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第12話 「私の小説が……本になるの?」



 放課後。開かずの間。


 詩織が来るのを待つ間、私はメールを三回読み返した。


 書籍化のオファー。大手レーベルからの正式な打診。

 文面は丁寧で、具体的で、本物だ。


 初版部数。印税率。発売予定時期。改稿スケジュール。

 数字が並んでいる。私の好きな、冷たくて正確な数字が。


 ——なのに、胸の奥が重い。


 引き戸が開いた。


「リオさん、大事な話って何? 怖いこと?」


 詩織が入ってきた。制服のリボンが曲がっている。いつも通りだ。


「座って」


「……その顔、やっぱり怖い」


「怖くないわよ。いいニュースよ」


 私はタブレットを差し出した。

 メールの画面を表示して。


 詩織が読む。


 一行目。二行目。三行目——。


「……書籍化?」


「そう」


「私の小説が……本になるの?」


「そう。紙の本。全国の書店に並ぶ。ISBNコードがつく」


 詩織の目が、みるみる潤んでいった。


「嘘……嘘でしょ……」


「嘘ついてどうするのよ。大手のレーベルからの正式オファー」


「本に……私の名前が載った本が……書店に……」


 涙がこぼれた。

 またか、と思ったけれど——今回は、止める気になれなかった。


「ありがとう……リオさん、ありがとう……」


 詩織が両手で顔を覆って泣いた。

 PV:0だった一ヶ月前。誰にも読まれなかった文章。開かずの間で一人で書き続けていた日々。

 そこから——ここまで来た。


「礼を言うのは、会ってからにしなさい」


「会う?」


「来週、編集者と面会がある。——そこで、具体的な条件を詰めるの」


 詩織が涙を拭いた。


「条件って?」


「書籍化にあたって、改稿が入る可能性がある。出版社側の要望を聞いて、どこまで受け入れるかを決めなきゃいけない」


「改稿……。リオさんが一緒に来てくれるんでしょ?」


「当たり前よ。私が交渉する。あんたは黙って座ってなさい」


 詩織が、ほっとしたように笑った。


 ——私は、笑えなかった。


  ◆


 翌週。東京、表参道。


 出版社が指定したカフェ。

 ガラス張りの明るい店内。メニューの値段が、私たちの日常とは二桁違う。


 編集者の名前は、高田誠。三十代前半。

 仕立てのいいジャケット。清潔感のある短髪。柔和な笑顔。

 ——そして、眼鏡の奥で、常に何かを査定している目。


「お忙しいところありがとうございます。文月先生、神楽坂さん」


 「先生」という呼び方に、詩織が少し緊張した。


「拝読しました。率直に言って、非常に面白い作品です」


 高田がコーヒーカップを置いて、真っ直ぐ詩織を見た。


「特に文章力。なろう発の作品でここまで描写が緻密なものは珍しい。第17話の雨のシーン、あれは書籍化しても映える。素晴らしいです」


 詩織の顔がぱっと明るくなった。


 ——だが、ここからだ。


「ただ、書籍化にあたって、いくつか調整をお願いしたい部分があります」


 高田が鞄からプリントを取り出した。

 原稿の一部がコピーされ、赤ペンでマーキングされている。


「まず、文章の密度について。Web版ではこの重厚さが個性になっていますが、ライトノベルの読者層——特に中高生の男性読者——にとっては、少しハードルが高い部分があります」


 高田が赤ペンで囲んだ箇所を指差す。

 それは——詩織の比喩表現。情景描写。心理描写の深い部分。


「具体的には、こういった文学的な比喩を、もう少し平易な表現に置き換えていただきたいんです。『心象風景の陰翳』→『暗い気持ち』。『愛という名の呪詛』→『好きなのに苦しい』。そういった方向で」


