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果てしなき果てへ  作者: アオメダカ
第一部
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1/1

第零話 ― 亡国の王女

一、


 赤い。


 目の前に、赤い刃があった。


 「黙ってご同行願いたい。聖女、ナルディア・ミ・ラナーグ殿」


 ああ、またそれだ。


 聖女というものが、これほど疎ましいものだとは、なってみるまで知らなかった。できることなら、この身に貼りついた『聖女』という名を剥がして捨ててしまいたかった。


 けれど、いまはそれどころではなかった。


 馬車の扉が外から開け放たれている。夜風が鉄錆の匂いを運んでくる。覆面の男が濡れた刃を提げ、私を見下ろしていた。目元だけが切り取られたように覗いている。


 ――ロウさんと、ハルトさんは。


 恐怖よりも先に、その名が浮かんだ。


 ついさっきまで、この馬車の左右を固めていた二人の聖騎士だ。


 彼らは、私を聖都へ運ぶために付けられただけの人たちだった。聖女がどうとか、繁栄がどうとか。そんな大層なことには縁のない、ただの護衛。


 それでも道中、年嵩のロウさんは、ぽつりと訊いてくれた。


 故郷の作は、今年はどうだった、と。


 攫われるように連れてこられ、ずっと俯いていた私に。


 私が「麦の育ちが今ひとつで」と答えると、彼は「そうか」と頷き、それきり何も言わなかった。


 けれど、その不器用な気遣いが、あのときどれだけ有り難かったか。


 その二人の姿が、いま、どこにもない。


 馬車の外。地面に、動かない影が見えた気がした。


 ――嘘。


 喉の奥が締めつけられた。


 私のせいだ。


 私を運んでいたばかりに、あの人たちは。


 「あの人たちは」


 気づけば、声が出ていた。


 「私の護衛の人たちは、どうなったのですか」


 自分でも、なぜそれを最初に訊いたのか分からなかった。


 もっと訊くべきことがあったはずなのに。この刃が、次は私に向くのかもしれないのに。


 それでも、あの二人の安否のほうが先に口をついて出た。


 「案ずるな。手荒なことはしていない。眠っているだけだ」


 嘘だ、と思った。


 あの地面の影は。


 けれど、それを問い詰める勇気はなかった。


 考えなさい。


 頭の隅で、誰かが囁く。


 泣いている場合ではない。この状況を少しでも理解しなければ。相手が何を望んでいるのか分からなければ、逃げる隙も、命乞いの糸口も掴めない。


 畑仕事で覚えたことが、ひとつだけある。


 困ったときほど、手を止めてはいけない。


 土がどれだけ痩せていても、種を蒔く手を止めれば、それきりなのだ。


 私は震える声を、どうにか動かした。


 「……私に、そこまでする価値があるのですか」


 情報を引き出さなければ。


 この人たちが、何のために私を狙うのか。それが分かれば、あるいは。


 「我らは頼まれただけだ。――だが、貴方を狙う者は多い。その価値を知らぬのは、貴方だけだ」


 狙う者は多い。


 その言葉の意味を問い返そうとした、その時だった。


 瞬きの間だった。


 覆面の男の身体が腰のあたりから、くの字に折れて崩れ落ちた。


 まるで、見えない拳に殴り飛ばされたように。


 続いて馬車の外で、二度、三度。何かが叩きつけられる音。


 短い苦鳴。


 そして、静寂。


 ――何。


 何が起きているの。


 さっきの襲撃者たちが、今度は別の何かに。


 ――でも、なぜ、いま。


 白く濁りかけた頭の隅で、ほんの一瞬そう思った。


 この男たちが私を襲った、まさにその時。


 私が刃を突きつけられた、まさにその瞬間。


 まるで、ずっと物陰でこの時を待っていたかのように。


 誰かが、私が襲われることをあらかじめ知っていたかのように。


 けれど、その考えは続く恐怖に、すぐかき消された。


 馬車の入口の縁に、骨張った手がかかった。


 農作業で日に焼けた、あの二人の騎士の手とは違う。硬く叩き固められ、タコの浮いた手。


