表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

14/15

第14話 「私の文章を、勝手に書き換えたの?」



 高田からの初校が届いたのは、水曜日の夜だった。


 Wordファイル。変更履歴の記録がオン。

 開いた瞬間、画面が赤く染まった。


 削除された箇所が、真っ赤な取り消し線で埋め尽くされている。

 コメントの吹き出しが、右側の余白にびっしりと並んでいる。


 私は一人で、自室のデスクでそれを見ていた。

 詩織にはまだ見せていない。


 スクロールする。


 原文:『彼女の瞳は、深海に沈んだ宝石のように、静寂と冷たさを孕んでいた。』

 修正:『彼女の目は冷たかった。』

 コメント:【比喩が長いです。シンプルに。】


 原文:『夕暮れがアスファルトを舐めて、影法師が血のように伸びていく。』

 修正:『夕方になり、影が長く伸びていた。』

 コメント:【「舐める」「血」はイメージがネガティブすぎます。もっと明るく。】


 ——あの一文。

 詩織と初めて会った日、私が「あんたの文章には毒がある」と言った、あの一文。

 それすらも、赤い線で消されていた。


 交渉で勝ち取った「各話二箇所」の原文保持。

 高田はその約束を守っていた。確かに、各話二箇所は残っている。

 でも——それ以外の全てが、赤く塗りつぶされていた。


 残ったのは骨格だけ。

 テンプレの構造。キャラの台詞。プロットの動き。

 詩織の「毒」——比喩、情景描写、心理の深層——は、ほとんど削られている。


 これを、詩織に見せなければならない。


 ……まだだ。まだ見せなくていい。


 私はWordファイルを複製した。

 一つは高田に返す用。もう一つは——私が、事前に修正する用。


 詩織の負担を減らすために。

 赤字の量を減らしてから見せれば、ショックは軽くなる。


 私は修正作業を始めた。

 深夜一時。二時。三時。


 詩織の比喩を削り、平易な表現に書き換える。

 『深海に沈んだ宝石』を、『冷たい目』に。

 『影法師が血のように伸びていく』を、『影が長く伸びていた』に。


 バックスペースキーを押すたびに、何かが死んでいく感覚があった。


 でも——不思議なことに、私の手は止まらなかった。

 書き換えの速度は、時間が経つほど上がっていく。

 詩織の文体を模倣することに、私は……慣れ始めていた。


 四時。

 修正が終わった。


 完成した原稿を読み返す。

 赤字の半分以上を、私が処理していた。

 残りの半分——各話二箇所の「原文保持」部分と、最低限の修正——だけが、詩織に回す分だ。


 これなら、彼女の負担は半分以下になる。


 ……はずだった。


  ◆


 翌日の放課後。開かずの間。


「初校が来た。見て」


 私は「前処理済み」のファイルを、詩織のパソコンに転送した。

 赤字を半分以上消した、「軽い」バージョン。


 詩織が画面を開いた。


 それでも——彼女の顔から血の気が引いた。


「……赤い」


「初校だから、ある程度は仕方ないわ。でも、思ったより少ないでしょ? 高田さんも、かなり残してくれてる」


 嘘だ。高田の赤字はもっと多かった。私が事前に処理した分を、彼女は知らない。


 詩織がスクロールする。

 一ページ目。二ページ目。三ページ目。


 顔色が、ページをめくるごとに悪くなっていく。


「……『深海に沈んだ宝石』が消えてる」


「それは——高田さんが、比喩が長いって」


「『影法師が血のように伸びていく』も」


「コンプライアンス的に——」


「リオさん」


 詩織が、画面から目を離して私を見た。


「この修正、高田さんだけじゃないよね」


 心臓が跳ねた。


「……何のこと?」


「文章の直し方。高田さんの修正と、もう一人の修正が混ざってる。高田さんは文章を短くするだけだけど、もう一人は——私の文体に寄せて書き直してる。癖が違うの」


 見抜かれた。

 作家の目を、甘く見ていた。


「……私が事前にいくつか直した。あんたの負担を減らすために」


「私の文章を、勝手に書き換えたの?」


 その声は、静かだった。

 怒鳴られる方がまだよかった。


「書き換えたんじゃない。高田さんの赤字が多すぎたから、私が先に——」


「それを『書き換えた』って言うのよ」


 詩織が立ち上がった。

 椅子が後ろに下がる音が、静かな図書室に響いた。


「私の文章は、私のものよ。リオさんが勝手に触っていいものじゃない」


「だって、あんたが見たらショックを受けると思って——」


「ショックを受けるかどうかは、私が決める。リオさんが決めることじゃない」


 正論だった。

 完璧な正論だった。


「……ごめんなさい」


 謝罪が口をついて出た。

 プロデューサーとして、ではなく——一人の人間として。


 詩織は黙っていた。

 怒りが去った後の顔は、疲労だけが残っていた。


「……元のファイル、見せて」


「え?」


「高田さんの赤字が全部入ってる、元のファイル。見せて」


 私は迷った。

 見せれば、彼女はもっと傷つく。

 見せなければ、もっと信頼を失う。


「……わかった」


 USBメモリから、元のファイルを開いた。

 赤字が倍増した画面。詩織の文章の八割が、取り消し線で消えている。


 詩織が画面を見つめた。

 長い、長い沈黙。


「……これが、プロの世界なんだ」


「そうよ」


「私の言葉が、こんなに……いらないって言われてるんだ」


「いらないんじゃない。形を変えろって言ってるだけよ」


「同じことよ」


 詩織がキーボードに手を置いた。

 修正を始めようとしている。


 でも——手が動かなかった。


 五秒。十秒。三十秒。