 詩織の笑顔が、音を立てて凍りついた。


「……それを変えたら、この作品の……」


「より多くの人に届きます」


 高田は即答した。穏やかな声で、しかし一切の迷いなく。


「文月先生の文章力は本物です。だからこそ、その力を10万人ではなく100万人に届けたい。そのために必要な調整です」


 正論だった。

 あまりにも正しい、商業の論理。


 そして——私がこの一ヶ月間、詩織に言い続けてきたことと、同じ論理だった。


 詩織が私を見た。

 助けを求める目。


「リオさん……」


 私は一瞬、迷った。


 ここで「はい」と言えば、話はスムーズに進む。書籍化は確定し、詩織は全国デビューする。


 ここで「いいえ」と言えば、オファーが流れるリスクがある。


 けれど——私は選んだはずだ。

 詩織の毒を殺さない方法を。全面的に変えるのではない「折衷案」というやり方を。


「高田さん」


 私は口を開いた。


「提案があります」


 高田が眉を上げた。


「全面的な改修ではなく、段階的な調整ではいかがでしょうか」


「段階的、と言いますと?」


「地の文の比喩表現は、確かに一部は平易にします。『陰翳』のような読みにくい漢語は開く。それは同意します」


 詩織がびくっとした。


「ただし——各話に一箇所から二箇所、詩織……文月の原文をそのまま残す場所を設けたい。読者が『この作品は他と違う』と感じるフック。それがこの作品の市場価値の核です」


 高田が、私を見た。

 査定する目が、少しだけ鋭くなる。


「それで売れますか?」


「売れます。なろうのランキングで9位まで来た最大の要因は、テンプレの中に毒がある構造です。毒を全部抜いたら、他の書籍化作品と差別化できなくなる。——それは、営業的にもマイナスではないですか?」


