第14話 「私の文章を、勝手に書き換えたの?」
高田からの初校が届いたのは、水曜日の夜だった。
Wordファイル。変更履歴の記録がオン。
開いた瞬間、画面が赤く染まった。
削除された箇所が、真っ赤な取り消し線で埋め尽くされている。
コメントの吹き出しが、右側の余白にびっしりと並んでいる。
私は一人で、自室のデスクでそれを見ていた。
詩織にはまだ見せていない。
スクロールする。
原文:『彼女の瞳は、深海に沈んだ宝石のように、静寂と冷たさを孕んでいた。』
修正:『彼女の目は冷たかった。』
コメント:【比喩が長いです。シンプルに。】
原文:『夕暮れがアスファルトを舐めて、影法師が血のように伸びていく。』
修正:『夕方になり、影が長く伸びていた。』
コメント:【「舐める」「血」はイメージがネガティブすぎます。もっと明るく。】
——あの一文。
詩織と初めて会った日、私が「あんたの文章には毒がある」と言った、あの一文。
それすらも、赤い線で消されていた。
交渉で勝ち取った「各話二箇所」の原文保持。
高田はその約束を守っていた。確かに、各話二箇所は残っている。
でも——それ以外の全てが、赤く塗りつぶされていた。
残ったのは骨格だけ。
テンプレの構造。キャラの台詞。プロットの動き。
詩織の「毒」——比喩、情景描写、心理の深層——は、ほとんど削られている。
これを、詩織に見せなければならない。
……まだだ。まだ見せなくていい。
私はWordファイルを複製した。
一つは高田に返す用。もう一つは——私が、事前に修正する用。
詩織の負担を減らすために。
赤字の量を減らしてから見せれば、ショックは軽くなる。
私は修正作業を始めた。
深夜一時。二時。三時。
詩織の比喩を削り、平易な表現に書き換える。
『深海に沈んだ宝石』を、『冷たい目』に。
『影法師が血のように伸びていく』を、『影が長く伸びていた』に。
バックスペースキーを押すたびに、何かが死んでいく感覚があった。
でも——不思議なことに、私の手は止まらなかった。
書き換えの速度は、時間が経つほど上がっていく。
詩織の文体を模倣することに、私は……慣れ始めていた。
四時。
修正が終わった。
完成した原稿を読み返す。
赤字の半分以上を、私が処理していた。
残りの半分——各話二箇所の「原文保持」部分と、最低限の修正——だけが、詩織に回す分だ。
これなら、彼女の負担は半分以下になる。
……はずだった。
◆
翌日の放課後。開かずの間。
「初校が来た。見て」
私は「前処理済み」のファイルを、詩織のパソコンに転送した。
赤字を半分以上消した、「軽い」バージョン。
詩織が画面を開いた。
それでも——彼女の顔から血の気が引いた。
「……赤い」
「初校だから、ある程度は仕方ないわ。でも、思ったより少ないでしょ? 高田さんも、かなり残してくれてる」
嘘だ。高田の赤字はもっと多かった。私が事前に処理した分を、彼女は知らない。
詩織がスクロールする。
一ページ目。二ページ目。三ページ目。
顔色が、ページをめくるごとに悪くなっていく。
「……『深海に沈んだ宝石』が消えてる」
「それは——高田さんが、比喩が長いって」
「『影法師が血のように伸びていく』も」
「コンプライアンス的に——」
「リオさん」
詩織が、画面から目を離して私を見た。
「この修正、高田さんだけじゃないよね」
心臓が跳ねた。
「……何のこと?」
「文章の直し方。高田さんの修正と、もう一人の修正が混ざってる。高田さんは文章を短くするだけだけど、もう一人は——私の文体に寄せて書き直してる。癖が違うの」
見抜かれた。
作家の目を、甘く見ていた。
「……私が事前にいくつか直した。あんたの負担を減らすために」
「私の文章を、勝手に書き換えたの?」
その声は、静かだった。
怒鳴られる方がまだよかった。
「書き換えたんじゃない。高田さんの赤字が多すぎたから、私が先に——」
「それを『書き換えた』って言うのよ」
詩織が立ち上がった。
椅子が後ろに下がる音が、静かな図書室に響いた。
「私の文章は、私のものよ。リオさんが勝手に触っていいものじゃない」
「だって、あんたが見たらショックを受けると思って——」
「ショックを受けるかどうかは、私が決める。リオさんが決めることじゃない」
正論だった。
完璧な正論だった。
「……ごめんなさい」
謝罪が口をついて出た。
プロデューサーとして、ではなく——一人の人間として。
詩織は黙っていた。
怒りが去った後の顔は、疲労だけが残っていた。
「……元のファイル、見せて」
「え?」
「高田さんの赤字が全部入ってる、元のファイル。見せて」
私は迷った。
見せれば、彼女はもっと傷つく。
見せなければ、もっと信頼を失う。
「……わかった」
USBメモリから、元のファイルを開いた。
赤字が倍増した画面。詩織の文章の八割が、取り消し線で消えている。
詩織が画面を見つめた。
長い、長い沈黙。
「……これが、プロの世界なんだ」
「そうよ」
「私の言葉が、こんなに……いらないって言われてるんだ」
「いらないんじゃない。形を変えろって言ってるだけよ」
「同じことよ」
詩織がキーボードに手を置いた。
修正を始めようとしている。
でも——手が動かなかった。
五秒。十秒。三十秒。
