第零話 ― 亡国の王女
一、
赤い。
目の前に、赤い刃があった。
「黙ってご同行願いたい。聖女、ナルディア・ミ・ラナーグ殿」
ああ、またそれだ。
聖女というものが、これほど疎ましいものだとは、なってみるまで知らなかった。できることなら、この身に貼りついた『聖女』という名を剥がして捨ててしまいたかった。
けれど、いまはそれどころではなかった。
馬車の扉が外から開け放たれている。夜風が鉄錆の匂いを運んでくる。覆面の男が濡れた刃を提げ、私を見下ろしていた。目元だけが切り取られたように覗いている。
――ロウさんと、ハルトさんは。
恐怖よりも先に、その名が浮かんだ。
ついさっきまで、この馬車の左右を固めていた二人の聖騎士だ。
彼らは、私を聖都へ運ぶために付けられただけの人たちだった。聖女がどうとか、繁栄がどうとか。そんな大層なことには縁のない、ただの護衛。
それでも道中、年嵩のロウさんは、ぽつりと訊いてくれた。
故郷の作は、今年はどうだった、と。
攫われるように連れてこられ、ずっと俯いていた私に。
私が「麦の育ちが今ひとつで」と答えると、彼は「そうか」と頷き、それきり何も言わなかった。
けれど、その不器用な気遣いが、あのときどれだけ有り難かったか。
その二人の姿が、いま、どこにもない。
馬車の外。地面に、動かない影が見えた気がした。
――嘘。
喉の奥が締めつけられた。
私のせいだ。
私を運んでいたばかりに、あの人たちは。
「あの人たちは」
気づけば、声が出ていた。
「私の護衛の人たちは、どうなったのですか」
自分でも、なぜそれを最初に訊いたのか分からなかった。
もっと訊くべきことがあったはずなのに。この刃が、次は私に向くのかもしれないのに。
それでも、あの二人の安否のほうが先に口をついて出た。
「案ずるな。手荒なことはしていない。眠っているだけだ」
嘘だ、と思った。
あの地面の影は。
けれど、それを問い詰める勇気はなかった。
考えなさい。
頭の隅で、誰かが囁く。
泣いている場合ではない。この状況を少しでも理解しなければ。相手が何を望んでいるのか分からなければ、逃げる隙も、命乞いの糸口も掴めない。
畑仕事で覚えたことが、ひとつだけある。
困ったときほど、手を止めてはいけない。
土がどれだけ痩せていても、種を蒔く手を止めれば、それきりなのだ。
私は震える声を、どうにか動かした。
「……私に、そこまでする価値があるのですか」
情報を引き出さなければ。
この人たちが、何のために私を狙うのか。それが分かれば、あるいは。
「我らは頼まれただけだ。――だが、貴方を狙う者は多い。その価値を知らぬのは、貴方だけだ」
狙う者は多い。
その言葉の意味を問い返そうとした、その時だった。
瞬きの間だった。
覆面の男の身体が腰のあたりから、くの字に折れて崩れ落ちた。
まるで、見えない拳に殴り飛ばされたように。
続いて馬車の外で、二度、三度。何かが叩きつけられる音。
短い苦鳴。
そして、静寂。
――何。
何が起きているの。
さっきの襲撃者たちが、今度は別の何かに。
――でも、なぜ、いま。
白く濁りかけた頭の隅で、ほんの一瞬そう思った。
この男たちが私を襲った、まさにその時。
私が刃を突きつけられた、まさにその瞬間。
まるで、ずっと物陰でこの時を待っていたかのように。
誰かが、私が襲われることをあらかじめ知っていたかのように。
けれど、その考えは続く恐怖に、すぐかき消された。
馬車の入口の縁に、骨張った手がかかった。
農作業で日に焼けた、あの二人の騎士の手とは違う。硬く叩き固められ、タコの浮いた手。
その手に力がこもったと思った次の瞬間、男が一人、馬車のなかへ獣のように飛び込んできた。
黒髪。
私と同じ色。
瞳も、深い黒。
