優しい瞳が
軽く肩を叩かれた感覚がして、ゆっくりと振り返った。
『眠くないの?』
相手はやっぱり和馬で、お風呂に入って寝間着に着替えている。明かりもつけずにいたからか、彼はちょっと驚いたような顔だ。
「うん。っていうか……星が綺麗で」
和馬の部屋には大きな出窓があって、その床板部分に腰かけて星を見るのが私は大好きだった。
今日はちょうど綺麗に夏の大三角形が瞬いているし、月明かりも綺麗。電気をつけるのが少し勿体ないような気がしたのである。
『もう遅いし、そろそろ寝た方がいいよ』
「うん……でも、和馬もちょっとそこうしてみない? 月も星もとっても綺麗なんだよ」
何となくまだ寝がたくて、彼の腕を引く。和馬は優しく微笑んで私の向かいに腰かけた。
『本当だ。綺麗だね』
ホワイトボードの文字にこくこくと頷いて、また木々の隙間から覗く空を眺める。
『ゆかりは、空が好き?』
「うん。好きだよ。上條の家でも、何か嫌なことがあるたびにこうやって見てた」
雲が流れていく様を呆けたように眺めていれば、嫌なことなんていつの間にか忘れられる気がした。実際、蓋をできた。そうして誤魔化してきたのかもしれないけれど、助けてもらったのは事実だ。
「和馬もよく描いてるよね。空、好き?」
星が不思議に煌めくその様子を眺めたまま訊くと、視界の端で和馬が頷くのが見えた。
『いつだって同じ表情をしていないからね』
続いて書かれた言葉は、私が空を好きな理由と同じで。嬉しくて笑顔がこぼれた。
『ねえ、ゆかり』
だが、すぐ下にそう書き足されて首を傾げる。
「なあに?」
『上條の家に帰りたいって思うときは、ある?』
驚き、何を言っているのかと思って彼の顔をまじまじと見るが、彼の目は真剣そのもの。戸惑って自然と瞳が揺れてしまう。
「か、ずま、帰ってほしいって――」
『そうじゃない。そうじゃないよ』
勢いよく首が振られ、慌てたような文字が彼の狼狽を表しているかのようだ。
「じゃあどうしてそんなこと訊くの?」
困惑しているからか、問い質すような口調になってしまう。自覚していても止められないぐらいには、心が掻き乱されていた。
『驚かせたならごめんね。そうじゃないんだ、少し心配になったんだよ。時折すごく、寂しそうな顔をしてるから』
消す暇も惜しいと言わんばかりの、彼にしては珍しいぐらい歪んだ文字。こういうときの和馬は、絶対に嘘をつかない。
私が勝手に早とちりしたということで、顔が真っ赤に染まった。
しかも、彼を不安にさせていたのは私だというのに。
「そっか……私、そんな顔してたんだ」
この1ヵ月半、父の姿をたまにテレビニュースの中で見かけることがあった。私の失踪直後は、パパラッチのようなものに追われているところ。そしてその騒ぎが収まってからは、経済の重鎮たる上條代表として。
和馬は何とも言い難い表情で首肯する。私は苦笑いした。
「駄目だね、私……もう振り切ったはずなのに、追いかけられてる。忘れられない……」
和馬に抱きしめられたり、口づけを交わし合ったり、胸があたたかくなってとても幸せになる。でもすぐに一点の闇が生まれる。
――自分だけ幸せになっていいと思ってるの?
