「おかえり」と「ただいま」
頬を伝う雫の量が、徐々に減っていく。
『落ち着いた?』
見せられたスケッチブックの文字を見て、こくんと頷いた。
彼の指が私の目の端をなぞる。その手はまるで魔法のように、どうしても自分の力では止めることができなかった涙を止めてくれた。
『外に出ようか』
笑顔のままで和馬さんは私を導いていく。森の更に奥へと。
着ていた振袖の袂がふわりと揺れ、木々のざわめきは私を包み込む。
ずっと求めていた空気に触れられて、ほっとした。
ひんやりした風が私に触れて、冷静に返してくれる。それと共に、再び鎌首をもたげてくる疑問。
――彼はどうして私を助けてくれたのだろう。
私は左手で抱えた封筒に視線を遣った。
差し出された時はこれが答えだと思ったけれど、中身は幼なじみたちからの手紙だった。結局、『答え』ではなかった。いったい彼はなぜ、私を救おうと思ったのか。
ふと、和馬さんは振り返る。まるでそれとタイミングを合わせたかのように風が吹き上げ、いつも通りに柔らかく微笑む彼の服をはためかせた。
訊いてもいいのかな。少しくらい、自惚れてもいいのかな。彼が私のことを、多少なりとも大事に思ってくれているんだ、って。
「……和馬さん」
意を決して彼を呼ぶと、首を傾げながらも優しい笑みでこちらを見てくれる。
「どうして、私のこと、助けてくれたんですか……?」
声が、震える。
答えを聞くのが怖いのかもしない。
勘違いだったらどうしよう。私に対してなど何の感情もなくて、ただ私の幼なじみに頼まれたから優しい彼は断ることもできず、仕方なく付き合ったのかもしれない。
「いずやひさに頼まれたから、仕方なく、ですか……?」
私の問いを聞いた彼は、少し目を見張ってから、優しく笑った。
どういった感情から来る笑みか分からなくて戸惑うけれど、その表情にさえ胸が弾む。
ああ、私はこんなにもこの人が好きなんだ。
『どうしてだと思う?』
差し出されたスケッチブックの文字は、どこか楽しんでいるよう。それが分からないから訊いているのに、と唇を尖らせかけると、すぐに次の文章が表れた。
『ひとつだけ言っておくと、同情だとか仕方なくだとかが理由じゃないよ。そんなものでは動いてない』
あ、と思う間もなく、頭の中で何かが弾ける。悲しみからではなく、嬉しさで。
また涙の堰が決壊して、そのせいで喉が詰まり、声を忘れそうになる。どうにかこらえるために顔を俯けて、手のひらに埋めた。
和馬さんはそんな私の様子を見て心配したのか、優しく頭をぽんぽんとしてくれている。
これじゃまた言い逃してしまう。ちゃんと言わないと駄目なのに。
抱えているこの気持ちを彼に言わなきゃ、どうしてお見合いから逃げ出してきたのか分からなくなってしまうじゃないか。
「和馬さん、私っ――」
言わなきゃ、伝えなきゃ。勢いよく顔を上げたその途端、目に飛び込んできたスケッチブック。
記されていた文字は、たった4つだけ。
『好 き だ よ』
単純な一文のはずなのに。幼い子でも理解できるぐらい簡単で単純な言葉なのに。混乱している私の頭では、理解するのにはしばらくの時間を要した。
ひとつひとつが力強い四文字の記されたスケッチブックを掲げながら、和馬さんは照れたように笑っている。
それを見たらもう、こらえるなんて無理だった。
「う、わあああぁぁーん!!」
幼い子供のように声をあげて泣き出す。ぼろぼろぼろぼろ、大粒の雫が休まることなく次々と頬を伝っていく。
彼はそんな私に大慌てして、おろおろしながら背中をさすってくれた。
応えなくちゃと思えば思うほど、彼の言ってくれたことの大きさが染み入って、ますます泣けてきてしまう。
――どんな道を選ぶとしても、どうか貴女様の意志で勝ち取ってください。
チカの言葉が思い出される。
彼の傍にいたいという私の意志、貫いてもいいのかな。この道を選んでもいいのかな?
父の命令通りに婚約して結婚し、子供を儲けてのんびりと過ごす。その方がずっと楽だったことは知っている。私自身もつい最近まで、それ以外の道を選ぶなんてことを考えたこともなかった。
私の選ぼうとしているものは、きっと茨の道。分かっている。
だって彼を選ぶことを父が許すはずもなく、血眼になって追いかけ、引き裂こうとするのは目に見えているから。
それでも一緒にいたい。
私が大事にしてきた総てのものを引き替えにしてでも、彼と一緒の時間を過ごしたい。
上條を選んで生きても、彼を選んで生きても、私はきっと後悔を抱えながら毎日を進むのだろう。
だけど。
――何かを得たことを引き替えにする後悔と、何もかもを失ったせいでする後悔、あんたはどっちがいいんだ?