けれど、その目の奥に何か、ぞっとするものがあった。
追い詰められた獣が、牙を剥く直前のあの目。
「聖女だな」
ただ、その一言。
問い返す間もなかった。
腰を引き寄せられ、藁束のように肩へ担ぎ上げられる。すさまじい力だった。抵抗など、できるはずもない。
この人は、あの襲撃者たちを瞬きの間に叩き伏せた。
でも、助けに来たのではない。
それだけは、本能で分かった。
覆面の男たちよりも、この人のほうがずっと恐ろしい。
より強く、より底の知れない何か。
私は、覆面の男から逃れられたのではなかった。
もっと得体の知れないものに掴まれたのだ。
「口を閉じておけ。舌を噛むぞ」
二、
夜風が顔を打った。
揺らされている、と気づいたのは少し経ってからだ。
男は走っていた。
二頭立ての馬車が、みるみる遠ざかってゆく。地に倒れた影が二つ、三つ。
誰も動かない。
――ロウさん。ハルトさん。
やはり、と思った。
眠っているだけ、なんて嘘だった。
あの人たちは、私を運んでいたばかりに。
今年の作はどうだった、と訊いてくれた、あの人が。
途端に寒気が走った。指先が冷たくなる。
次は、私だ。
この得体の知れない男に担がれ、どこかへ連れて行かれて。
あの二人と同じことになる。
いや、もっと酷いことになるのかもしれない。
攫われて、酷い、口にできないような目にあわされて、最期は――。
そう思った途端、あれほど頼りにしてきた鎧が、あっけなく剥がれ落ちた。
いつもの癖で、頬の内側を噛んでいた。
笑みを作ろうとするときの、あの癖。
故国を後にしたあの夜から、恐ろしいときほど、悲しいときほど、私はそうして唇を持ち上げてきた。
そうすれば、誰も私の中身を覗き込めない。
笑みは、私がただひとつ身につけた鎧だった。
頬の内側には、いつからか噛みすぎて硬くなった痕がある。指で確かめられるほどの小さな瘡蓋。
それが、私の鎧の裏地だった。
けれど、いまは違った。
唇は持ち上がるどころか、みっともなく震えるばかり。
そして、噛んだ歯が止まらない。
笑みを作るためではなく、ただ恐怖のあまり。
奥歯が、あの硬い瘡蓋を、ぎり、と噛み破っていた。
口のなかに、鉄の味がじわりと滲んだ。
自分の血だ、と遅れて気づいた。
――ああ。
鎧が壊れている。
私を守るはずの癖が、いまは私自身を噛み破っている。
それほどに怖い。
殺されるかもしれない。
この得体の知れない男に。
あの二人の騎士のように。
「……やだ」
思わず、声が漏れた。
血の味の混じった声だった。
「……やだ、やだ、離して……!」
揺れて、また舌を噛んだ。
それでも止まらなかった。
死にたくなかった。
三、
数百年に一度、生まれるという聖女。
国に繁栄をもたらす、伝説の少女。
預言者がその名を私だと告げたのは、つい一月ほど前のこと。
あのとき私は、麦畑にいた。
膝をつき、掌の土を湿らせ、蒔いた種を指で押さえていた。
私の領地は貧しい。この時期ばかりは上下の別なく、皆が土に膝をつく。爪の間に入り込んだ黒い土の感触を、いまも覚えている。
そこへ聖騎士が乗りつけた。
馬蹄が畦を蹴散らし、乾いた土埃が立った。
私は半ば攫われるように連れ出された。掌の土を払う暇もなく。
振り返れば、鍬を握ったまま立ち尽くす妹――エリシュアの姿があった。
「姉さま、ナルディア姉さま」
繰り返す、その声。
私は何ひとつ、言葉を返せなかった。
いま、担がれて夜を運ばれながら、そのことばかりが頭をよぎる。
行ってくる、でもよかった。
すぐ戻る、と嘘をついてもよかった。
せめて名前を呼び返すことくらい、できたはずなのに。
土に汚れた妹の頬。
見開かれた目。
あれが、別れの最後の一枚になった。
もし、ここで私が死ねば。