 指が、キーボードの上で固まっている。


「……動かない」


 詩織が呟いた。


「書こうとしてるのに、指が動かないの。頭では『ここを削ればいい』ってわかってるのに、指が拒否してる」


 私は彼女の手を見た。

 震えてすらいない。ただ——止まっている。

 石になったように。


「無理しなくていい。今日は——」


「リオさん」


 詩織が私を見た。

 涙は出ていない。泣ける状態を、すでに通り越している顔だった。


「私、自分の言葉を消すことに慣れてきてた。タイトルを変えた時も、プロットを変えた時も、泣いたけど書き直せた。でも今——」


 彼女は自分の手を見つめた。


「自分の文章を消すために指を動かそうとしたら、身体が止まった。これ以上削ったら、この小説が死ぬって、指が知ってる」


 炭鉱のカナリア。

 有毒ガスが満ちると、人間より先にカナリアが倒れて危険を知らせる。

 詩織の身体は——彼女の文学者としての本能は——限界を告げている。


「……今日はやめましょう」


 私は画面を閉じた。


「締め切りは?」


「私がどうにかする。高田さんには、体調不良で少し遅れるって伝える」


「……ごめんなさい」


「謝るのは私の方よ。勝手に書き換えて、ごめん」


 詩織は小さく頷いた。

 鞄を持って立ち上がる。


「帰る。……少し、一人になりたい」


「うん。ゆっくり休みなさい」


 詩織が引き戸を開けて出ていく。

 その背中を見送りながら、私は嫌な予感を振り払えなかった。


「詩織」


 呼び止めた。彼女が振り返る。


「明日、学校来てね」


 詩織は少しだけ笑った。

 力のない、でも嘘ではない笑顔。


「……うん。行くよ」


 引き戸が閉まった。


  ◆


 一人になった図書室で、私は高田に電話をかけた。


「神楽坂さん? 初校の進捗は?」


「すみません、文月が少し体調を崩していて。二日ほどいただけますか」


「うーん……厳しいですね。印刷所の締め切りが動かせないので」


「その分、私の方で可能な限り進めておきます。文月の確認が必要な箇所だけリストにして、ピンポイントで対応してもらう形で」


「……わかりました。ただ、プロローグの改稿は先にいただけますか? あそこが一番重要なので」


「プロローグは——」


 金曜までに仕上げると言った、あのプロローグ。

 実は、もう書いてある。昨夜、私が詩織の文体を模倣して。


「明日送ります」


「助かります。——あ、一つ言い忘れてました」


「何でしょう」


「先日お送りいただいたプロローグの修正案、いいですね。文月先生の文体を維持しつつ、テンポが格段に良くなってる。さすが神楽坂さん、文月先生のことをよく理解していらっしゃる」


 褒められている。

 私が書いた——詩織の振りをして書いた文章を、プロの編集者が「いい」と言っている。


 「文月先生の文体を維持しつつ」。


 つまり——高田は気づいていない。

 これが詩織の文章ではなく、私が模倣した文章だということに。


 プロの編集者すら騙せるレベルで、私は詩織の文体を模倣できている。


 その事実が——ぞっとするほど、怖かった。


「……ありがとうございます」


 電話を切った。


 パソコンの画面に、私が書いたプロローグが表示されている。

 詩織の文体。詩織の語彙。詩織の呼吸のリズム。

 でも、そこに詩織の「毒」はない。


 私には毒が書けない。

 テンプレの型を完璧になぞれても、あの「指先が無意識に袖に触れる」一文は、私には生み出せない。


 高田は気づかなかった。

 でも——読者は気づくだろうか。


 もし気づかなかったら。

 「詩織の毒がなくても売れる」と証明されてしまったら。


 私は画面を閉じた。

 暗い部屋で、しばらく動けなかった。


  ◆


 翌日。


 詩織は学校に来なかった。


 LINEを送った。


 【リオ】今日は休み?

 【リオ】体調悪い?


 既読がつかない。


 昼休み。もう一度送る。


 【リオ】返事ちょうだい。心配してる。


 既読がつかない。


 放課後。開かずの間に行った。

 誰もいない。

 詩織のパソコンが、机の上に置いたままになっている。

 昨日、持って帰るのを忘れたのだろう。


 私はパソコンを開いた。

 詩織のアカウントにログインする。パスワードは知っている。作業のために共有していた。


 なろうの管理画面を開く。

 下書き状態。


 そこに——見たことのない作品があった。


 タイトル:『無題』

 最終更新:昨夜23:47


 私は開いた。


 それは——テンプレの型を一切使わない、純粋な詩織の文章だった。


 主人公が、全てを捨てて一人で歩き出す物語。

 生徒会長も、ざまぁも、溺愛もない。

 ただ、一人の少女が、自分の言葉を取り戻すために——世界に背を向ける話。


 五千字。短い。

 でも、一文一文が、刃物のように鋭かった。

 タイトル変更の時も、プロット改修の時も、ヒロイン改造の時も——削られ続けた詩織の「毒」が、ここに全て注ぎ込まれていた。


 これが、詩織の「本当に書きたかった結末」だ。


 画面を見つめたまま、私の目から涙がこぼれた。


 美しかった。

 凄まじく美しくて、商業的には求められていない、純度100%の詩織の毒。


 私はパソコンを閉じた。

 詩織のスマホにもう一度メッセージを送った。


 【リオ】読んだ。


 それだけ打って、送信した。


 何を読んだのか、詩織にはわかるはずだ。


 返信は——来なかった。

 でも、既読はついた。


 それだけで、十分だった。

 彼女はまだ、そこにいる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