 その手に力がこもったと思った次の瞬間、男が一人、馬車のなかへ獣のように飛び込んできた。


 黒髪。


 私と同じ色。


 瞳も、深い黒。


 けれど、その目の奥に何か、ぞっとするものがあった。


 追い詰められた獣が、牙を剥く直前のあの目。


 「聖女だな」


 ただ、その一言。


 問い返す間もなかった。


 腰を引き寄せられ、藁束のように肩へ担ぎ上げられる。すさまじい力だった。抵抗など、できるはずもない。


 この人は、あの襲撃者たちを瞬きの間に叩き伏せた。


 でも、助けに来たのではない。


 それだけは、本能で分かった。


 覆面の男たちよりも、この人のほうがずっと恐ろしい。


 より強く、より底の知れない何か。


 私は、覆面の男から逃れられたのではなかった。


 もっと得体の知れないものに掴まれたのだ。


 「口を閉じておけ。舌を噛むぞ」


二、


 夜風が顔を打った。


 揺らされている、と気づいたのは少し経ってからだ。


 男は走っていた。


 二頭立ての馬車が、みるみる遠ざかってゆく。地に倒れた影が二つ、三つ。


 誰も動かない。


 ――ロウさん。ハルトさん。


 やはり、と思った。


 眠っているだけ、なんて嘘だった。


 あの人たちは、私を運んでいたばかりに。


 今年の作はどうだった、と訊いてくれた、あの人が。


 途端に寒気が走った。指先が冷たくなる。


 次は、私だ。


 この得体の知れない男に担がれ、どこかへ連れて行かれて。


 あの二人と同じことになる。


 いや、もっと酷いことになるのかもしれない。


 攫われて、酷い、口にできないような目にあわされて、最期は――。


 そう思った途端、あれほど頼りにしてきた鎧が、あっけなく剥がれ落ちた。


 いつもの癖で、頬の内側を噛んでいた。


 笑みを作ろうとするときの、あの癖。


 故国を後にしたあの夜から、恐ろしいときほど、悲しいときほど、私はそうして唇を持ち上げてきた。


 そうすれば、誰も私の中身を覗き込めない。


 笑みは、私がただひとつ身につけた鎧だった。


 頬の内側には、いつからか噛みすぎて硬くなった痕がある。指で確かめられるほどの小さな瘡蓋。


 それが、私の鎧の裏地だった。


 けれど、いまは違った。


 唇は持ち上がるどころか、みっともなく震えるばかり。


 そして、噛んだ歯が止まらない。


 笑みを作るためではなく、ただ恐怖のあまり。


 奥歯が、あの硬い瘡蓋を、ぎり、と噛み破っていた。


 口のなかに、鉄の味がじわりと滲んだ。


 自分の血だ、と遅れて気づいた。


 ――ああ。


 鎧が壊れている。


 私を守るはずの癖が、いまは私自身を噛み破っている。


 それほどに怖い。


 殺されるかもしれない。


 この得体の知れない男に。


 あの二人の騎士のように。


「……やだ」


 思わず、声が漏れた。


 血の味の混じった声だった。


「……やだ、やだ、離して……!」


 揺れて、また舌を噛んだ。


 それでも止まらなかった。


 死にたくなかった。


三、


 数百年に一度、生まれるという聖女。


 国に繁栄をもたらす、伝説の少女。


 預言者がその名を私だと告げたのは、つい一月ほど前のこと。


 あのとき私は、麦畑にいた。


 膝をつき、掌の土を湿らせ、蒔いた種を指で押さえていた。


 私の領地は貧しい。この時期ばかりは上下の別なく、皆が土に膝をつく。爪の間に入り込んだ黒い土の感触を、いまも覚えている。


 そこへ聖騎士が乗りつけた。


 馬蹄が畦を蹴散らし、乾いた土埃が立った。


 私は半ば攫われるように連れ出された。掌の土を払う暇もなく。


 振り返れば、鍬を握ったまま立ち尽くす妹――エリシュアの姿があった。


 「姉さま、ナルディア姉さま」


 繰り返す、その声。


 私は何ひとつ、言葉を返せなかった。


 いま、担がれて夜を運ばれながら、そのことばかりが頭をよぎる。


 行ってくる、でもよかった。


 すぐ戻る、と嘘をついてもよかった。


 せめて名前を呼び返すことくらい、できたはずなのに。


 土に汚れた妹の頬。


 見開かれた目。


