強い力で
嘘だ、と思った。私が都合よく創り上げた幻影だと。
だから、一度きつく目を閉じたのだ。そうすれば、次に目を開けた時にはもう、彼の姿が消える。私がいつまでも諦められないでいるから、だから自分に都合のいい白昼の夢を見たんだと――そう思った。
でも、目を開けたところで、消えなかった。
彼はちゃんと、そこにいた。大好きな姿のまま、私をまっすぐに見て。
彼はそもそも何も言えない。
私も驚きすぎて言葉が出てこない。
ひさといずが相変わらず父と言い争っている声が辺りには響いていたけれど、それも耳に届かなくて、私と彼の間に流れる時間だけが、まるで止まっているかのようだった。
和馬さんはじっと見つめたまま私から目を逸らさず、何か言いたげな目をしている。
戸惑ったままそんな彼を見ているしかない私。今の彼の手には、スケッチブックとかホワイトボードとか、そういうものがない。つまり私と話す手段がないのだ。
膠着状態の中、やがて、彼の手がすっと持ち上げられる。
その手は、二度、手招きの動作を示した。
何も分からな人が見たら、きっとただの手招きでしかない。でもそれは間違いなく手話の一種だった。私が学ぶことのできた限りでも分かる、簡単な言葉。
「おいで」。
たった、それだけ。
しかし、私の心を揺らがせるには充分すぎるほど大きな一撃となった。
行きたい、行きたい、行きたいよ。あなたの元に行きたい。
でも、当たり前の常識は私にもある。行けない、行けるわけがない。もう手遅れだもの。
良心が呟くのだ。
ゆかり、あなたは自分で受け入れて此処に来たんでしょう? それなのに、逃げるの?
だけど彼を求めてやまない本能は、良心の吐く綺麗事なんてお構いなしに、叫んでくる。
行きたい、行きたい、行きたい! あの人のところに、今すぐ駆けていきたい!!
行き先を見失った感情が暴走する。
ぽろぽろと涙が溢れて、両手で顔を覆ったままで首を幾度も横に振る。
彼を見て、私の笑っちゃうような『覚悟』なんてもうとっくに根本から揺らいでいたけれど、それでも最後には『上條』としてのちっぽけなプライドが邪魔をする。
私は上條だ。上條として生きなきゃならないんだ。ここでそんなみっともない真似をするわけにはいかない。良心と同じぐらいの声で怒鳴ってくる。
足が地面に縫い止められたかのようだ。
三つ巴で拮抗する自分自身の声に、下がることも進むこともできない。
「行けよ」
ふと後ろからそんな声が聞こえ、勢いよく振り返る。私の婚約者である人が、真剣な表情で私を見つめていた。
「え、……でも」
「行けよ。好きなんだろ? 一緒にいたいんだろ? 会いたかったんだろ?」
好きだ。一緒にいたい。会いたかった、会いたくてたまらなかった。
良心が押しのけられ、本能が勝り始める。ぐらぐらぐらぐら、プライドすら揺らいでいる。こんなんじゃ駄目なのに。
もっと強くならなくちゃ、私は――
「川原! 宮野! ゆかりを中に入らせろ!!」
父の声が響き、命じられた二人がこちらに向かってくるのが見える。5メートル、3メートル、徐々に縮まる距離。
それを見たからか否か、涼さんは少し焦れたように眉を寄せた。
「人間らしい感情を忘れた人間が、人の上に立って、下にいる人間たちを幸せになんてできるかよ。迷いしか抱いてない人間が、下にいる人間たちが迷わないように導けるのかよ?」
早口の質問に目を見開かされ、いずの真剣な目がフラッシュバックする。
「あんたは、一人の人間として、どうしたいんだよ」
――ねぇ、ゆかチャン? キミは、どうしたいの?