いつもの、『もう一人の自分』だ。
昔から、何かをしようとするたびに、冷徹な自分の声が頭の中で響いた。そんなことができると思っているのか。私にはそんな大それたこと、やってのけられるはずがない。
そう。『もう一人』なんてたいそうな呼び名、本当は相応しくなくて、ただの本音なのだ。私の中で押し込められ、蓋をして誤魔化してきたものが顔を出しているだけなのだ。
「こんなになってもまだ、私は諦められてない。お父さまに、愛して、ほしい……」
逃げたくせに。父を捨て、和馬を選んだのに。何を言っているのだろうと自分でも思う。
それに、置いてきた使用人たちのことも気がかりで。護ると前上に宣言しておいて、私は彼らのことを省みることなく逃げた。それを裁かれる日がいつか来ることは予想できている。むしろ、裁かれるべきだと思っている。
私は結局、どっちつかずだ。
和馬に一生を懸ける覚悟も、上條から決別する覚悟も、何ひとつできていない。
多分、私が未成年でまだ親の同意なしに結婚できないことも関係していると思う。まさに今の状態がどっちつかずだから。上條に戻ることも、和馬の元に居続けることも選べる。
レールの上を進むことにあれほど抵抗感を抱いていたというのに、いざ完全なる自由を得てみたら怖くて仕方がない。
自分だけで道を選ぶということは、これほど覚悟が問われ、責任を伴うことだったのか。
「だけど和馬のことも大好きで、ここから離れたくない……一生見つかりたくないって思ってるのも、嘘なんかじゃないんだよ?」
彼の手をぎゅっと握って、すがるように見上げる。
私がどれだけ情けなくても、和馬を想う気持ちが嘘だなんて思わないでほしい。私があの日和馬を選んだのは、決して一時の迷いなどではないのだ。
この人の元に行きたい。そう強く願ったから、こうしてここにいる。父や使用人のことを思い描きながらも、上條の家に戻ることを選んでいない時点で、私は和馬の傍にいたいのだ。
父よりも『上條』で在ることよりも和馬と生きることを選んだのは、真実なのだ。
「でも私が優柔不断だから、不安にさせちゃってるんだよね。ごめんね」
どうしたらこういう部分を変えていけるのだろう。考えても、いい結論は浮かんでこない。
『違う。違うんだよ、ゆかり。おれが情けないだけで……本当はもっと、ゆかりを安心させてあげたいのに、ゆかりの寂しさを埋めてあげられない自分がもどかしいだけで。お父さんのことで開いた穴は、お父さんしか塞げないって分かってるのに……』
小さなホワイトボードを埋め尽くしてしまうほどの文字。
いつも穏やかな顔しか見せない彼の表情が、悔しげに歪んでいた。
「そんなこと、言わないで」
抱きついて何度も何度も首を振る。
和馬にそういう顔をさせていることが悲しかった。
「私、上條にいた頃から、和馬の笑顔に何度も何度も助けられて、勇気をもらってきたんだよ?」
お見合いのところまで来てくれて、私を抱き上げて走ってくれたあの腕の力を、私はずっと大切に思っているのに。
「あの時、和馬の手を取ることを選んでなかったら。私はきっと今頃、今感じている以上の後悔をしてたと思う」
嘘偽りのない、真実。選べなかった方のことを思って目を伏せ、思い悩むことができるのは、それだけ今が幸せだから。
「和馬、大好き」
はにかむと、和馬は大きく目を見開いて――そして、きつくきつく抱きしめてくる。
「苦しいよ、和馬」
ちょっと困った顔を作って首を捻るも、頷くだけで彼はその手を解こうとはしない。私も諦め、ぎゅっと力を返す。
月明かりと星だけが私たちを見ている。
頬に唇が触れた後、右手の人差し指と親指を顎に当ててから斜め前に出し、その指を閉じてみせる。
「ありがと……」
それは「好き」の手話。嬉しくて微笑むと、今度は唇同士が重なった。
だがそれはいつもみたいに優しく触れるだけのものとは違って、もっと深いもの。
私は目をきつく閉じた。耳まで赤くなっていく気がする。
少しして離れた和馬は、私をじっと見つめていた。
拒絶するなら今だ、と分かっている。でも、月明かりに包まれた彼を見ると、不思議とそういう気は全く起きなかった。
ただ、自分から何かを言う気にはなれなくて、ただ俯く。頭がくらくらするところからして、多分顔は茹でダコのようになっているはず。自分では確認できないけど、分かる。
しかし、そんな顔を普段通りにあたたかい手が頬を挟むようにして上向かせ、その張本人である和馬は柔らかく笑んだ。そうして固まっている私の体をほぐすように頬へとキスを落としてくれる。
私がそれに思わず体を弛緩させたのを確かめてから、彼はいつかのようにお姫さまを抱えるみたく私を抱え上げ、すぐ傍にあったベッドまで運んだ。
覆いかぶさった和馬の唇が、ゆっくりと動く。
――大好きだよ、ゆかり。
「大好きだよ、和馬……」
反射的に私もそう返していた。
すると、彼は私の頭を愛おしそうに撫でてくれる。もう一度口づけが降ってきたのを合図に、私はそっと目を閉じた。




