてカンバスに向かっていたはずの彼が振り返ったので、かなり驚いた。3センチぐらい椅子から跳び上がったのではないか。いつの間にかぼんやりしたような状態で見つめていたらしい。

『ゆかり?』

 こちらを見つめてくる彼は心配そうな顔をしている。

「なあに?」

 首を傾げると、絵筆を置いてこちらに近寄ってきた。

『具合悪そうだけど、大丈夫?』

 手のひらが私の額を覆った直後、和馬がはますます心配そうな表情をする。

『ちょっとだけど、熱いよ? ここ最近食欲もないみたいだし……風邪? 寝てた方がいいんじゃないかな』

 私がこの家に来て以来は欠かさず持ち歩くようになったらしい小さなホワイトボードが、あっという間に字でいっぱいになる。

 消す暇を惜しんでいるということは、つまりそれだけ彼が私を心配してくれているということでもあり。

「……うん。分かった、横になってくるね」

 立ち上がったら和馬までついてこようとしたので、大丈夫だと断った。

「そこまで酷くないよ。ちゃんと寝るから」

 それでもまだ何か言いたそうな和馬に笑って手を振り、アトリエを出た。

 私には、滅多なことではお医者さまにかかれない理由があるのだ。

 上條グループは医療機器や薬など、医療関係のものを取り扱っている。附属病院も持っているほどであり、全国の医療機関とも繋がりが深い。

 父の権力が何処まで及んでいるのか、実務にほとんど関わっていなかった私には分からないが、かなりの範囲と考えておいた方がいいだろう。

 迂闊に病院へ出向くことができない。行った病院がもし、父の手の中だったら? 一瞬でもそう考えてしまうと、無理だった。

 だけどきっと、いつかは行かなければいけないのだろうが。それも、そう遠くはないうちに。

 ベッドに潜り込みながら、自分が今感じている状況を頭の中でさらってみる。

 微熱、体のだるさ、食欲不振。これだけ聞くと、確かに風邪の初期症状とも似ているけれど――ふと頭の中を掠めたものを振り払った。

 きっと風邪だから、寝れば治る。そう信じて私は目を閉じる。

 いつまでも逃げているわけにはいかないと分かっているのに、このあたたかな日々を手放したくない。まだ、私は臆せず父の前にもう一度出られるだけの勇気がなかった。

 目を閉じ、夢の世界に逃げ込もうと試みる。無駄だ、と頭の隅では分かっているくせに。

 もうすぐ誕生日が来るけれど、それまではまだ19の私は、保護者の許可なしに和馬と結婚はできない。それの意味するところは、今捕まればまだ父の支配からは逃れられない可能性があるということ。

 ――ゆかり。

 父の声が耳に響く。

 どこまでも追いかけてくる父の幻影を、闇に沈むことで懸命に掻き消した。



   ● ● ●



「じゃあ行ってくるわね、ゆかりちゃん」

「はい、行ってらっしゃい。気をつけて」

 由子先生に笑顔で手を振る。それから、気がかりな様相でこちらをちらちらと見る和馬に、「大丈夫だよ」と言いながらくすくす笑った。

「ただの風邪だよ。寝てれば治るから」

 今日、和馬は個展の用意をして、それから雑誌のインタビューに答えるというスケジュールのようだった。

 どんなに小さな出版社のものだとしても、公に発表される写真には絶対に写れない。だから彼らについては行けない。

 私は隠れている身分である、という、病院に行けないのと同じ理由。もしもそこから情報が漏れ出ることなどあったら問題なのだ。

 どっちにしても、今日は具合がよくないことだし。

 由子先生が残ってくれるとも言ったけれど、人手がいくらあっても足りないことはよく分かっているから、そんな我儘は言いたくなかった。そういうわけで、今日は一人で留守番である。

