第15話 「読者に、全部見せる。数字のために何を犠牲にしてきたかを」
翌朝。
詩織は、学校に来た。
教室の入口で姿を見た時、正直に言えば——安堵で膝が震えた。
顔色は悪い。目の下に隈がある。制服のリボンはどこかに落としてきたらしい。
でも、立っている。歩いている。生きている。
私は廊下で彼女に近づいた。
「……来たわね」
「来たよ。行くって言ったから」
詩織は小さく笑った。
昨日と同じ、力のない笑顔。でも嘘ではない笑顔。
「放課後、開かずの間に来て。話がある」
「……うん」
それだけ言って、私たちはそれぞれの教室に向かった。
◆
放課後。開かずの間。
引き戸を開けると、詩織はもうそこにいた。
いつもの席。うず高く積まれた本の城壁の向こう側。
ただし——パソコンは開いていなかった。
代わりに、一冊の大学ノートが、膝の上に置かれている。
「昨日のメッセージ」
詩織が口を開いた。
「『読んだ』って。あれ、私の下書きフォルダのファイルのことでしょ」
「……ごめん。勝手に見た」
「いいよ。見てほしかったから、あそこに置いたの」
私は目を見開いた。
「置いた? 忘れたんじゃなくて?」
「パソコンを開かずの間に置いて帰った。リオさんならパスワード知ってるから、見るだろうと思って」
……してやられた。
詩織は「忘れた」のではなく、私に読ませるために置いていったのだ。
直接渡す勇気はなかったから、間接的に。
「卑怯者」
「リオさんに言われたくない」
詩織が少しだけ笑った。
私はパイプ椅子を引いて、彼女の向かいに座った。
二人の間に、埃っぽい長机がある。
最初に出会った時と同じ配置。同じ距離。
「あのファイル、読んだ感想を聞かせて」
詩織が真っ直ぐ私を見た。
怯えはなかった。試すような目でもなかった。
ただ——聞きたい、という目だった。
「……正直に言っていい?」
「うん、正直に」
「マーケターとしての感想と、個人としての感想、どっちが聞きたい?」
「両方」
私は息を吸った。
「マーケターとしては、最悪。あの原稿を今のWeb版の最終回として投稿したら、ブクマが大量に外れる。評価が暴落する。1位の座は一日で崩壊する。書籍化も危うくなるかもしれない。読者が求めているハッピーエンドを裏切る、商業的には自殺行為」
詩織は表情を変えなかった。わかっている、という顔だ。
「個人としては——」
私は言葉を探した。
昨夜、あの五千字を読んだ時の感覚。
涙が出た。
なぜ泣いたのか、まだ正確にはわからない。
でも——。
「——二年ぶりに、小説を読んで泣いた」
詩織の目が、わずかに揺れた。
「あの文章は、あんたにしか書けない。テンプレの型も、検索クエリも、クリフハンガーも、何も使っていない。ただ、一人の人間が、自分の言葉で、自分の物語を書いている。……それだけのものが、どうしようもなく悲しくて、美しかった」
沈黙。
窓の外で、部活帰りの生徒たちの声が遠く聞こえる。
西日が差し込んで、埃っぽい空気がオレンジ色に光っている。
最初に出会った日と、同じ光景だ。
「冒頭の一行。『愛する人を殺す方法は二つある。ナイフで心臓を刺すか、言葉で魂を殺すかだ。私は後者を選んだ』。——あれを読んだ瞬間、背筋に電流が走った」
「……」
「あんたの『毒』は、この一ヶ月半で消えてなかった。テンプレの中で薄められて、編集者の赤ペンで削られて、それでも——あんたの中にはずっとあった。むしろ、抑圧されていた分だけ、濃縮されてる」
詩織の目に、涙が浮かんだ。
でも今回は、泣かなかった。
唇を噛んで、堪えていた。
「リオさん」
「何?」
「私、あれを投稿したい」
わかっていた。
昨夜、「読んだ」と送った時から——この瞬間が来ることは、わかっていた。
「Web版の最終回として。テンプレのハッピーエンドじゃなく、あの結末を」
「……読者は離れるわよ」
「うん」
「ランキングは落ちる。1位は維持できない」
「うん」
「書籍化にも影響する。高田さんは怒るだろうし、最悪、出版中止になるかもしれない」
「うん」
詩織は全部わかった上で、言っている。
「それでも?」
「それでも。——だって、約束したでしょ」
約束。
あの時交わした、約束。
