屋敷があった夜だけ
屋敷は、毎晩そこにあるわけじゃなかった。
ある夜には確かにあって、ない夜には、初めから何もなかったように消えている。
それに気づいたのは、小学校5年生の頃だった。
友達が1人もいなかった僕は、夜になると家を抜け出して、近所の空き地の前まで行くのが習慣だった。昼間はただの更地で、雑草が伸び放題の、誰も寄りつかない場所だ。
でも、夜になると——ふとそこに屋敷が現れることがあった。
古びた木造の屋敷で、窓は暗く、灯りは一つもなかった。それでも何故か、屋敷の中へ入れるような気がして、僕は最初の夜、門をくぐった。
玄関は開いていた。
「来てくれたのね。」
廊下の奥から声がした。
小柄な老婆が立っていて、白い髪を後ろでまとめ、僕を見ると嬉しそうに笑った。
「ほら、こっちにおいで。遊びましょう。」
その日から、僕はその屋敷に通うようになった。
屋敷があった夜だけ。
老婆との遊びは、いつもどこかおかしかった。
トランプをすれば、めくったカードの場所をすぐに忘れ、さっき自分が見たばかりのカードをまためくって「あら、さっき見たかしら」と首を傾げる。
しりとりもした。でも、「りんご」の次に「さくら」と言ったりして、ルールが途中で崩れる。僕が指摘すると、「そうだったわね。」と言って、笑って、最初からやり直す。
そんなことを、何度も、繰り返した。
それでも僕は、その時間が嫌じゃなかった。
学校では、誰とも話さなかったし、話しかけても、上手く会話が続かず、結局、黙り込んでしまう。
でも、ここでは違った。
老婆は、僕のことを見て、話しかけてくれる。
——ただし、その名前は、毎回、いつも、違っていた。
「タケシくん、今日は元気?」
「僕、タケシじゃないよ」
「あら、そうだったかしら。じゃあ……ユウタくん?」
最後まで、僕は正しい名前で呼ばれることはなかった。
屋敷は、規則的には現れなかった。
3日間続けて現れることもあれば、1週間まったく現れないこともある。現れない夜には、どれだけ探しても、そこには空き地しかなかった。
でも、ある夜には、ちゃんとそこにあった。
そして気づけば、屋敷が現れるのは、決まって僕が1人でいる夜だった。
小学校6年生の夏の日。僕に友達ができた。
きっかけは些細なことだった。同じ班になった人に話しかけられて、それに答えた。それだけで、少しずつ会話が増えて、放課後に一緒に帰るようになった。
気づけば、僕は夜に外へ出なくなっていた。
屋敷のことも、思い出さなくなっていた。
久しぶりに思い出したのは、秋の終わりの頃だった。
なんとなく気になって、夜に空き地まで行ってみた。
すると、あの屋敷があった。
でも、前よりもずっと古びて見えた。壁は剥がれ、窓はひび割れ、今にも崩れそうだった。
屋敷の中に入ると、老婆はすぐに僕に気づいた。
「あら……誰だったかしら。」
その一言で、僕の胸の奥が少しだけ冷えた。
「僕だよ。」
名前を言おうとしたが言わなかった。何故なら、どうせ覚えられていないからだ。
「そう、そう……来てくれたのね。」
老婆は笑った。でも、その笑い方は前よりも曖昧で、どこか焦点が合っていなかった。
その日も、トランプをした。
でも、カードを配ることすら、うまくできていなかった。
途中で手を止めて、僕の顔をじっと見て——
「あなたは……誰だったかしら」
と、もう一度聞いた。
僕は、答えなかった。
その夜を最後に、屋敷は現れなくなった。
1年後。
中学生になった僕は、部活の帰りに、あの場所を通った。
そこは相変わらず、更地のままだった。
近くで、誰かの話し声が聞こえた。
「最近、亡くなったばあさんがいたろ」
「ああ」
「だいぶボケててさ。誰もいないのに、一人で喋ったり遊んだりしてたって話だ」
その言葉で、すべてがつながった。
トランプの場所を何度も忘れたこと。
同じ話を何度も繰り返したこと。
しりとりのルールを間違えたこと。
そして、僕の名前を1度も覚えなかったこと。
全部、遊びじゃなかった。
ただの、ボケた老人の行動だった。
それでも——
あの人は、誰もいない部屋で、
誰かと遊ぶ夢を見ていたらしい。
屋敷があった夜だけ、
その夢のなかに、僕がいた。(終)