『夕方には戻るからね』

 和馬の言葉に笑顔で頷いて、もう一度手を振った。彼は相変わらず名残惜しそうにしていたが、先生に連れられて去っていき、車に乗り込んでいく。

 見えなくなるまで見送ったけれど、彼らがいなくなった途端に家はしんと静まり返って、一人だということをいやに感じさせる。

 今日は孝太先生も出張陶芸教室でいない。私は、この家で完全に一人。

「……よし」

 行かなきゃ、と、服を外出着に着替えて鞄を持つ。

 先生方にも心配をかけたくなかったし、確信もないこの状況で、和馬に相談もしにくかった。

 薄々感づいてはいたこと。


 多分、私のお腹には、子供がいる。もちろん、和馬との間の。


 心当たりはいくつもあった。ただ認めるのが怖かっただけ。

 嬉しい気持ちはあるけれど、今のこの状態だと不安の方が大きい。

 ぎゅっと唇を噛む。

 ――私が、強くならなくちゃ。

 しっかりと家に鍵をかけてバス停までゆっくりと歩き、バスに乗り込んだ。そういえば和馬に連れられて何回か挑戦して、ようやくスムーズに乗れるようになったんだったな、とか考えたら少しだけ笑えて、緊張が僅かにほぐれる。

 ネット検索をして近場で一番評判のよかった産婦人科のある医院に向かおうと思いながらも、心は揺れていた。

 病院にかかるのはやめて、このまま帰ってしまおう。

 そう思うけれど、本当に子供がいるのかどうかを確かめなければ、という気持ちもある。

 それにしたって今日のところは検査薬で済ませておけばいいのでは、とか、ぐるぐる考えているうちに目的のバス停に着いてしまった。

 降りると、すぐそこに自分の目指してきた医院が見え、徐々に近づいていく。

 目の前に立って看板を見上げた。

 入っていくお母さんと、出ていくお母さん。幸せそうな様子に目を細める。

 あたたかい雰囲気に満ち溢れた病院。だけどもし、ここが父の権力の及ぶ範囲内だったら? 考えて足が竦んでしまう。

 病院に入りもせずに長い間ぽつねんと立っている私を、幾人ものお母さんたちが怪訝そうに見ていく。

 それでも動けず、しばらくそこでじっと考えて、結局回れ右をした。

 今日は薬局に寄るだけにしよう。検査薬で私が思っている結果が出てから、和馬や先生方に相談しよう。

 そうだ、何を思い詰めていたのだ。最初からそうしておけばよかったのに。

 もう一度バス停に向かうために歩き始めた、その時だった。


 立ちはだかるようにして、私の目の前にふたつの人影が現れた。


 え、と思い、私よりも随分と高い位置にある顔を見上げる。

「――な、」

 その顔には、嫌というくらい見覚えがあった。

「ゆかりお嬢様。旦那さまのご命令でお迎えに上がりました」

 低い声で年配の方の男が言い、若い方はただ無表情にこちらを見下ろしてくる。

「川原……宮野……」

 お見合いの日にも私を捕まえようとした、お父さま付きの使用人たちだった。

「さあ。逆らうことはございませんよう、お嬢様」

 川原によって差し伸べられる手。片や、宮野は私の肩を掴んでいる。これでは逃げようがなかった。

「……逃げないわ。だから離して」

 諦めて、ひとつ、ため息をつく。

 ああもう、本当に私は馬鹿だ。

 ごめんなさい、和馬。

 ごめんなさい、孝太先生、由子先生。

 ごめんね、私を助けてくれた幼なじみたち、皆。

 私はまたどうしようもないことをしてしまった。

「素直にお聞き入れくださるようでよかったです。ではこちらへ」

 見慣れた黒塗りの車ではないが、父がたまに利用している車が停まった。目立たないように、という配慮に違いなくて。もしかするとここ最近はずっとこの辺りに狙いを定めて見回っていたのかもしれない。

 本当に逃がさない気なのだ。執念は凄まじい。

 使用人たちに連れられるまま、私は車に乗り込んだ。

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