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「さようなら」の後は、  作者: 汐月 羽琉
第二章 見る
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弱虫でも

 足が、震える。弱いな、と思うのに、でもそんな自分を可愛がる自分がいるのも事実。

 ――逃げるの?

 リフレインするのは、和馬さんのそもそも存在もしない声。

 そうだ。私は逃げている。救いようもないほど、逃げている。今さらその事実を更に思い知らされて泣きたくなるなんて、本当に馬鹿だ。

「……この間は、ごめんなさい」

 あれから、3日。たいして忙しくもないのに、和馬さんと由子先生に会うのが怖くてたまらなくて、ここを訪れられないでいた。

 木々のざわめきが鼓膜を揺らす。

 そもそも、あのブラックな心理状況でこの場に立ったら、封じ込めていなければならないものすら溢れ出して、止まらなくなりそうで。鋭い言葉で和馬さんを指してしまいそうで。もしもそんなことになったら、いつも優しく包み込んでくれる植物たちの中に立つ資格すらないような気がしたのだ。

『いいよ。おれや母が余計なことを言ったのかもしれないし。連絡がないから、心配はしたけどね』

 それなのに普段通りに笑ってくれる和馬さんの優しさに胸が痛む。

『自分探し、やめたい?』

 尋ねられ、私は答えに窮して押し黙るしかなかった。

 今日も土に触れて作品を作ってみたけれど、孝太先生に「土が迷っている」と言われてしまって。

 ――『土が、迷っている』……?

 その意味が分からなくて目を泳がせたら、隣に腰かけていた孝太先生は少しだけ笑みを見せた。

 ――土にはその人の心が宿る。つまりゆかりさんは今、迷ってるってことだね。

 核心を突かれたな、とぼんやり思ったら、何もできなくなってしまった。単純に動揺することすら。

 それからは自分のどうしようもない状況に土をいじるのも怖くなって、休憩をもらって和馬さんを捜した。今日はまだ会えていなかったから。

 彼はアトリエにいた。自分勝手に連絡を絶っていた私を、何事もなかったかのようにあたたかく迎え入れてくれるその姿は、怖いぐらいにいつも通りで。

 嬉しいはずなのに怖くてたまらなくて、また逃げ出したくなっている。

 こうしてまたひとつ、どうしようもない一面を思い知っては泣きたくなる。自己嫌悪に陥る。でも、それだけだ。それだけで終わって、結局逃げてしまう。こういう部分にまたひとつ、胸に何か重たいものが降り積もっては気力を奪う。

「……自分を知れば知るほど、醜さも見えてきちゃって」

 ようやく掠れた声を紡ぎ出す。すると、彼は驚いたように目を見張るので、その表情にこちらがかえって呆気にとられる。

 私、何かおかしなことを言っただろうか。

『どうしてゆかりさんが醜いの?』

 しばらくして吐き出された言葉は、意外も意外で。

 冗談で言っているのかと一瞬疑ったが、彼の目は本気で困惑している色だった。つまり彼はどうして私が自分自身のことを「醜い」と断じるのか分かっていないらしい。

「だっ、て……自分勝手な部分とか、汚さとか、どんどん見えてきて……」

 言っていて様々なことが浮かび、目を伏せる。

 こんな自分が嫌で、変わりたくてこうしてここを訪れようと思ったはずなのに。何も変わらない――いや、変われないでいる。

『自分勝手なのも汚いのも、人間ならみんな共通だよ。おれだって同じだ』

 そろりと頬に触れてきたあたたかい手に、私はびくりと反応した。戸惑いながら彼を見上げれば、微笑を浮かべてからゆっくりと口を動かす。

 ――だっておれは、泣いている君に反して、君にもう一度笑ってもらいたいと思っているんだから。自分勝手だろう?