 あれが、別れの最後の一枚になった。


 もし、ここで私が死ねば。


 あの子への一言は、永遠に返せないままだ。


 だから――生きたい。


 こんな男に担がれて、殺されるわけにはいかない。


 「殺さないで……! 何でもするから……」


 男の背中を、こぶしで叩いていた。


 あれほど怖かったはずなのに。


 鉄のように固い背中だった。


 「……お願い、お願いだから」


 ぼろぼろに泣いていた。


 私、弱いんだよ。


 無力なんだよ。


 聖女なんて、名ばかりで。


 何ひとつ、できないんだよ。


 「帰して……ラナーグに、あそこに帰してよぉ――!」


四、


 しばらく、男は何も言わなかった。


 ただ走り続ける、その背中の鼓動だけが頬越しに伝わってくる。


 やがて、低い声が落ちてきた。


 「……騒ぐな。舌を噛むと言っただろう」


 冷たい声だった。


 けれど、そこに苛立ちや殺意のようなものはなかった。


 むしろ、疲れているような。


 何か重いものを引きずっているような声。


 「殺しはしない」


 その一言に、こぶしが止まった。


 「……本当ですか」


 「お前を殺して、俺に何の得がある。――俺には、お前の力が必要なんだ。それが済めば、帰してやってもいい」


 帰してやってもいい。


 その言葉を、口のなかで繰り返した。


 血の味は、まだ残っていた。


 帰れる。


 もしかしたら私は、帰れるのかもしれない。


 エリシュアに、もう一度。


 あの一言を返しに。


 けれど、すぐにその甘い考えを打ち消した。


 信じてはいけない。


 この人は、あの襲撃者たちを瞬きの間に叩き伏せた男だ。


 それほどの手練れが、追い詰められた獣のような目をして私を担いでいる。得体が知れなさすぎる。


 それに――さっき、覆面の男も言ったではないか。


 手荒なことはしていない。眠っているだけだ、と。


 あれが真っ赤な嘘だったことを、私はもう知っている。


 人の言葉は、こんなにも簡単に嘘を纏う。


 なら、この人の「殺さない」も、どこまで本当か。


 鵜呑みにするほど、私は――。


 「……あの人たちは。私の護衛の人たちは、本当に無事なんですか」


 声が震えた。


 男の足が、わずかに乱れた気がした。


 「……俺は、あいつらには手を出しちゃいない」


 低い声だった。


 「あの覆面どもがやったことだ。俺が来たときには、もう倒れていた。生きているか、死んでいるか――そこまでは確かめている暇はなかった」


 嘘か、本当か。


 分からなかった。


 けれど、「そこまでは確かめている暇はなかった」と下手に取り繕わない、その不器用な言い方。


 ――この人は。


 完全な悪人ではないのかもしれない。


 そう思ってしまう自分がいた。


 危うい、と分かっていながら。


 いや、油断してはいけない。


 たとえこの人が根っからの悪人でなくとも、いまの私は、この人に命を握られている。


 担がれて、運ばれて、抵抗する力もない。


 物のように扱われている。


 ――物では、ない。


 ふと、胸の奥で何かが固まった。


 離宮で王子たちに値踏みされたときと、同じ屈辱。


 あの、畜舎の家畜を見るような乾いた目。


 あれと同じになって、たまるものか。


 たとえ、命を握られていても。


 言うべきことは、言わなければ。


 泣いているだけでは、何も変わらない。


 それは聖都に連れて来られたときに、嫌というほど思い知った。


五、


 息を深く吸った。


 夜風が、ようやく冷たく感じられた。


 「……約束してください」


 まず、それが出た。


 理屈も前置きもなく。


 これだけは、確かめずにいられなかった。


「なんだ」


「……私に、酷いことをしないと。約束してください」


「酷いこと?」


「……女の私に言わせないでください。察してください」


 担がれて、運ばれて、命を握られて。


 それでも、これだけはうやむやにしたくなかった。


 せめて、これだけは。


 押さえるべきところは、押さえておかなければ。