あの子への一言は、永遠に返せないままだ。
だから――生きたい。
こんな男に担がれて、殺されるわけにはいかない。
「殺さないで……! 何でもするから……」
男の背中を、こぶしで叩いていた。
あれほど怖かったはずなのに。
鉄のように固い背中だった。
「……お願い、お願いだから」
ぼろぼろに泣いていた。
私、弱いんだよ。
無力なんだよ。
聖女なんて、名ばかりで。
何ひとつ、できないんだよ。
「帰して……ラナーグに、あそこに帰してよぉ――!」
四、
しばらく、男は何も言わなかった。
ただ走り続ける、その背中の鼓動だけが頬越しに伝わってくる。
やがて、低い声が落ちてきた。
「……騒ぐな。舌を噛むと言っただろう」
冷たい声だった。
けれど、そこに苛立ちや殺意のようなものはなかった。
むしろ、疲れているような。
何か重いものを引きずっているような声。
「殺しはしない」
その一言に、こぶしが止まった。
「……本当ですか」
「お前を殺して、俺に何の得がある。――俺には、お前の力が必要なんだ。それが済めば、帰してやってもいい」
帰してやってもいい。
その言葉を、口のなかで繰り返した。
血の味は、まだ残っていた。
帰れる。
もしかしたら私は、帰れるのかもしれない。
エリシュアに、もう一度。
あの一言を返しに。
けれど、すぐにその甘い考えを打ち消した。
信じてはいけない。
この人は、あの襲撃者たちを瞬きの間に叩き伏せた男だ。
それほどの手練れが、追い詰められた獣のような目をして私を担いでいる。得体が知れなさすぎる。
それに――さっき、覆面の男も言ったではないか。
手荒なことはしていない。眠っているだけだ、と。
あれが真っ赤な嘘だったことを、私はもう知っている。
人の言葉は、こんなにも簡単に嘘を纏う。
なら、この人の「殺さない」も、どこまで本当か。
鵜呑みにするほど、私は――。
「……あの人たちは。私の護衛の人たちは、本当に無事なんですか」
声が震えた。
男の足が、わずかに乱れた気がした。
「……俺は、あいつらには手を出しちゃいない」
低い声だった。
「あの覆面どもがやったことだ。俺が来たときには、もう倒れていた。生きているか、死んでいるか――そこまでは確かめている暇はなかった」
嘘か、本当か。
分からなかった。
けれど、「そこまでは確かめている暇はなかった」と下手に取り繕わない、その不器用な言い方。
――この人は。
完全な悪人ではないのかもしれない。
そう思ってしまう自分がいた。
危うい、と分かっていながら。
いや、油断してはいけない。
たとえこの人が根っからの悪人でなくとも、いまの私は、この人に命を握られている。
担がれて、運ばれて、抵抗する力もない。
物のように扱われている。
――物では、ない。
ふと、胸の奥で何かが固まった。
離宮で王子たちに値踏みされたときと、同じ屈辱。
あの、畜舎の家畜を見るような乾いた目。
あれと同じになって、たまるものか。
たとえ、命を握られていても。
言うべきことは、言わなければ。
泣いているだけでは、何も変わらない。
それは聖都に連れて来られたときに、嫌というほど思い知った。
五、
息を深く吸った。
夜風が、ようやく冷たく感じられた。
「……約束してください」
まず、それが出た。
理屈も前置きもなく。
これだけは、確かめずにいられなかった。
「なんだ」
「……私に、酷いことをしないと。約束してください」
「酷いこと?」
「……女の私に言わせないでください。察してください」
担がれて、運ばれて、命を握られて。
それでも、これだけはうやむやにしたくなかった。
せめて、これだけは。
押さえるべきところは、押さえておかなければ。
泣いて、流されて、気づいたら取り返しのつかないことになっている――そんなのは、まっぴらだった。