 沈黙。


 高田がコーヒーを一口飲んだ。

 考えている顔だ。


「……神楽坂さん。あなた、高校生でしたよね」


「はい」


「将来、出版業界に来ませんか。向いてると思います」


「お褒めにあずかります。で、提案は?」


 高田が、小さく笑った。


「わかりました。各話二箇所まで、原文のまま残す。ただし、どの箇所を残すかは、こちらと相談の上で決めさせてください」


「合意します」


 私と高田の間で、無言の握手が交わされた。


 詩織は、会話の速さについてこられていない顔をしていた。

 でも、自分の文章が完全には殺されないことは、理解したらしい。

 膝の上で握りしめていた拳が、少しだけ緩んだ。


「あと、タイトルについてですが」


 高田が続けた。


「書籍版のタイトルは変更させていただきます。『地縛霊』は書店で手に取りにくいイメージがあるので——」


「Web版のタイトルはそのまま残してください」


 私が即答した。


「書籍版のタイトルは別途ご相談します。ただし、なろうでの連載タイトルは変えない。あれはランキングと検索流入の生命線です」


「もちろん。Web版と書籍版でタイトルが違う作品は多いですから、問題ありません」


 交渉は、一時間で終わった。


 改稿スケジュール。発売日。イラストレーターの選定。帯のコピー。

 全てが具体的に、プロフェッショナルに、そして——機械的に決まっていった。


 高田が席を立つ時、詩織に名刺を渡した。


「文月先生。いい作品にしましょう。楽しみにしています」


「は、はい……よろしくお願いします」


 高田が去った後。

 私たちは、二人だけになった。


  ◆


「……リオさん」


 詩織がぽつりと言った。

 手元のカフェラテには、一口も口をつけていない。


「高田さん、いい人だった?」


「悪くない編集者よ。プロとして言うべきことを言っていた」


「でも……」


 詩織がカップの中を覗き込んだ。


「あの人、私の文章の話をする時と、数字の話をする時で、目の温度が違った」


「……気づいてたの?」


「文章の話をする時は、丁寧な口調だけど……興味がなかった。でも数字の話——PVの伸び率とか、話題性とか——になると、目が光ってた」


 詩織が顔を上げた。


「あの人にとって、私の文章は商品なんでしょ。中身じゃなくて、売れるかどうかが全て」


「……否定はしないわ。出版社はビジネスだもの」


「うん。わかってる」


 詩織は小さく頷いた。

 そして——。


「リオさん。あの人、少しリオさんに似てた」


 心臓を、掴まれた。


「……どこが?」


「数字の話をする時の目。作品を『変数』として見てる目。……リオさんと同じだった」


「……」


「でも、一つだけ違うところがある」


「何?」


「リオさんは、私の文章を守ってくれた。全部消されそうになった時、『各話二箇所残す』って交渉してくれた。——あの人は、立場が違っても、そんなことしなかったと思う」


 詩織が、私を見つめた。


「だから……リオさんは、あの人みたいにはならないで」


 その言葉が、深く刺さった。


 あの人みたいにはならないで。

 高田のような——数字だけで作品を見る人間には、ならないで。


 でも私は。

 私はきっと、最初から、そちら側にいるのだ。


「……努力はするわ」


 それしか言えなかった。


  ◆


 その夜から、二重生活が始まった。


 Web連載の更新と、書籍化の改稿作業の同時並行。


 日中は学校。放課後は開かずの間で連載の原稿。夜は自宅で書籍版の改稿。

 詩織も私も、睡眠時間が五時間を切り始めた。


 書籍版の改稿は、想像以上に消耗する作業だった。

 高田との合意通り、各話二箇所は原文を残せる。

 でもそれ以外の部分は——詩織の比喩を削り、平易な表現に置き換え、テンポを速くする。


 詩織は黙って作業していた。

 文句は言わなかった。

 でも、キーボードを叩く音が、日に日に重くなっていくのが——わかった。


「……ねえ、リオさん」


 三日目の夜。LINEで、詩織からメッセージが来た。


 【詩織】書籍版の改稿してると、自分の文章がどんどん薄くなっていく気がする

 【詩織】Web版では残せてた毒が、書籍版では二箇所しかない

 【詩織】それ以外の場所は、全部「普通」にしなきゃいけない

 【詩織】私、何のために書いてるんだっけ?


 私はスマホを見つめた。

 返信を打つ指が、止まる。


 何のために書いているのか。

 その問いに、マーケターとしての私は答えを持っている。「売るため」「届けるため」「数字を出すため」。


 でも——それは書き手が、詩織が聞きたい答えじゃない。


 【リオ】疲れてるのよ。今日はもう寝なさい。

 【詩織】……うん

 【詩織】おやすみ、リオさん

 【リオ】おやすみ。明日の更新は私がチェックしておくから、朝は寝坊していいわよ。


 既読がついた。

 返信はなかった。


 私はスマホを置いて、パソコンの画面に向き直った。

 書籍版の改稿作業。高田が赤を入れた箇所を、一つずつ修正していく。


 詩織の代わりに、私がやっている。

 彼女の負担を減らすために。

 でも、実際にやってみると——。


 『心象風景の陰翳』を『暗い気持ち』に書き換える。

 『愛という名の呪詛』を『好きなのに苦しい』に書き換える。


 バックスペースキーを押すたびに、詩織の声が聞こえる気がした。

 あの埃っぽい図書室で、震える指でキーボードを叩いていた彼女の声。


 これは——何をしているんだ、私は。


 画面の右上に、なろうのランキングが表示されている。


  日間ランキング:7位


 書籍化発表の効果で、さらに順位が上がった。

 数字は正直だ。「書籍化決定」の四文字は、なろうにおける最強のブースト装置。


 7位。あと六つで、1位。


 でも——。


 春日井アキラの言葉が、頭の中で繰り返される。


 『文月さんの文章には、回を追うごとに痛みが増している』


 詩織のメッセージが、重なる。


 『私、何のために書いてるんだっけ?』


 そして高田の目。数字を見る時だけ光る、あの目。

 ——私と同じ目。


 パソコンの画面を閉じた。

 暗くなった部屋で、しばらく動けなかった。


 私たちはどこに向かっているのだろう。

 1位? 書籍化? アニメ化?

 その先にあるのは——何だ。


 答えが出ないまま、夜が明けた。

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