第13話 「私、ずっと考えてた。1位を取ったら何を書くか」
7位から1位まで、二週間かかった。
その二週間を、私は数字で覚えている。
7位。書籍化発表のブーストが効いた翌日。
5位。書籍版のイラストレーターが決定し、ラフ画が公開された日。Xで拡散され、新規流入が爆増した。
3位。Web版の第20話——詩織が渾身の力で書いた、生徒会長の告白シーン——が単話PV過去最高を記録した日。
2位。一週間そこに張り付いた。1位との差は、毎朝のランキング更新のたびに縮まり、また開き、また縮まった。
そして——。
月曜日。正午。
学校の昼休み。
私はスマホを握りしめて、校舎の屋上にいた。
なろうのランキング更新時間。
画面をリロードする。
読み込み中のアイコンが回る。
三秒。五秒。
画面が切り替わった。
日間ランキング。
1位。
『図書室の地縛霊と呼ばれた陰キャな私ですが、学園一のイケメン生徒会長に弱みを握られて学園の頂点に立ってしまいました』
累計ポイント:128,400
累計PV:312,000
ブックマーク:6,200
——1位。
その二文字を見つめた。
風が吹いていた。
屋上のフェンスが、微かに揺れている。
叫ぶべきだと思った。ガッツポーズをして、泣いて、誰かに電話をかけて。
でも——身体が動かなかった。
達成感はあった。
計画通りだった。データ通りだった。
PV:0から、一ヶ月半で、1位。
私のマーケティング理論が、詩織の才能と融合して、頂点に立った。
それなのに。
胸の奥にあるのは、灼熱の歓喜ではなく——ぬるい、空洞だった。
スマホの画面に、自分の顔が反射している。
目の下に隈がある。頬が少し痩せた。
私は詩織にメッセージを送った。
【リオ】1位。取ったわよ。
【リオ】日間、週間、月間。全部。
既読がつくまで、三分かかった。
返信は——。
【詩織】……そっか。
【詩織】すごいね、リオさん。
それだけだった。
最初のPV:47の時、詩織は「47人が読んでくれたの?」と震える声で言った。
初めてのブックマーク1件で、「ゼロと一は全然違う」と泣いた。
TOP100入りで電話越しに嗚咽した。
1位で——「すごいね」の二文字。
何かが、壊れている。
彼女の中で。あるいは、私たちの間で。
◆
放課後。開かずの間。
詩織は机に突っ伏して眠っていた。
徹夜の改稿作業明けだ。髪はボサボサで、制服のリボンはどこかに落としてきたらしい。
「起きなさい」
肩を揺すると、詩織がのろりと顔を上げた。
眼鏡が傾き、頬にキーボードの跡がついている。
「……んぅ……また修正? もう書けない……」
「違うわ。お祝い」
私はカバンから、通学途中のコンビニで買ったプレミアムロールケーキと、少し高いプリンを取り出した。
埃っぽい長机に並べると、何とも貧相な祝勝会に見えた。
「はい。1位記念」
詩織がぼんやりとスイーツを見た。
「……ありがとう」
プリンの蓋を開けて、一口食べた。
「甘い」
「美味しい?」
「うん。……でも、味がしない」
「賞味期限切れてないわよ」
「違う。私の舌がおかしいの」
詩織がスプーンを置いた。
「リオさん。ここが頂上なの?」
「ええ。ここより高い場所はないわ」
「……空気が薄いね」
詩織が窓の外を見た。
校庭では、サッカー部が走り回っている。吹奏楽部の音が遠く聞こえる。
世界は何も変わっていない。私たちが1位になったというのに。
「寒くて、誰もいなくて、風の音しか聞こえない」
「……」
「最初の頃は、PVが1増えただけで大騒ぎしてたのに。今は12万ポイントって言われても、数字が大きすぎて実感がないの」
詩織が私を見た。
「ねえ。1位になったら、本当に書きたい結末を書いていいって言ったよね」
心臓が止まった。
あの約束。第3話で交わした約束。
『ランキング1位を取ったら、本当に書きたい結末を書いていい』。
先延ばしにするための方便。その日は来ないと高を括っていた嘘。
——来てしまった。
「……覚えてたの?」
「忘れるわけないでしょ。あの約束があったから、ここまで来られたの」
詩織の目には、久しぶりに光があった。
疲労と空虚で曇っていた瞳に、小さな炎が灯っている。
「私、ずっと考えてた。1位を取ったら何を書くか」
「……何を、書くの?」
「リオさんの作ったテンプレを、全部壊す結末」
背筋が、冷えた。
「主人公は、生徒会長と結ばれない。ハッピーエンドにしない。主人公は最後に——自分の言葉を取り戻すために、全てを捨てて、一人で歩き出す」
「……それは」
「バッドエンドじゃないわ。私にとっては、一番誠実な結末。主人公が、誰かに依存せず、自分の足で立つ話。——それが、私が最初から書きたかった物語」
私は黙った。
マーケターとしての計算が、頭の中で高速回転する。
今のタイミングでテンプレを壊したら——読者の期待を裏切ったら——ブクマが大量に外れる。評価が暴落する。1位の座は一瞬で崩壊する。
でも。
約束した。
「……今すぐは無理よ」
「え?」
「書籍化の作業が進行中。Web版の結末を変えたら、書籍版との整合が取れなくなる。出版社との契約上、勝手に展開を変えるのはリスクがある」
