お風呂
「ただいま」
部屋に入ると、喜中さんの姿はもうなかった。鍵を探しに行ったんだろうか
「今日からここが君の家だよ。靴は脱いでね」
土足のままトタトタ歩いていく時雨に一言。小さな手で、汚れた靴を脱ぎ始める。靴下は履いていなかった。
これは、靴買ってあげたほうがいいな。服はもらったみたいだけど、フードじゃ流石にこれから暑いだろう。
「さて、まずは身体を洗おうか」
物珍しそうに家の中をキョロキョロと見回す時雨の、腹を掴んで持ち上げる。
言葉を全く発しないので怯えているのかと思いきや、ただ周りのものに興味が移っていただけだった。
抱えあげた僕のことを、純粋無垢の瞳で見上げてくる。
「すぐ分かるからね」
お風呂は玄関の近く。さっきまで喜中さんが入っていたのか、若干中は濡れていた。
「はい、手を上げてねー」
時雨にバンザイの姿勢を取らせて、服を脱がせる。すると、ビクリと身体を震わせ、怯えたようにこちらを見た。
「大丈夫だよ。痛いことなんてしないから」
ポンポン、と頭を叩いて、残りも全部脱がせる。僕も上の服を一枚脱いで、シャツだけになった。
風呂桶にお湯は溜まっていないけど、汚れを落とすにはシャワーだけで十分だろう。
「うし、ここに座って」
バスチェアに座らせると、ますますカタカタと震え始めた。ギュッと目を瞑って、恐怖に耐えているご様子。
「大丈夫だから、ね?」
声をかけても、震えが治まる様子はない。
目は瞑っているので、遠慮なく頭からシャワーをかける。
頭だけ濡らして、シャワーは出しっぱなしにしておく。寒いしね。
「目瞑っておいてねー」
時雨の手に、グッと力が入る。そしてなぜか、口を大きく開ける。
「口もまだ開けないでねー?」
さすがにシャンプーしながら歯ブラシはできない。歯ブラシが苦手なのかな。
手にシャンプーをつけて、ゴシゴシと洗う。その間も、時雨の震えが止まることはなかった。
顔とか洗うのが怖いのかな。なら、先に歯磨いたほうがいいか。
頭にシャワーをかけて、シャンプーを落としていく。
「もう目開けていいよ」
少しづつ目を開ける。元々持っていた予備の歯ブラシを持ってきて、歯磨き粉をつける。
「よし、口開いてー」
時雨の正面に移動して、屈んでから言う。恐る恐るながら、口を開いてくれた。
「よしよし、いい子だね」
歯ブラシでさっさと磨いていく。震えは徐々に引いていき、特に問題はなかった。
「ほい、口に水入れて」
シャワーの水を手に乗せて、時雨の口に含ませる。
「グチュグチュしてー」
濯いでって言っても分からないと思うから、擬音で表す。
「ペっ、て……」
僕の言葉が全部終わるまでに、ごくん、と飲み込んだ。
「飲んじゃダメだからね……」
喉に詰まらせたのか、小さく咳き込む。背中をさすってあげると、時雨は潤んだ目で僕を見た。吐き気を堪えるように、口はきつく結んでいる。
お風呂に入るだけでもこれほどなんてね。これから、大変そうだなぁ。
*
身体を洗った後、フードは綺麗だったので、そのまま着させた。下着はアキラに電話して、買ってきてもらった。買えとは言ってない、断じて。
一緒に、くまの着ぐるみのパジャマも持ってきてくれたので、フードは洗濯に出してそっちを着てもらった。二度手間だけど、まあ助かった。
時雨は疲れてしまったんだろう、ソファーでそのまま寝てしまった。
毛布をかけてあげて、廊下を拭いて。そんなこんなで午後六時。
味噌汁を作り終えたとき、丁度、喜中さんが帰ってきた。
帰ってきたって表現もおかしいか。
「おかえり、鍵見つかった?」
「た、ただいま那谷くん。鍵見つかったよ!」
リビングの扉を開けた瞬間に、台所から聞く。本当は、どこにあったかなんて知っているけれど、知らないフリ。
「おー、よかったね。どこにあったの?」
「それは……」
逃げ口を探そうと忙しなく動き回り、くまパジャマの時雨を見つける喜中さん。
「あ、この子どうしたの! かわいいね!」
会話の流れを断ち切って、不自然に別の話題を振ってくる。
いじわるするのもやめておこうか。
「かわいいでしょ? 時雨って言うんだよ」
「へ、へー。時雨くんかぁ、いい名前だね!」
焦っているせいで、どうしてここにいるのかは聞き返してこないようだ。話す手間が省けた。
「今は寝てるし、もうちょっと静かにしてあげてね」
「あ、ごめんなさい」
にこやかに言うと、喜中さんは声のトーンを下げてくれた。もうちょっとしたら夕御飯だし、起こすけどね。
「ええっと」
冷蔵庫から豚肉のパックを取り出して、閉めてからもう一つ使う品を思い出す。
パックを端に置いておいて、同じく冷蔵庫からほうれん草パックを取り出した。
味噌汁だけじゃあ物足りないし、もう一品作ってもいいところ。
後は包丁とまな板と色々と。
「子供って純粋なんだね」
暖かで、寂しそうな声。
振り返ると、喜中さんが椅子に座って、時雨を食い入るように見つめていた。
どうしたんだろう、急に。
「そだね」
気にならなかったわけじゃない。でも余計なことは聞かず、無難に返事をして作業に戻る。藪をつついて変なものを出したくない――そう思った矢先。
「聞いてくれてもいいんだよ?」
まるで心を見通したかのように、喜中さんが言う。冷たくて、冷酷に感じた。
つつかずとも出てきた蛇に、言葉に詰まってしまう。
頭の中で話すことをまとめながら、豚肉のパックを開ける。
「ふふふ。変なこと言ったよね、ごめんなさい」
雰囲気を和らげ、控えめに笑う喜中さん。
その言葉に、何か、違和感を感じた。とはいえ、今気にする必要もない、か。
ないけど
「喜中さんって凄いんだね。なんだか心の中を見られた気分だよ」
「え? そ、そんなことないよ! 人の心なんて見れりゅわけないもん!」
ピンポイントで反応した上に、言葉を噛むまでの慌てっぷり。わかりやす過ぎて、つい噴き出す。
「那谷くんが変なこと言うからだよ! 笑わないでよ!」
「そんな焦るようなこと言ったかなぁ」
恥ずかしそうに叫ぶ喜中さんに、からかい気味に僕は言った。実際、大したことは言っていない。
洗った豚肉をまな板に置いて、トントントンとリズムを刻んでいく。
「でもよかったよ、自然と会話してくれて。不安だったんだ、嫌なのに、無理やり大丈夫なフリしてるかって」
安心感から、つい本音を吐露してしまう。
「全然大丈夫! 私、楽しいよ!」
「うん、ありがとう」
喜中さんの元気な声に、また安心させられる。僕は豚肉をフライパンに投入して、次にほうれん草を刻んでいく。
「いつか、また聞くよ」
「う……」
不意をついた僕の言葉に、言葉を詰まらせる。作業しながらなので、表情を伺うことができないのが残念だ。
でも、顔を見る必要なんてなかった。
「……うん、覚えておくね」
しばらく経ってから耳に届いた声は、確かに憂いの色を帯びていた。




