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「さようなら」の後は、  作者: 汐月 羽琉
第三章 崩壊
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恐ろしい人

「かずま、さん」

 小さな声で呼びかける。集中しているときには耳に届かないように、と思って、出したのは本当に小さな声だった。

 それなのに、彼は振り返ってくれる。いつもの穏やかな笑みで。

「『こんにちは』?」

 唇の動きと手話を見ながら尋ねる。和馬さんは嬉しそうに頷いてくれた。どうやら当たりだったらしい。

 和馬さんといつかスムーズに会話できるようになりたい。そう思って、手話をどうにか覚えようと最近になって四苦八苦し始めた。

 朝昼晩の挨拶とお礼ぐらいは最近覚えてきたけれど、やっぱり一朝一夕にはいかない。

 いつのことだったか。手話を全部覚えるにはどれぐらいかかると思う? と尋ねたことがある。すると和馬さんは珍しく笑顔をして黙り込み、しばらく考え込んだ。

 何かまずいことを訊いただろうか。私がいい加減沈黙に耐え切れなくなった頃、彼は指を一本立てて見せたのである。やはり真顔で。

 さすがに1ヶ月だとは思わなかったので、すぐに悟った。これは根気強くやらなければいけない――と。

「よかった、挨拶はようやくだけど覚えられそう」

 おはよう、こんにちは、またね。いくつかの短い言葉だけど、それが分かるというだけで嬉しい。昨日会えておらず手話に触れられていない分、余計にそう思う。

 たった1日の間を空けただけだというのに、何だかとても長い時間会っていなかったかのような思いに囚われる。正直、パーティーは数日分の気力を一気に使うから、ある意味当然と言えば当然なのかもしれないけれど。

 疲弊しきった精神を、にこにこと笑う和馬さんに癒される。やっぱりこの人は、傍にいてくれるだけで何だかとても楽になる人だと思う。

 昨日まではその理由を分かりたくなくて逃げ回っていたけれど、いずに言われて、自分でも懸命に考えて、そして逃げることはやめたのだ。

 だから今日は彼から一度も目を逸らさないと決めた。

 にっこり笑いかければ、和馬さんは笑い返してくれつつも、少し首を傾げる。

「どうしたんですか?」

 私がその反応に対してきょとんとすれば、彼は「何かあった?」とスケッチブックの端に書いた。

「何かって?」

『何かいいこと。明るい顔してるからね』

 優しい笑みは、自分の言っていることをもうほとんど確信しているようで。

 本当に鋭いなあと舌を巻く。少しの時間だというのに、仕草や表情からいつもの私との差を感じたらしい。

「うん、ちょっと。大好きな幼なじみに昨日会えたから、かもしれないです」

 言った途端、ぴたりと和馬さんの手の動きが止まった。驚いて顔を見ると、放心したような顔をしている。どうしたのだろう。

「和馬さん?」

 声をかけたら、間もなくフリーズは解けた。それなりに長い時間だったように思うが、何があったというのか。

『幼なじみって……』

 心配で眉根を寄せていた私に、恐る恐るといった感じで尋ねてくる。どうやら具合が悪いとかではないらしい。

「幼なじみ? うんとね……コンツェルン内だと村田御本家の瞬さま、宮苑本家の久弥くんとそのガードの冬華とかー……」

 皆の顔を思い浮かべながら、指折り数えていく。

 昔は年上には遊んでもらったし、同い年や年下とは一緒に遊んだものだ。学校や上條に友達が少なかった私にとって、幼なじみたちと遊ぶ時間はとても楽しくてたまらなかったものである。

 村田の中で生きることを厭う瞬さまは村田から離れがちだから、今はほんの少し疎遠になってしまっているけれど。

「あとは高谷本家の和泉とか、宇陀本家の親晃とかー……他にもいるけど。コンツェルンの外にもいるよ、4人くらい」

 人前でさえなければ、いつもは『瞬兄さま』や『ひさ』、『いず』といったような呼び方をしているから、何となく変な感じがした。

「昨日はいず……和泉とたくさんお話ししたんです」

 子供が好きだったのか何なのか、いずは昔から私たちとよく遊んでくれた。間違っていることは教え諭し、導いてもくれた。大好きなお兄ちゃんのような存在である。

 にこにこと話し続ける私の一方で、和馬さんの表情が冴えない。

「……和馬さん? どうしたの?」

 さっきからこんな調子だ。やっぱり具合が悪いのかもしれない。覗き込むように見上げると、彼は数拍置いてはっとする。そしてふるふると首を振るも、表情は相変わらず冴えないままだ。

「和馬さん、具合でも悪いの?」

 不安になりながら訊くと、和馬さんはようやく笑ってくれた。

『大丈夫だよ。何でもない』

 そうは言っても、スケッチブックに走る文字にはいつもみたいな力がない。彼自身分かっているだろうに、「何でもないよ」と言い張るような強い色を湛えた瞳は、頑固だ。

「そう?」

 仕方なく矛を収めることにしたけれど、納得がいかないのも事実で。声にもかなりその思いが滲んでいた。

 しかし彼がしっかりと頷くので、それ以上追及することもできない。

 加えて、バッドタイミングで私の携帯電話が鳴り響いた。いつもは電源を切っているのに、今日に限って切り忘れたらしい。

 着信の相手を見てみると、使用人である。まさか時間を超過したかと慌てて時間を確認するが、メイド長との約束の時間はまだまだ時間がある。いったいどうしたというのだろう。