 泣いて、流されて、気づいたら取り返しのつかないことになっている――そんなのは、まっぴらだった。


 ほんの一瞬の沈黙のあと、男はぎょっとしたように言葉を返してきた。


 「……おまえ、そんな子供のような身体つきで、何を言って――痛っ、髪を引っ張るな、引っ掻くな! 猫か何かか、おまえはっ」


 背中が硬いなら、こうするしかないでしょうに。


 というか、子供のような、とは何ですか。


 失礼な。


 涙の余韻と、恐怖と、怒りと、気恥ずかしさがぐちゃぐちゃに混ざって、頭のなかが忙しい。


 それでも、口だけは動いた。


 「うるさいですよ! ――あと、ついでに言わせていただきますけど」


 「まだ何かあるのか」


 「待遇の改善を要求します。私が必要なんですよね? それなら、大事に扱ってください。せめて、おぶってください!」


 言ってしまってから、自分でも驚いた。


 さっきまで「お願いだから」と血の味の混じった声で泣いていた口で、要求だなんて。


 男は、しばらく無言だった。


 それから、深く息を吐いた。


 呆れたような、けれど、どこか張り詰めていたものがほんの少しだけ緩んだような、そんな息だった。


 「……調子が狂う」


 小さく、そう呟くのが聞こえた。


 そして、しぶしぶといった様子で、私を背中におぶりなおしてくれた。


 ――え。


 思わず拍子抜けした。


 聞いてくれるんだ。


 攫った相手の、こんな我儘を。


 殺すの、酷いことをするの、と怯えていた私の「待遇を改善しろ」だなんて、そんな図々しい要求。


 命を握られた側がこんなことを言えば、普通は「黙れ」と殴られてもおかしくない。


 それなのに、この人は、しぶしぶとはいえ聞いてくれた。


 まるで、私の機嫌を損ねたくないみたいに。


 まるで、私に嫌われたくないみたいに。


 ――攫った相手に、嫌われたくない誘拐犯なんて。


 おかしな話だった。


 けれど、その違和感を深く考える余裕はなかった。


 いまはまだ、この男が信じられない。


 次の瞬間には気が変わって、刃を向けてくるかもしれない。


 その警戒と、口のなかの血の味。


 そのふたつで、頭がいっぱいだったから。


 肩越しに見えた横顔は、私より二、三歳ほど年上だろうか。


 あるいは、同年代。


 それぐらいに見える。


 思っていたよりも、ずっと若い。


 こんな若さで、あの追い詰められたような目を。


 この人は、何を抱えて生きてきたのだろう。


 「とにかく、小一時間もすれば着く。それまで騒がず、静かにしていてくれ。――騒いだら、それなりの対処をさせてもらう」


 そう言って最後に、用意していた外套を頭から被せられた。


 顔や服装を隠すためでもあるのだろう。


 ――用意していた。


 そのことに、またかすかな引っかかりを覚えた。


 まるで、私を連れ去ることが最初から決まっていたかのように。


 私の身体を隠す外套まで、あらかじめ用意して。


 偶然、通りかかって助けたのではない。


 この人は、私がここにいることを知っていた。


 私が襲われることも、知っていた。


 だから、こうして待ち構えていた。


 ――でも、なぜ。


 その問いも、恐怖と混乱の中にまた溶けて消えた。


 いまは考えられない。


 ただ、担がれたまま運ばれていくしかない。


 再び、私を背に乗せたままの疾走が始まった。


 十メルテはあろうかという城壁すら、彼はわずかな凹凸を足がかりに、二跳びで飛び越えていく。


 聖都の城下町へ。


 街の闇の底へと、迷いなく身を躍らせる。


 この先に、何が待っているのか。


 この得体の知れない男は、私の「聖女」という名のものを何に使うつもりなのか。


 なぜ、私がここにいると知っていたのか。


 そして私は、エリシュアのもとへ本当に帰れるのか。


 何ひとつ、分からなかった。


 ただ心臓の音だけが、期待と不安と、拭いきれない怖れで、やかましく鳴り響いていた。……………………………………………………………………………

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