良心の声も、プライドの叫びも、もう聞こえない。
「何かを得たことを引き替えにする後悔と、何もかもを失ったせいでする後悔、あんたはどっちがいいんだ?」
足が震えた。そのおかげで縫い付けられていた地面から剥がれ、少しずつ動き始める。
川原と宮野は、もう目の前にいた。するりと二人の手から逃れ、和馬さんをもう一度見る。
彼は、微笑んでいた。
いつも通りの、優しくて穏やかな顔で、手を目いっぱい伸ばしてくれている。
また涙が溢れて、懸命に身に纏おうとした『上條』という鎧があっという間に崩れていく。
「お嬢さま!」
川原の声が聞こえ、宮野が私の左手を掴んだ。
それを力いっぱいに振り払い、一歩進む。
また捕まるかもしれないと思ったけれど、そうはならなかった。「涼さま、何を!?」という声が聞こえてくることからして、恐らく彼が何かしらの方法で足止めしてくれているのだろう。
「ゆかり! 何を考えている!!」
だけど父の怒鳴り声で身が竦み、足が止まってしまう。
「ゆかり! 言っただろ、君ぐらいは自由に生きるべきだって! 『上條』に縛られる必要なんかないんだって!! 一生、父親の人形として生きるつもりか!?」
ひさが叫んでいる。
「僕たちが今の村田を変えるんだって言っただろ!! 逃げるのか!?」
いずも叫んでいる。
再び足が止まった私を、見かねたように。あの恐ろしい父を押しのけて、あんなにも必死の形相で。
――ああ、もう駄目だ、我慢なんてできない。
更に一歩、と踏み出せばもう、急な坂道を転げるような状態で、自然と走り出していた。
「ゆかり!」
父の怒り心頭に発した声。でももう立ち止まらず走り抜けようと思ったのに、彼の手はしっかりと私の腕を捕らえようとしていた。
気づいてはいても、運動神経のよくない私にはよけられそうもなく、和馬さんまであともう少しというところで捕まえられそうになる。
もう駄目だ、と反射的に目を閉じかけたら、
「冬華!」
鋭い声が響いた。
ほとんど同時に、黒い影が私の目の前を横切る。
それはフーで、私に向かって伸ばされていた父の手を、痛まない程度に捩り上げていた。
その目は驚くほどに冷たい。
パーティー会場に紛れ込んだ不審者を捕らえたときなど、稀に彼女のそんな目を見ることもあった。けれど久々だったので、その冷ややかさは私に向けられているわけでもないのに、寒気がした。
「貴様ッ……冬華! 自分が何をしているのか分かっているのか!? お前は村田コンツェルンの犬だろう! 犬が主人に背いていいと思っているのか!?」
直接的に向けられた父は、もっと恐ろしかったのだろう。ほんの僅かに悔しそうな色を浮かべながら、噛みつくように怒鳴る。
でも、その台詞には私でさえ失笑を禁じ得ない。だってそもそも、根底が間違っているもの。
案の定、フーもにっこりと冷笑を浮かべた。
「勘違いなさいませんよう。おっしゃる通り、私は村田の犬ですが。それ以前に宮苑の――久弥さまの犬でございますので」
そういうことだ。
でも悲しいかな、この父には、人の絆の強さとか愛情とか、そういうものなど疾うに分からなくなっている。
使用人のことだって、人間と感じることができているのかどうか。
自分たちの『血』のプライドしか守れない、切ない人。
だから気づけないのだ。こんなにも簡単なことなのに。
ひさとフーの結びつきが、ただの主人とボディガード、というものだけではないのだと。
「なっ……」
だが、気色ばむ父の様子など眺めている場合ではない。
彼に気取られないようにちょっとずつだけど、和馬さんが私との距離を詰めていた。
それを見た私も足を動かし始める。
「ゆかり!」
「ゆかり様!」
叱咤するような、激励するような、そんな3人の声に送り出されて、再び走り出す。
「ゆかりぃィ!!」
父の憤怒の叫びももう、気に留まらなかった。
「――……っ!」
何も言葉が出てこない。ただただ和馬さんの胸に飛び込んで腕に力を込めると、彼も抱きしめ返してくれて、あやすように頭を撫でられる。
見上げた私に対して、彼は常のように優しく笑った。
ああ、和馬さんの笑顔だ。
ほっとして、胸がいっぱいになって、もう涙しかこぼれなかった。声も上げられず、ただただ泣き崩れる。
そんな私の頭をまた優しく撫でたと思うと、間もなく不敵な笑みを見せた。
穏やかなもの以外の彼の笑顔を見たことがなかった私は、驚きで一瞬だけ涙が止まる。しかしそれは序の口で、一度目の驚きも冷めやらぬうち、二度目の驚きが襲った。
「――ッ!? うぇ!?」
あまりのことに妙な声が出た。
お伽話の中のお姫さまのように抱え上げられたのだ。
和馬さんは私の反応を気にする様子もなく、走り出す。予想以上に足が速い。
「え、ちょ、え!? ひ、ひさ! いず!」
幼なじみたちにお礼のひとつも言っていない。だが暴れたら落ちそうで怖くて、彼の腕の中でおろおろするしかなかった。
「俺たちは大丈夫だから、行けゆかちゃん!」
ひさの笑顔が、込み上げてきた熱い雫のせいで滲む。
「ちゃんとまた会えるよ!」
だからその時までバイバイゆかチャン――いずが手を振っている様子までも、じわじわと歪んでしまう。
喉に張り付いて言えなくなったものの代わりに、何度も何度も頷く。
沸点を越えた怒りのせいで、もはや顔面蒼白になっている父に向かって叫んだ。
「ごめんなさいお父さま、私――」
私、あなたの望むような『上條に相応しい娘』にはなれなかったよ。
ごめんなさい。最後まであなたのことを、がっかりさせてばかりで。もう一度笑わせることもできない、情けない娘で。
それでもまた別の方法で、上條を守りたい。守っていきたいの。その方法をもう一度しっかりと考えてみたいの。
涙を拭って、幼なじみたちに今できる精一杯の笑みを浮かべてみせた。
いずも、ひさも、フーも、皆が満面の笑みで返してくれる。
最後に見えたのは、涼さんの姿。
煙草を咥え、紫煙を燻らせながら、彼はどこか満足そうに笑っていた。