 怪訝に思いつつも、いつまでも鳴り止まない。しかも和馬さんが「出ないの?」という表情をしているのも見えた。しぶしぶ通話ボタンに指をかけつつ立ち上がって、彼から遠ざかる。

「……はい?」

 自分でもあからさまだなと思うくらい、応答には不審の色がだいぶ濃く出ていた。

『お嬢さま! 今、学校に迎えの車を向かわせました! ただちにお戻りください!』

 聞こえてきたのは、馴染みである使用人の声。相当に切羽詰まったような様子である。

「まだ約束の時間まで時間あるじゃない……どうしたっていうの」

 私は、本当に勘の鈍い女だと思う。そんな声から予測すらしなかったのだから。


『旦那さまがあと1時間後にはこちらに戻ると。先ほど、旦那さまの秘書から連絡が……!』


 彼の口から飛び出してくることを。

「え……」

 息が、止まる。

 父が、帰ってくる。帰ってくるのだ。

『お嬢さま、お急ぎください』

「わ、かった……」

 どうしてこんな急に。何故、こんなにも唐突に。

 父は勘のいい人だ。私の我儘を、醜い考えを、見抜いてしまったのかもしれない。

 カツン、という爪が画面にぶつかる無機質な音を立てて、使用人との繋がりを断つ。

 隣に誰か立った気配に気づいてそちらを見ると、予測通りに和馬さんだった。どうしたの? と言いたげな瞳で、私を心配そうに見ている。

「――私……帰らないと」

『え、どうしたっていうの。ゆかりさん?』

 突然の一言に、彼は驚いて目を丸くしている。焦ったような走り書きがその証拠だ。

 分かっている。分かっていた、けれど。

「ごめんなさい。また来ます!」

 言い残して、全速力で走り出した。こうして走り出してしまえば、声の出せない彼には呼び止めることはできない、という卑怯な考えがあって。

 彼がどんな顔をしているのか、振り返れば分かったことだけれど、振り返らなかった。

 追いかけてきていないことも、足音の有無で分かっている。もしかしたらあまりに唐突すぎてまたフリーズしてしまっているのかもしれない。

 むしろ、それでいいと思う。あの家に帰りたくなくなってしまうから。

 自分の家なのに、あの厳格な父がいると考えただけで気が重くなってたまらない。

 それでも、帰らないと。

 何を言われるのだろうか。そんなことを考えるとますます暗い気分になり、足も止まりそうになる。けれど、打ち消しながら学校の門までひたすら走った。そこにはすでに迎えの車が停まっている。

「お嬢さま、お急ぎください」

「分かってるわ。出してちょうだい」

 半ば飛び込むように乗って、鞄から出した手鏡を見ながら、走ったせいで乱れた髪の毛を直した。父の前に出るのに、みっともない格好はできない。

 間もなく玄関の前に車が横付けされる。

 緊張でどくどくと跳ねる心臓を宥め、使用人が開けてくれた車と玄関のドアをくぐる。

「お帰りなさいませ、お嬢さま」

 ただいま帰りました、と口にしたところで――見慣れているはずの、しかし同時にできればもうしばらく会わないでいたかった人影が、しっかりと目に入った。

 最近白髪が混じってきた黒髪。私と同じ、焦げ茶色の目。細身の体に、神経質そうに眉根を寄せたその人は。

「お父さま……」


 現、上條グループ代表。そして私の父。上條英斗(ひでと)、その人だった。


 ただいま、も、おかえり、も、私たち親子の間で交わされることなんてない。一方的に私が言うことはあるけれど、父から返ってくることは、ない。

 そして呑気に挨拶などできる状況でもない。

 ピンと張りつめた空気が喉の奥を指す。息を詰まらせて、睨むようにこちらを見つめる父を見返す。

 しばらくの間、父は上半身だけで振り返ってこちらを見ていた。だが数分経って、ようやく体ごとこちらに振り返る。父の靴が三和土たたきとぶつかり、こつ、と鳴った。

 見上げた父の目は、まるで氷のようだった。びくりと肩を跳ねさせ、一歩後ろに退こうとするも、一瞬遅かった。

 パンッ――乾いた音が響く。遅れて左頬がかあっと熱を持ち、じんじん痛み始める。鉄のような臭いが口の中で広がる。

「英斗坊ちゃま……!」

 その感覚に加えて、めったに動じることのないメイド長の焦ったような声が聞こえて、ああ殴られたんだな、と漠然と思った。

「今までどこをほっつき歩いていた?」

 体が、動かない。声も出ない。言わなければいけないのに。

 その場にいた使用人たちが、止めに入るべきか迷うようにざわついている。普段の彼らは、仕えている人の前で私語なんて絶対にしない。それだけ今の私たち親子の状況は異常なのだろう。