ほんの一瞬の沈黙のあと、男はぎょっとしたように言葉を返してきた。
「……おまえ、そんな子供のような身体つきで、何を言って――痛っ、髪を引っ張るな、引っ掻くな! 猫か何かか、おまえはっ」
背中が硬いなら、こうするしかないでしょうに。
というか、子供のような、とは何ですか。
失礼な。
涙の余韻と、恐怖と、怒りと、気恥ずかしさがぐちゃぐちゃに混ざって、頭のなかが忙しい。
それでも、口だけは動いた。
「うるさいですよ! ――あと、ついでに言わせていただきますけど」
「まだ何かあるのか」
「待遇の改善を要求します。私が必要なんですよね? それなら、大事に扱ってください。せめて、おぶってください!」
言ってしまってから、自分でも驚いた。
さっきまで「お願いだから」と血の味の混じった声で泣いていた口で、要求だなんて。
男は、しばらく無言だった。
それから、深く息を吐いた。
呆れたような、けれど、どこか張り詰めていたものがほんの少しだけ緩んだような、そんな息だった。
「……調子が狂う」
小さく、そう呟くのが聞こえた。
そして、しぶしぶといった様子で、私を背中におぶりなおしてくれた。
――え。
思わず拍子抜けした。
聞いてくれるんだ。
攫った相手の、こんな我儘を。
殺すの、酷いことをするの、と怯えていた私の「待遇を改善しろ」だなんて、そんな図々しい要求。
命を握られた側がこんなことを言えば、普通は「黙れ」と殴られてもおかしくない。
それなのに、この人は、しぶしぶとはいえ聞いてくれた。
まるで、私の機嫌を損ねたくないみたいに。
まるで、私に嫌われたくないみたいに。
――攫った相手に、嫌われたくない誘拐犯なんて。
おかしな話だった。
けれど、その違和感を深く考える余裕はなかった。
いまはまだ、この男が信じられない。
次の瞬間には気が変わって、刃を向けてくるかもしれない。
その警戒と、口のなかの血の味。
そのふたつで、頭がいっぱいだったから。
肩越しに見えた横顔は、私より二、三歳ほど年上だろうか。
あるいは、同年代。
それぐらいに見える。
思っていたよりも、ずっと若い。
こんな若さで、あの追い詰められたような目を。
この人は、何を抱えて生きてきたのだろう。
「とにかく、小一時間もすれば着く。それまで騒がず、静かにしていてくれ。――騒いだら、それなりの対処をさせてもらう」
そう言って最後に、用意していた外套を頭から被せられた。
顔や服装を隠すためでもあるのだろう。
――用意していた。
そのことに、またかすかな引っかかりを覚えた。
まるで、私を連れ去ることが最初から決まっていたかのように。
私の身体を隠す外套まで、あらかじめ用意して。
偶然、通りかかって助けたのではない。
この人は、私がここにいることを知っていた。
私が襲われることも、知っていた。
だから、こうして待ち構えていた。
――でも、なぜ。
その問いも、恐怖と混乱の中にまた溶けて消えた。
いまは考えられない。
ただ、担がれたまま運ばれていくしかない。
再び、私を背に乗せたままの疾走が始まった。
十メルテはあろうかという城壁すら、彼はわずかな凹凸を足がかりに、二跳びで飛び越えていく。
聖都の城下町へ。
街の闇の底へと、迷いなく身を躍らせる。
この先に、何が待っているのか。
この得体の知れない男は、私の「聖女」という名のものを何に使うつもりなのか。
なぜ、私がここにいると知っていたのか。
そして私は、エリシュアのもとへ本当に帰れるのか。
何ひとつ、分からなかった。
ただ心臓の音だけが、期待と不安と、拭いきれない怖れで、やかましく鳴り響いていた。……………………………………………………………………………




