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「さようなら」の後は、  作者: 汐月 羽琉
第四章 救済
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揺らぐ覚悟

「あと5分ほどで到着致します」

 運転手の言葉に頷いて、相変わらず無表情な父の姿を確認して、ただただ窓の外を眺める。

 ああ、なんと簡単な――でも、苦しい時間。重苦しい空気に肺が潰されてしまいそう。

 それでも耐えよう。もうすぐ更に気が重くなるようなことが待っているのだ。ここでへこたれていたらやっていられない。

 ぎゅっと手を握りしめる。

 頭の隅を掠める影を追いやるのに必死だった。

 木が少しでも群生していて森のように一瞬でも見えると、そこに目が行ってしまう。見ればすぐに公園や民家だと分かって、どうしようもないというのにがっかりする。

 そしてそれをおもてに出さないように必死になって、でもすぐにまた群生を見つけて反応する、その繰り返し。

 馬鹿みたいだ。どうにもならないというのに、心の中で裏切っているだけでいいと思ったくせに、逃げ出せないと散々自分に言い続けているくせに。

 手が、震える。体がそれに応じて震え出さないように、必死で押し留めた。

 私、怖いのかな。

 この間少し会ったとはいえ、ほとんど知らない相手と形ばかりのお見合いをして、その日に婚約して、その先までも見据えなければならなくて。

 それが怖い?

 本当に弱いな、と自嘲して笑い、手と手を組んで握り直した。もうこれ以上弱くならないように。

 幼なじみ以外の多くの傘下の人間がそうしているように、早めに心を失くしてしまえばよかったのだろうか。

 そうすればこんなにも悩まなかっただろうし、覚悟が揺らぐことだってなかったのかもしれない。

 それとも、私は涼さんのことを愛するように努力すべきなのだろうか、と一瞬考えるも、すぐに打ち消した。

 そんなこと、できそうもない。どんなに彼の顔を思い浮かべようとしても、どうしたって和馬さんの顔がちらつくのだから。

 そもそも「努力しなければ」とか考えているのがきっとおかしい。だって、私が和馬さんを好きになったのと同じように、その感情に理屈なんてないはずだもの。涼さんに対しても失礼だ。

「……馬鹿みたい」

 父には聞こえないように毒づき、さらに力を込めて自らの手を握りしめる。

 諦めたと言い続けて、逃げないと自信満々に言って、そしてその結果がこれ? これじゃあ、いつまで経ったって――ひさ、いず、他の幼なじみたちに敵わない。

 敵うとか敵わないとか思っている時点で、きっと私は駄目なのだと何となく分かってはいたけれど。

 いい加減、悩むのをやめろ。

 たとえ間違っていたとしてもこの道を進む、と決めたでしょう。

 自分の決断だ。誰に強要されたわけでもない。

 父の駒になる以外にもいくらだって広がっていたはずの可能性を、総て捨てたのは、私だ。馬鹿だ、と誰に罵られても、自分で自分をどれだけ嘲ろうとも。

「到着致しました」

 車は滑らかに料亭の前で停まり、運転手がドアを開けてくれる。父に目線で促されて頷き返し、裾を気遣いながら静かに降りた。

 ここは馴染みのところだし、その面では緊張がほぐれほっとする。

 従業員たちが礼儀正しく出迎え、軽く会話をする。

 まだ始まりの時間にはだいぶ早い。

 従業員たちと話している父を横目に見つつ、ついてきた使用人に軽く散策する旨を伝えて庭に向かった。

 間もなく、見事な日本庭園が見える。和馬さんとあの森で出会ってからだろうか。植物の傍にいるとほっとする。

 近くにあった木の幹にそっと触れると、ごつごつとした感触がどこか安心させてくれた。これからのことを総て忘れさせてくれるような気がした。

 ああ、このままこうして、現実から逃れてしまいたい。木と一体化すれば、もうこんなふうに雑多な感情に囚われることなどないのだろうか。

 静かに幹の肌を撫でた時、煙草の香りが鼻について一気に現実へと引き戻される。

 視線を巡らせると、すぐに誰が出所か分かった。

「涼さん……」

「……よう」

 紫煙を吐き出した彼はそう応じ、煙草を消した。まるで私を待っていたかのようだ。

 残り香がふわりと辺りを漂う。

 彼の吸っていた銘柄は何だろうか。周りにあまり吸う人がいないために煙草に詳しくない私には、よく分からなかった。

 それこそ、吸う人といえば涼さんの再従兄はとこである瞬兄さまぐらいだ。その彼も、幼なじみで集まるときにはあまり吸わない。いずが大の煙草嫌いであるから、気を遣っているのだと思う。

「……俺、忠告したよな?」

 携帯灰皿をポケットに捩じ込みながら、涼さんはどこか責めるような目で私を見てくる。

「逃げろ、って言ったよな。どうしてここに来た?」

 私はそれににっこりと笑ってみせる。子供みたいな反抗心だけれど、負けたくなかったのだ。

「何のことですの? 私には、逃げなければならない事情などありはしませんもの」

 私は騙し通さなければいけない。迷っていることなど、父にも涼さんにも、誰にも知られては駄目だ。


 この胸の内に咲いている赤い花は、枯らさなければいけないのだ。


 そんな無様な私を見て、涼さんはすっと目を細める。もちろん、微笑んだわけではない。眉間に皺が寄っている、明らかに『渋い顔』だった。

「涼さ、」

「あんたさ、それでバレないとでも思ってんの?」

 呼ぼうとした声は遮られ、ため息混じりに言われる。

「何を……」

「バレバレなんだよ。あんた、おんなじ目をしてる」

 同じ、目?