『1位を取ったら、本当に書きたい結末を書いていい』。
先延ばしにし続けた約束。
昨日、「タイミングじゃない」と言いかけて、詩織に「次にそれを言ったら——」と遮られた約束。
「……覚えてるわよ」
「じゃあ」
「でも——」
私は言葉を切った。
ここが、分岐点だ。
マーケターとしての私は「ノー」と言うべきだ。
数字を守れ。1位を維持しろ。書籍化を成功させろ。
それが、一ヶ月半かけて積み上げてきた全てだ。
でも。
昨夜、バックスペースキーで詩織の比喩を一つずつ消していった時の感覚。
高田に「いいですね」と言われた時の、ぞっとする恐怖。
桜が散るのを見て「綺麗だ」と思った、あの懐かしさ。
そして——あの五千字を読んで、泣いた自分。
「……一つだけ、条件がある」
詩織が身を乗り出した。
「何?」
「あの結末を投稿するなら、私にも一つ書かせて」
「……書かせて?」
「あんたの最終話の前に、もう一話だけ。私が書く回を入れたい」
詩織が目を丸くした。
「リオさんが……書くの?」
「プロデューサーの手記。リオ視点の、裏側の物語。なぜこの作品が生まれたのか。なぜタイトルを変えたのか。なぜテンプレを使ったのか。そして——なぜ最後に、テンプレを壊すことを選んだのか」
私の声が、少し震えていた。
「読者に、全部見せる。裏側を。マーケティングの手口を。数字のために何を犠牲にしてきたかを。……そして、それでもこの結末を選ぶ理由を」
詩織が私を見つめていた。
「それは……リオさん自身の物語でしょ」
「そうよ。私の物語。……二年ぶりに、自分の言葉で書く」
二年間、封印していた場所に、手を伸ばそうとしている。
投稿サイトのアプリを非表示にして、スプレッドシートに逃げ込んで、「私は書かない側の人間だ」と自分に言い聞かせてきた。
でも——。
「リオさん」
詩織が立ち上がった。
長机を回り込んで、私の前に来た。
そして——私の両手を、彼女の両手で包んだ。
温かかった。
昨日の、冷たく固まった指とは違う。
「ずっと聞きたかったの。リオさんも、書いてたんでしょ?」
「……昔の話よ」
「昔じゃない。今も書きたいんでしょ。だから、私の文章を読んで泣いたんでしょ」
反論できなかった。
「一緒に書こう」
詩織が言った。
「リオさんが書いて、私が書いて。二人の言葉で、この物語を終わらせよう」
私の目から、涙がこぼれた。
二度目だった。昨夜に続いて、二日連続。
数字の悪魔が泣くなんて、笑える話だ。
「……泣くなんて、らしくないわね」
「うん。でも、似合ってるよ」
「似合ってないわよ、バカ」
私は袖で目を拭い、鼻を啜った。
「……いいわよ。やりましょう。世界を敵に回す覚悟はある?」
「最初からそのつもりだったよ」
詩織が笑った。
今度の笑顔には、力があった。
開かずの間で初めて会った時の「幽霊」でも、数字に追われていた「兵士」でもない。
自分の足で立っている、一人の作家の顔。
◆
その夜。
私は自室のデスクで、二年ぶりにテキストエディタを開いた。
真っ白な画面。点滅するカーソル。
何を書けばいいか、わからなかった。
二年間、他人の文章を分析し、最適化し、模倣することしかしてこなかった指が、自分の言葉を探して彷徨っている。
一文字打っては消す。三文字打っては消す。
詩織に「冒頭三行で読者の脳を殴れ」と教えた自分が、一行目すら書けない。
滑稽だった。
でも——やめない。やめるわけにはいかない。
深夜一時。二時。三時。
五時間かけて、私が書けたのは、たった一行だった。
『私は、一人の天才を壊しかけた。これは、その告白だ。』
それだけ。
たった二十六文字。
でも——自分の言葉だった。
誰の模倣でもない、私自身の声。
画面の白い光が、暗い部屋を照らしている。
二年前、同じように光る画面の前で、私は筆を折った。
「才能がない」「やめろ」と言われて、数字の側に逃げた。
今夜、同じ画面の前に座っている。
でも今度は——隣に、私の言葉を読みたいと言ってくれる人間がいる。
それだけで、もう少し書ける気がした。
私はカーソルを一行目の末尾に置き、エンターキーを押した。
改行。
二行目の、白い空白。
そこに、指を動かし始めた。




