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「さようなら」の後は、  作者: 汐月 羽琉
第四章 救済
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言葉が背中を押す

 心臓が弾み過ぎて息が苦しい。

 しっかりと抱えられていてもいつもよりずっと高い目線は慣れないし、怖かった。

 だけどそれでもよかった。

 あんなにも焦がれた和馬さんがすぐ傍にいる。私を抱きかかえて、息を弾ませながら懸命に走ってくれている。

 これは夢なのでは? そんなふうに疑いたくなるような、あまりにも都合のよすぎる展開に、脳がくらくらする。

 まばたきをひとつするごとに、目を開けたらこの景色が夢だったと神様に嘲笑われる気がして、生理現象だというのに拒みたくなる。

 でも、何度繰り返したところで、なくならなかった。和馬さんも、和馬さんに抱えられて見る風景も、何もかも。

 和馬さんの服の背中を掴む。

 それに気づいたのか、彼は上がった息の合間ににこりと微笑んで、前方に見えてきた車に向かって更に速度を上げた。

 見覚えがある。一度乗ったこともある、和馬さんの車だ。

『乗って』

 地面にそっと降ろされて、多分ではあるけれど目だけでそう言われる。頷いてドアに手をかけても怪訝な表情はされなかったから、間違いではなかったらしい。

 ほんの少し迷ったが、そのまま助手席に乗り込む。そんなに時間もないことだし、どこに乗ろうか迷うこと自体に馬鹿らしさを感じてしまったのだ。

 それから間もなく彼も車に乗り込んできて、静かに車は発進した。

 聞こえるのは車の発する音だけで、無言の空間が流れる。ひとえに、私が何も言わないからだ。

 お礼くらいは言わなきゃ、と思うのに、言葉が出てこない。

 彼の横顔をちらりと見て、前を向いて、また横顔を見て。彼からすればわけが分からないだろう行動をしてから、ようやく口を開く。

「……あり、がとう、ございます……」

 絞り出した言葉。彼は、「気にしないで」と言うかのように優しく微笑んでくれる。

 だけど私が新たな言葉を継げなくて、ちらちらと心配そうに見られていることは分かったけれど、俯けた顔を上げられなかった。

 だから、反応が遅れたのだ。和馬さんに肩をつつかれ、勢いよく顔を上げるまで全くといって察することができなかった。


 今までずっと来たいと願っていた、まさにその場所にいたことを。


「も、り……」

 私が和馬さんと出会った、総ての始まりの場所だ。

 心臓の鼓動の速度が増す。最後に来たのが遠い昔と言うわけでもないのに、懐かしさが沸騰して泣きたくなってしまう。

 車のエンジンが止められ、しいんと静まり返っているから、なおさら自分の心臓の音が際立って耳に届いた。

 車から降ろしたのか、和馬さんが微笑みながらスケッチブックにさらさらと何事かを書きつける。

『追手は撒いたから、心配することないよ』

 私が下を向いている間に、彼は父が命じて追わせたのだろう使用人たちの車を撒いていたのか。その上でここまで連れてきてくれたらしい。

「重ね重ね、ありがとうございます……」

 迷惑をかけてしまった。

 頭がクールダウンしてくるに従って、自分が何をしでかしたのかを思い知る。

 後悔はしていないが、心配はしている。

 私を庇って逃がしてくれた幼なじみたちはどうなったのだろう。一緒に逃げてくれた和馬さんはどうなるの?

 今は何とか見つかっていない。

 でも、あの父のことだ。執念できっと私を探し出すだろうし、彼に何をするかも分からない。あんなにも根回しをして入念に準備をしたお見合いが完全にご破算になったのだから、怒り狂っているに決まっているもの。

 そこまで考えて頭がぐるぐるしたところで、はたと思い当たる。

 ――そもそも、彼はなぜ私を助けてくれたの?

 ますます早鐘を打ち始めた心臓を抱えながら、和馬さんを見上げる。

『ゆかりさんの幼なじみたちに、頼まれたんだ』

 紙の上の走り書きに目を見張る。

『ゆかりさんを救いたい。だから協力してくれって』

 だからこうして来てくれたというのか。

 それはいい、素直に嬉しいから。

 でも、どうしてそこまでしてくれるの?