「それじゃまるで、口説き文句じゃない……」

 懸命に唇の動きを追ってそんな言葉を読み取った私は、笑いながら涙をこぼした。

 涙を我慢していたことがとっくに知られていたことに泣けて。口説きみたいな台詞に笑えて。

『おれはゆかりさんに笑っていてほしい』

 私の言葉に困ったように笑ってから、シャーペンがさらさらと動く。涙で滲むその文字に気を取られていたから、和馬さんのその後の動きに気づくのが遅れた。


 体が優しい力に引き寄せられる。間もなく、何かに体がぎゅっと締め付けられた。


「え……?」

 混乱していると、ぽんぽんと規則的に背中が叩かれて、その力の正体をすぐに悟った。


 和馬さんが、私を、抱き寄せているのだ。


 体を締め付けていたものは、彼の腕。

「か、和馬さ――」

 驚いて涙も吹き飛ぶ。あまりのことに抗うことも忘れ、ただただおろおろとするしかなかった。どうしよう、と。

 だが和馬さんは気にしているのかいないのか、よしよしと頭を撫でてくるだけ。瞳を揺らしながら彼を見上げる。

 和馬さんは私と目が合うとにこりと笑った。いつも通りの、穏やかな微笑み。

 声を持たない彼が何を言いたいのかなんて、文字にしてもらわなければ本来は分からないのに、その時ばかりは理解できた気がした。

 大丈夫だよ――そう言っていると。

「ど、して……こんな…」

 どうしてこんなに優しくするの。どうしてどうしようもない私にここまでしてくれるの? 訊きたくても喉に張り付いて出てきてはくれない言葉たち。

 一度は治まっていたはずが、またもぼろぼろぼろぼろと流れ落ちてくる涙。和馬さんはそれを拭ってくれながら、空いている手で文字を紡いだ。

『ゆかりさんの笑顔に助けられてるから……かな』

「私……が?」

 私こそ、その笑顔に助けられているのに。同じようなことを私はこの人にしてあげることができているのだろうか。本当に?

 和馬さんはしっかりと頷く。首を振ったのだと勘違いなんてできないぐらいに大きく。

「本当に……?」

 また頷いて、「そんなに疑わないでよ」という感じで苦笑交じりに笑っている。

『ただの19歳の女の子として、おれは君を見てるつもり。そこから考えたら、君は充分頑張ってると思う。同じ年齢の時、おれはそんなふうに生きられてなかったから』

 ひとつひとつ噛んで含めるようにして、ルーズリーフを埋めていく文字。

 何となく、何となくだけど、私はこの紙を一生捨てられないと思う。

『君の姿を絵に描きたいと思うくらいには、おれは君に魅せられてるよ』

 吹き出したのに、笑えたのに、それでも泣けてくる。だけどこれは、決して情けなさとか悲しさから出てくるものじゃない。

「またそんな口説き文句みたいな……」

 これは――嬉し涙だ。和馬さんの言葉があまりにもあたたかくて、嬉しすぎて、そのせいで溢れてくるのだ。

『口説き文句かな……絵のモデルにしたいのは本当だよ?』

「口説き文句ですよ。普通、そんなこと言われたら女の子は皆ころっといっちゃいますよ? モデルは……私なんかでいいなら、いくらでもいいから、……だから、」

 ――だから今は、泣いてもいい?

 止まりそうもないこの涙を、抗わずに流し続けてもいいのかな。このまま、甘えてもいいのかな。

 和馬さんは何も書かない代わりに、またもぎゅっと抱きしめてくれた。いいよ、と返すように。

 結局私は、甘えた。甘えてしまった。

 婚約者のいる身で、婚約者じゃない男の人に助けを求めて、その上胸を貸してもらっているなんて。

 でも、今だけ。今だけだから、どうか。この背徳を許してください、神様。

「ふ、うえぇー……っ」

 子供のように泣く私の背を、彼はただ繰り返し繰り返し、優しくさすってくれていた。



   ● ● ●



「あれ。今度はいい感じに作れてるよ。何かあった? ゆかりさん」

「え。あ、はい。ちょっと」

 照れくささから「えへへ」と誤魔化すように笑う。

 泣くだけ泣いてすべてを吐き出したらすっきりした私は、再び陶芸教室に戻ってきた。

 あの後、泣き崩れる間ずっと背中をさすり続けてくれていた和馬さん。私が泣き止んだのを確認すると顔を覗き込んできた。「もう大丈夫?」と言いたげな目で。

 私はそれに頷いて残った涙を一直線に拭い、いつも通りに満面に笑みを浮かべた。

 それを見て、和馬さんはようやくほっとしてくれたようだった。

『うん。いつものゆかりさんだ』

 微笑みに元気良く再び頷き返し、立ち上がって、そうしてここに戻ることを伝えた。今度こそはいいものを作りたいと、素直にそう思えたから。

 和馬さんに見送られて戻ってきた私はさっそく作品作りに取りかかり、今までにない集中力でひとつを作り上げた。今、孝太先生に見てもらっているところである。

「土から迷いが消えてるよ。ほんとによくなった」

「……和馬さんのおかげです」

 嬉しくて顔がにやけるのを止められず、にまにま笑いながらぽつっと言う。

「和馬の?」

 目を瞬かせる孝太先生に勢いよく頷いた。

「私が落ち込んでいたところを、慰めてくれたんです」

 醜さも馬鹿みたいなところも、総て私なのだ。受け入れることは難しいかもしれないけど、受け止めてはいきたい。

 普段の私に「魅せられている」とまで言っていてくれる和馬さんという人がいると知ったから。本当の私を見ても、それは普通だと、それでも救われる人がいると分かったから。

「誇れる息子さんですね」

 孝太先生は少し驚いたようにしたが、すぐに肯定の仕草を示す。

「うん――とても。とてもね」

 私を救い上げてくれたあの人は、間違いなくこの人に育てられたのだと思った。はにかむような優しい笑みが、和馬さんの顔とダブって揺れていた。

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