指が、キーボードの上で固まっている。
「……動かない」
詩織が呟いた。
「書こうとしてるのに、指が動かないの。頭では『ここを削ればいい』ってわかってるのに、指が拒否してる」
私は彼女の手を見た。
震えてすらいない。ただ——止まっている。
石になったように。
「無理しなくていい。今日は——」
「リオさん」
詩織が私を見た。
涙は出ていない。泣ける状態を、すでに通り越している顔だった。
「私、自分の言葉を消すことに慣れてきてた。タイトルを変えた時も、プロットを変えた時も、泣いたけど書き直せた。でも今——」
彼女は自分の手を見つめた。
「自分の文章を消すために指を動かそうとしたら、身体が止まった。これ以上削ったら、この小説が死ぬって、指が知ってる」
炭鉱のカナリア。
有毒ガスが満ちると、人間より先にカナリアが倒れて危険を知らせる。
詩織の身体は——彼女の文学者としての本能は——限界を告げている。
「……今日はやめましょう」
私は画面を閉じた。
「締め切りは?」
「私がどうにかする。高田さんには、体調不良で少し遅れるって伝える」
「……ごめんなさい」
「謝るのは私の方よ。勝手に書き換えて、ごめん」
詩織は小さく頷いた。
鞄を持って立ち上がる。
「帰る。……少し、一人になりたい」
「うん。ゆっくり休みなさい」
詩織が引き戸を開けて出ていく。
その背中を見送りながら、私は嫌な予感を振り払えなかった。
「詩織」
呼び止めた。彼女が振り返る。
「明日、学校来てね」
詩織は少しだけ笑った。
力のない、でも嘘ではない笑顔。
「……うん。行くよ」
引き戸が閉まった。
◆
一人になった図書室で、私は高田に電話をかけた。
「神楽坂さん? 初校の進捗は?」
「すみません、文月が少し体調を崩していて。二日ほどいただけますか」
「うーん……厳しいですね。印刷所の締め切りが動かせないので」
「その分、私の方で可能な限り進めておきます。文月の確認が必要な箇所だけリストにして、ピンポイントで対応してもらう形で」
「……わかりました。ただ、プロローグの改稿は先にいただけますか? あそこが一番重要なので」
「プロローグは——」
金曜までに仕上げると言った、あのプロローグ。
実は、もう書いてある。昨夜、私が詩織の文体を模倣して。
「明日送ります」
「助かります。——あ、一つ言い忘れてました」
「何でしょう」
「先日お送りいただいたプロローグの修正案、いいですね。文月先生の文体を維持しつつ、テンポが格段に良くなってる。さすが神楽坂さん、文月先生のことをよく理解していらっしゃる」
褒められている。
私が書いた——詩織の振りをして書いた文章を、プロの編集者が「いい」と言っている。
「文月先生の文体を維持しつつ」。
つまり——高田は気づいていない。
これが詩織の文章ではなく、私が模倣した文章だということに。
プロの編集者すら騙せるレベルで、私は詩織の文体を模倣できている。
その事実が——ぞっとするほど、怖かった。
「……ありがとうございます」
電話を切った。
パソコンの画面に、私が書いたプロローグが表示されている。
詩織の文体。詩織の語彙。詩織の呼吸のリズム。
でも、そこに詩織の「毒」はない。
私には毒が書けない。
テンプレの型を完璧になぞれても、あの「指先が無意識に袖に触れる」一文は、私には生み出せない。
高田は気づかなかった。
でも——読者は気づくだろうか。
もし気づかなかったら。
「詩織の毒がなくても売れる」と証明されてしまったら。
私は画面を閉じた。
暗い部屋で、しばらく動けなかった。
◆
翌日。
詩織は学校に来なかった。
LINEを送った。
【リオ】今日は休み?
【リオ】体調悪い?
既読がつかない。
昼休み。もう一度送る。
【リオ】返事ちょうだい。心配してる。
既読がつかない。
放課後。開かずの間に行った。
誰もいない。
詩織のパソコンが、机の上に置いたままになっている。
昨日、持って帰るのを忘れたのだろう。
私はパソコンを開いた。
詩織のアカウントにログインする。パスワードは知っている。作業のために共有していた。
なろうの管理画面を開く。
下書き状態。
そこに——見たことのない作品があった。
タイトル:『無題』
最終更新:昨夜23:47
私は開いた。
それは——テンプレの型を一切使わない、純粋な詩織の文章だった。
主人公が、全てを捨てて一人で歩き出す物語。
生徒会長も、ざまぁも、溺愛もない。
ただ、一人の少女が、自分の言葉を取り戻すために——世界に背を向ける話。
五千字。短い。
でも、一文一文が、刃物のように鋭かった。
タイトル変更の時も、プロット改修の時も、ヒロイン改造の時も——削られ続けた詩織の「毒」が、ここに全て注ぎ込まれていた。
これが、詩織の「本当に書きたかった結末」だ。
画面を見つめたまま、私の目から涙がこぼれた。
美しかった。
凄まじく美しくて、商業的には求められていない、純度100%の詩織の毒。
私はパソコンを閉じた。
詩織のスマホにもう一度メッセージを送った。
【リオ】読んだ。
それだけ打って、送信した。
何を読んだのか、詩織にはわかるはずだ。
返信は——来なかった。
でも、既読はついた。
それだけで、十分だった。
彼女はまだ、そこにいる。