 何を言われているのかよく分からず、訝しく思いながら彼を見た。

「誰と同じとおっしゃるのですの?」

「俺だよ」

 彼は真正面から私を見つめてくる。こちらが苦しくなるほどに。

 即座に反応できなかった時点で、私はもう負けを認めてしまったも同じだった。

「本当に好きな人間を諦めて、そして二番目以下の人間と結ばれようとしてる人間」

 ぐっと唇を結んだ。

 涼さんが、怖い。

 そういう彼こそ、同じ目をしている。

 ――ねぇ、ゆかチャン? キミは、どうしたいの?

 あのパーティーの日、そう訊いてきたいずと同じ――強く澄んだ目。

 彼は現総帥の弟の孫。

 それはすなわち、涼さんもまた、いずと同様に人の上に立つ覚悟をきちんと持っている人間である、ということ。覚悟も持たず上に立とうとする人間を許さないということ。

 私もこう在らなければいけないのに、と何度も思ったのに、未だにできていないのだ。情けないことに。

「同じだろ? 違うとは言わせねえよ?」

 彼の言葉は的確だ。

 答えられない言葉が喉に焼き付いて気管すら焼かれて、爛れて、息もできなくなってしまいそう。

「……たとえ、そうだったとしても。私は逃げる気などありません。上條としての役目を果たします」

 震えさせまいとしたけれど、そんな努力も虚しく、どうしようもなく声は震えていた。所詮、私の覚悟なんてその程度。

「本当にそれでいいんだな?」

 こくり、ただひとつ頷く。

 だってもうどうしようもないもの。

 もう少し早く私が父に対して不実になれていて、なおかつ逃げる勇気を持っていたならば、結果は違ってはいたかもしれない。

 でもそれは『たられば』の話。過去は変えられないのだ。

 時間の流れに逆らうことは、どれだけの地位や名誉、お金を持っていたとしても、できはしない。

「…………もう、いいのですわ。手遅れですもの」

 言うつもりなんてなかったのに、認めなければいくらだって言い訳できたのに、言ってしまってから後悔した。

 『手遅れ』ということは、それだけここにいることに対して嫌な思いがあるということではないか。

 聞き逃していてほしい、と願ったが、そんな都合のいい話などない。

「言ったな」

 別人から発せられたのかと思うぐらいに明るい声が響く。

 顔を上げれば、目の前にはにやりと口の端を持ち上げた涼さん。

 紛れもなく同一人物のはずなのに、彼のそんな表情なんて初めて見たので、驚いて言葉を失う。だって、今までずっと虚無に支配された顔しかしていなかったから。

「じゃあ、あれを見ても揺らがないんだろ?」

 え、と私が目を瞬くのと同時に、門の辺りが唐突に騒がしくなった。反射で振り返ると、誰かが父や従業員と口論になっているようである。どうやら、入れろ入れないで押し問答をしているらしい。

 あの父相手に、誰がそんな馬鹿なことを。目を凝らしてみたら、それは。

「ひさ、いず……?」

 間抜けな声が飛び出す。勘違いかと思うも、小さな頃から何度も何度も見てきた馴染みの顔を見間違えるはずがなかった。

「いいから入れてください!」

「何を考えている、宮苑のご令息。ここは総帥の御令弟の御令孫と、我々上條本家の一人娘の見合いの会場だ。貸し切っている。関係者以外が立ち入ることはできない」

「申し訳ないけどそんな議論は今どうでもいいのです、そんな問答がしたいわけじゃない」

 言い合いの中で父がどんどんと苛立っているのが分かる。おもてには出さないし、多分、身内である私くらいしか些細な表情の変化には気づいていないだろうけれど。

「貴方がおっしゃることなど把握した上でここに来ています。つまり議論するだけ無駄です、道を開けてくださいませんか」

 普段は冷静に物事を俯瞰して見つめるはずの、いずまで父に反抗している。

 私ははらはらとしてきた。彼らが父から何かされやしないか。そしていったいどうしてこんな場所に現れたのか。そう考え出すと不安で、止めに入ろうと足を一歩踏み出した時、信じられないものが視界に入った。

 どうしてここにいるの。いるはずがない、だって私は一言も何も言わずに――


「かずま、さん……」


 胸が詰まって、喉に言葉がつかえて、そう吐き出すのがやっとだった。

 そう。ひさといずの向こうになってたった今まで見えなかった場所にいたのは、和馬さんだった。

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