 幼なじみたちは分かる。ひさやいずに何かあったら、フーに助けを求められたら、私はきっと何だってする。それこそこんな馬鹿な真似だって。

 でも和馬さんは違う。

 ちょっと前に会ったばかりの、深い付き合いでもない私に対して、どうしてそこまで。

 私の疑問が分かっているに違いないのに、彼は答えをくれようとはせず。その代わりにか、謎めいた笑みを浮かべてから、大きめな茶封筒を差し出してきた。

「え?」

 戸惑うと、開けてごらん、と言うように彼は更に差し出してくる。

 ちょっと躊躇ってから受け取ると、思った以上に分厚い。セロテープでされていた封を解いて中身を取り出し、何枚かを合わせて二つ折りにされた紙を広げた。

 内容は、予想もしていなかったもので。


「手、紙……」


 幼なじみ一人一人が1枚ずつ、私のために綴ってくれた言葉たちがあった。

 村田の人間なら瞬兄さまにひさとフー、いず、親晃ちかあきことチカ。村田には属していないその他の幼なじみたちまでも、忙しいだろうに時間を割いて。

 それぞれ個性が出ている手紙の文面。長い人がいれば短い人もいて、励ます人がいれば、約束をしてくれる人もいる。

 特に目立つのは、瞬兄さまの短い文。

『村田に縛られるのだけが人生じゃねーよ』

 そして、チカの長い文。

『ゆかり様。貴女は貴女らしく在ってください。

 僕は「上條」だけで貴女が成り立っているとは思いません。上條であることと同じくらい、ゆかり様であることも尊いのです。

 僭越ながら申し上げます。どんな道を選ぶとしても、どうか貴女様の意志で勝ち取ってください。

 それが村田と袂を分かつことだとしても、ゆかり姉様が自分の足でお立ちになるのならまたお会いすることもきっとありましょう』

 最後に記された『宇陀うだ親晃』の署名は力強くて。

 幼かった頃のチカは泣き虫で、特に仲のよかったフーを一生懸命に追いかけていた。最近は『ゆかり様』としか呼んでくれないけれど、あの頃は『ゆか姉』と言いながら私にも懐いてくれていて、可愛くて可愛くて。

 でも、そんな彼の面影など、どこにもない。

 私の中では、未だに彼が幼子の時のままのような気がしていたけれど、知らない間に成長していた。とっくに、立派な『村田傘下グループの後継者』となっていたのだ。

「あんなに小っちゃくて、泣き虫だったくせに……生意気」

 懸命に笑おうとして、結局失敗する。ぽろぽろと涙が伝い出したら、もう止まらなかった。

『ゆかちゃんならできるよ』

『またお会いしましょう』

『僕はゆかチャンがだーいすきだからね』

 ひさやフー、いずの手紙にある一文が涙で霞む。

 どうしてここまでしてくれるの。皆がもうずいぶんと前に受け入れて背負うと決めたものを、私は今まさに投げ出そうとしているのに。

 それでも、こんな単純なことなのに、ゆるしの言葉をもらえたわけでもないのに、罪悪感が完全に消えたわけではないけれど――薄らいでいく。

 私の想いは、赦されてもいいのだと。

 曲げなくてもいいものなのだと。

 皆がこんなにも背中を押してくれるのだから、むしろ、貫かなくてはいけないものなのだと。

 また、いずの台詞が耳に蘇る。


 ――ゆかチャン。キミは、どうしたいの?


 『私』は、和馬さんと一緒にいたい。上條だとか、お嬢さまだとか、私を縛る総てのものを抜きにしたら。ただ純粋に、目の前で優しく微笑む彼が好きだ。

 好きなのだ、今すぐ叫びだしたいほどに。

 ああ、だけど涙が止まらない。声が詰まって、何も出てこない。

「ま、って、……っ今、止める、から……!!」

 ぼろぼろとこぼれてくるものが、言葉の邪魔をする。

 言いたいのに、伝えたいのに。

 焦る私を知るはずもない彼は、ただ私の頭を優しく撫でてくれていた。

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