同じように後悔をするのだったら、私を望んでくれる人と一緒に笑い合って、老いて、そして死にたい。
「……ッす、き……!!」
泣き声の合間にようやく絞り出すと、聞き取れなかったのか驚いたのか、背中をさすってくれていた手が止まる。
「好き! 私も和馬さんが、好き……っ!! 大好き!!」
涙を拭いて彼を見上げ、叫ぶように。私がずっと抱えていた想いを伝えた。
「お父さまにどれだけ反対されても関係ない……すきなの!」
半ばやけくそになって叫ぶ。
どうせ後戻りできないのだから、進みたい。
好きだ。好きだ。
好きでたまらないのだ。
和馬さんはしばらく放心したように固まって、あんまりにも動かないから私が心配になった頃、ようやく酷く嬉しそうに微笑んだ。そして、両手を大きく広げてみせる。
『おいで』
何も言われていないのに、そして彼が何も言えるはずがないのに、耳に直接そんな声が響いた気がした。
吸い寄せられるように歩き出し、気づいたら駆けていた。
大きな腕の中に飛び込むと、きつく抱き寄せられる。痛いくらいに。
でもその痛みは、彼がここにいることの証明で。私が彼の傍にいられていることの証明で。
「和馬さん、すき……!」
彼は頷く。
「もし誰かにお父さまとの約束を破ったことを責められたとしても、それでも……すき……!」
和馬さんはやっぱり頷く。
そして、「もういいよ」と言うように頭を撫でてくれてから、右手の親指と人差し指を開いて顎に当て、斜め前に出しながら指先を合わせる。
この手話の意味は、指し示すところは。
「『すき』……?」
そうだよ、という微笑みが向けられる。更には私がもう何も言えないようにか、またも力いっぱい抱きしめられた――と思ったら、間もなく唇には柔らかな感触。
口づけだと気づいて思わず口元を覆ったが、はにかんだようにしている彼の姿を見てしまうと、照れ臭さなんて吹っ飛んでしまう。
今度は私から抱きしめると、彼も力を込め直して、私ももっと力を込めて。無言のまましばらくそうやって抱き合う。
言葉なんて要らなかった。これだけで充分に気持ちが伝わってきたし、和馬さんもそうだと信じたい。
かなり経ってから離れて見つめ合い、どちらからともなく恥ずかしさから吹き出した。
そのまま笑い合っていると、どこかから「ゆかりさん!」という呼び声が聞こえて、顔を上げる。
こちらに走り寄ってくるふたつの人影は、やっぱり懐かしい人。
「孝太先生……由子先生……!」
和馬さんに会えていない時間は、等しく先生たちに会えていない時間でもあった。
「よかった……! よかった、元気で。もう一度会えてよかった」
息を弾ませた由子先生に抱き寄せられた。その手が小刻みに震えていることからも、彼女がどれほど心配してくれていたのかは明らかで。胸が痛んで、力を返す。
「ごめんなさい……ご心配おかけしました」
彼女はそれを聞いて首を振り、かつて母がそうしてくれたように、髪を梳いてくれた。
「あなたが無事なら、元気なら……それでいいのよ」
優しい目に見つめられて鼻の奥がつーんとしたけれど、懸命に泣くのはこらえた。そもそも、散々に泣き腫らしたせいで、もはや一滴も出ないような気がしたけれど。
孝太先生に視線を移せば、彼もほっとしたように笑んでいる。大丈夫だよ、と言うように頷いて見せてくれた。
「私……ここにいても、いいんでしょうか……」
由子先生に抱きしめられたまま小さく呟くと、3人が3人とも同じように目を丸くして、少しだけ怒った顔をする。
『いいのかな、じゃないよ。いてほしいんだよ。父さんも母さんも、おれも』
彼の大きく書かれた文字が見えて、心底安心する。こんなに泣き虫じゃなかったはずなのに、もう出ないと思っていたはずの涙が再び溢れてきた。
本当に泣いてばかり。まるで今まで泣かなかった分をここで一気に消費したかのようだ。
「おかえり。和馬も、ゆかりさんも」
私たちをまとめて抱きしめる孝太先生。
「おかえりなさい、ゆかりさん」
私の頭を撫でたまま、優しく微笑む由子先生。
二人の言葉にいくつもの雫が伝ったけれど、いつだって私の歯止めを利かなくさせるのは、彼だった。
『おかえり、ゆかり』
照れたように少し小さい文字だとしても、充分。
「た、だ、いま……」
ここは私にとって、『帰る』場所だったのだ。自分でも気づかない間に。