「どこをほっつき歩いていた。聞こえないのか?」

 そんな彼らの反応を無視して、冷徹な声が玄関ホールに響き渡る。

 またも乾いた音が響いて、痛みが増して、皆の息を呑む音が聞こえて――へばりついていた足がやっと剥がれる。喉に張り付いていた言葉がやっと形になる。

「……申し訳、ありません」

 けど、和馬さんに迷惑をかけるわけにはいかないから。ようやく見つけられた居場所を、奪われたくないから。総てを覆い隠すためにも、私は深々と頭を下げた。

 こんな世界に染まるうち、いつの間にか上手くなってしまった嘘は、こんな場所でも役に立つ。

「……世間の同い年くらいの方々がどんな放課後の過ごし方をしているのか気になってしまって……行く当てもなく、ふらついていました。申し訳ありません」

 何割か真実を加えることで、嘘はリアルさを増すのだ。というより、今回については嘘をついていない。ただ、語るべき本題を語っていないだけ。

「下らん」

 即座に言い渡される言葉は、予測していた通り。

 父にとっての最重要事項は上條の名誉と伝統を守ることなのだから、それに関係のないもの、必要ないもの、邪魔なものは総て壊す。それが娘の、本当にちっぽけな願いだとしても。

 そんなことぐらい、よく分かっていた。どれだけその関係が捩じ曲がっていたとしても、親子だから。

「世間の何も考えていない娘たちのなど、知ってどうする。そんな必要がどこにあると言うんだ? お前は誰だ、ゆかり」

 冷え切った声は、私の思考までをも凍らせていく。

 ――ああ、もう駄目なのかもしれない。


「……上條本家の一人娘です」


 和馬さんにはきっと、二度と会うことは叶わないのだろう。

 結局、私の決意なんて、そんなもの。

 父に命令されたというそれだけのことで、簡単に諦められてしまう。いずにも、あんなに励まされたのに。

「勝手な行動をした罰として、見合いまでの間学校以外の外出を一切禁じる。庭に出ることも、だ」

 我が父ながら、恐ろしい人だ、とぼんやり思う。

 こうして逃げ道を塞ぐ。ありえないことなのに、まるで私の心が見えているかのようだ。

「……はい」

 逆らうことができるほどに強くなれない私は、父の望む答えを紡ぐしかない。

 一礼してから父の前を退く。二度張られた左の頬を押さえながら、部屋に向かって歩を進めた。

 背後でメイド長に冷たい声が投げられているのに気づく。私に協力してくれたばかりに、責められているのだ。

 唇を噛むが、それだけ。何もできない。いつでも私を助けてくれる彼女を私は守ろうともせずに、ただただ自分が父の不興を得ないように体を縮め込んでいる。

 ――弱虫。

 反響するのは、もう一人の自分の声。耳を塞ぎ目も閉じて、そうして自分の世界に逃避する。埋没する。

 ああ。私は本当に、期待を裏切ることしかできないのだ。

 ひさ、いず、そして和馬さん。何人もの顔が浮かんできてはぐるぐると頭の中で回った。凭れかかるようにして自分の部屋のドアを閉め、嗚咽が漏れないように懸命に口を引き結んだ。

 こぼれた涙が指の隙間から床に落ちて、小さな染みを作っていく。

 実の父親なのに、愛情とか尊敬とかそういうものより、恐ろしさしかほとんど感じられない。それが悲しくてたまらない。

 だけど、和馬さんに会うまでの自分だったら、きっとここで終わっていた。

 怖くて口にできず、呑み込んでしまった言葉がまた浮かんでくる。飛び出してしまわないように喉をぎゅっと押さえるけれど、それでも感情に蓋はできないのだ。

「何も考えていないのは……私たちの方なんですよ、お父さま……」

 私たちが守ろうとしているものなんて、この世界から考えれば小さい。お金も地位も名誉も、あの世には持っていけないのだ。

 もしも向こうにまでも持っていけるものがあるとするのならば、それは――『人と人の絆』なのではないの?

 私たちは特別なんかじゃない。産まれた瞬間は泣き叫んで、苦しみにのた打ち回りながら大人になって年老いて、そして朽ち果てていく。父も私も、父の言う『何も考えていない人間たち』と同じ。同じなのだ。

 彼の言葉について熟考することもなく、ただただその通りに従ってきた自分が憎らしい。

 人と人の出会いは化学反応を起こすという。どんなに小さな交わりでも、プラスにしろマイナスにしろ、自分に変化が起きないわけがないのだ。

 ましてや、それが好きな人との出会いならば、なおさら。

 大丈夫、和馬さんが教えてくれたことは私の中でちゃんと生きている。

 だって、父の言葉にようやく疑問を抱けたもの。あの人は絶対などではないって、ちゃんと気づけたもの。

 そうだよね? 和馬さん。

「和馬さん……」

 会いたい。

 届くはずがない。分かっていても、彼の名前を何度も何度も呟かずにはいられなかった。

 まるで、そうすることで救われるとでも言うかのように。

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