事実だった。方便ではなく、本当のことだ。
でも——詩織の目から、さっき灯った炎が消えていくのが見えた。
「……また、先延ばし?」
「先延ばしじゃない。タイミングの問題よ」
「タイミング」
詩織が、静かに繰り返した。
その声には、怒りはなかった。
あるのは——諦めに似た、冷たい理解。
「わかった。……待つ」
「詩織——」
「でもリオさん。次に『タイミングじゃない』って言ったら、私は——」
彼女は言葉を切った。
何を言おうとしたのか、私にはわからなかった。
わかりたくなかった。
◆
その日の夜。
私がタブレットでランキングを確認していると、通知が鳴った。
春日井アキラが活動報告を更新。
タイトル:『1位交代と、新しい風について』
私は画面を開いた。
『本日、私の作品がランキング首位の座を明け渡しました。
新しい1位は、孤独なかたつむり 様の作品です。おめでとうございます。
若く鋭い感性が、なろうに新しい風を吹き込んだことを、心から嬉しく思います』
ここまでは予想通りだ。敗北を認める王者の美学。
しかし、続きがあった。
『一つだけ、先達としてお伝えしたいことがあります。
頂点に立つということは、すべての称賛と同時に、すべての悪意の標的になるということです。
登る時には仲間がいますが、頂上には自分しかいません。
どうぞ、王冠の重みに首を折られませんよう。
作品を愛すること。書くことを楽しむこと。
それだけは、どんな数字よりも大切なはずです。
私は1位を降りて、また一から書くことを楽しもうと思います。
それでは。 春日井アキラ』
私は画面を見つめた。
これは——。
嫌味ではない。攻撃でもない。
本気の祝福と、本気の警告だ。
『書くことを楽しむこと。それだけは、どんな数字よりも大切なはずです』
刺さった。
詩織は、書くことを楽しんでいるだろうか。
一ヶ月半前、開かずの間で一人で純文学を書いていた頃——誰にも読まれなくても、彼女は書くことを楽しんでいた。
今は?
今の彼女は、テンプレの型に従い、編集者の赤ペンに従い、ランキングの数字に追われて——。
楽しんでいるのか。
答えを、私は知っていた。
◆
翌朝。
通学の電車内で、高田から電話がかかってきた。
「おめでとうございます、神楽坂さん! 1位! 最高ですね!」
「ありがとうございます」
「で、さっそくなんですが——1位を取ったことで、初版部数を上積みできそうです」
「それは良い話ですね」
「ええ。ただ、その分だけ宣伝に力を入れたいんです。書店向けのPOPに使うキャッチコピー、あと帯のコメント。来週までにいただけますか?」
「わかりました」
「それと——プロローグの件なんですが」
私の指が、つり革を握りしめた。
「先週お渡しした改稿版、もう少しインパクトが欲しいんです。今のままだと書店で手に取った時の初速が弱い。冒頭三行で読者の脳を殴るような——」
「冒頭三行で読者の脳を殴る、ですか」
「そうそう! 神楽坂さんならわかりますよね。Webの読者と書店の読者では、クリックと手に取るでは違うんですけど、根っこは同じ。初動が全て」
わかる。痛いほどわかる。
私が詩織に最初に教えたことと、同じだ。
「期限は?」
「金曜まで。——あ、もちろんWeb版の更新も止めないでくださいね。1位を維持することが、書籍の売上に直結しますから」
「……わかりました」
電話を切った。
金曜までにプロローグ改稿。Web更新も継続。
そして詩織は——もう限界に近い。
私は電車の窓に映る自分の顔を見た。
目の下の隈。乾いた唇。
高田と、同じ目をしていないか。
——してる。たぶん。
私はスマホを開き、詩織にメッセージを送った。
【リオ】今日の放課後、プロローグの微調整やるわ。軽い修正だけだから、すぐ終わる。
【詩織】わかった。
【リオ】あと、今日は早めに帰りなさい。顔色悪いから。
【詩織】……リオさんこそ。
「軽い修正」は嘘だ。
高田が求めているのは大幅な改稿であり、金曜までに仕上げなければならない。
でも、その負担を詩織にかけるわけにはいかない。
私が夜中にやればいい。
詩織の文体を模倣して、プロローグを書き直す。
彼女が書いたように見える文章を、私が——。
……何をしているんだ、私は。
電車が駅に着いた。
ホームに降りる。
春日井の言葉が、まだ頭に残っていた。
『書くことを楽しむこと。それだけは、どんな数字よりも大切なはずです』
詩織に、書くことを楽しませてあげられているか。
答えは——ノーだ。
でも、止まれない。
1位を維持しなければ、書籍の初版部数が下がる。
初版が下がれば、重版がかからない。
重版がかからなければ、詩織の作家としてのキャリアが終わる。
数字の論理が、全てを縛っている。
その鎖を作ったのは——私だ。
校門をくぐる。
桜が散りかけていた。
花びらが風に舞って、足元に落ちていく。
綺麗だな、と思った。
数字とは関係のない、ただ綺麗なものを見て、綺麗だと思った。
それだけのことが、なぜかひどく懐かしかった。




