第1話 「あんたの文章は読まれてすらいない。それって、存在しないのと同じでしょ?」
重い引き戸を、私は容赦なく開け放った。
錆びたレールが悲鳴を上げる。舞い上がった埃が西日の中でキラキラと踊って、まるで売れないコンテンツの末路みたいだった。
「——誰?」
本の城壁の向こうから、不審げな声。
旧校舎三階、生徒の誰も寄り付かない「開かずの間」。
そこに、私の獲物は潜んでいた。
「邪魔するわよ、文月さん」
私は名前を呼んだ。
うず高く積まれたハードカバーの隙間から、一人の少女がこちらを覗き込む。
文月詩織。
手入れされていない黒髪。分厚い眼鏡。制服のリボンは曲がり、スカートのプリーツは死にかけている。
——商品価値ゼロの在庫処分品、と言いたいところだけど。
私は知っている。
この埃まみれの梱包材の中に、とびきりのダイヤが眠っていることを。
「あ、あなた、確か隣のクラスの——」
「神楽坂リオ。覚えなくていいわ、すぐ嫌でも覚えるから」
私は彼女の「城壁」を跨ぎ、パイプ椅子を引き寄せて座り込んだ。
ポケットからタブレットを抜き、画面を彼女の目の前に突きつける。
液晶のブルーライトが、詩織の顔を青白く染めた。
「これ、あんたの小説よね」
画面には、国内最大のWeb小説投稿サイトが映っている。
作品名:『硝子の心臓が砕ける音を聞け』
作者名:憂鬱なカタツムリ
「——っ!」
詩織の顔から血の気が引いた。
手に持っていた岩波文庫が、床に落ちて鈍い音を立てる。
「な、なんで……私が書いてるって……」
「特定? 簡単よ。図書委員会のアカウントで誤爆ツイートしたログ、消してもキャッシュに残ってたから」
「か、返して、見ないで!」
真っ赤な顔で手を伸ばしてくる詩織を、私はひらりと躱す。
「見ないでって言うけど」
私は画面の端にある数値を、人差し指でトンと叩いた。
「——誰にも、見られてないわよ?」
PV:0
「投稿から三日経過して、PVゼロ。ユニークユーザーもゼロ。つまり、この世でこの物語を知っているのは、書いたあんたと、たまたま見つけた私だけ。あんたの文章は読まれてすらいない。それって、存在しないのと同じでしょ?」
残酷な事実を突きつける。
それが、私の最初の仕事だ。
詩織は唇を噛んだ。眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。
——その奥の瞳に、怯えとは違う光が走ったのを、私は見逃さなかった。
「……数は、関係ない」
来た。予想通りの台詞。
「私は書きたいから書いてるだけ。誰かに媚びるために書いてるわけじゃない」
「出たわね、売れないクリエイターの常套句」
私は鼻で笑う。
「いい? 文月さん。どんなに崇高な魂の叫びだろうと、届かなければただのノイズよ。砂漠のど真ん中で愛を叫んで、誰が聞くの?」
「それは……」
「あんたの文章は今、読まれてすらいない。それって、存在しないのと同じでしょ?」
詩織が黙った。
図星を突かれた人間は、反論ではなく沈黙で答える。マーケティングの基本だ。
——さて、ここからがセールストーク。
「でもね」
私は声のトーンを落とした。
「素材は、悪くないのよ」
「……え?」
「この三行目。『夕暮れがアスファルトを舐めて、影法師が血のように伸びていく』」
私はタブレットをスワイプして本文を表示させ、その一行を指でなぞる。
「気持ち悪い表現。普通の高校生には絶対に書けない。あんたの文章にはね——《毒》があるのよ」
毒。
私がその言葉を使った瞬間、詩織の瞳が揺れた。
「読んだ人間の脳にこびりついて剥がれない、粘着質な毒。市販の風邪薬みたいな小説が溢れてるこのサイトで、あんたの文章だけが劇薬なの」
「……褒めてるの? 貶してるの?」
「褒めてる。史上最大級に、褒めてる」
私は身を乗り出した。
「その毒を、正しくパッケージングして、正しい流通ルートに乗せれば——何万人もの人間を中毒にできる。私はそう計算したの」
「計算……?」
「そう。私はPVが欲しい。あんたは読者が欲しい。利害は一致してるでしょ? あんたの小説は、砂漠に捨てられたダイヤモンド。私が磨いてやるから黙って従いなさい」
私は詩織の手を取った。
その指先は驚くほど冷たくて、インクの染みがついていた。
「文月詩織。あんたを私がプロデュースする」
「……プロデュースって、何をするつもり?」
「決まってるでしょ」
私はニヤリと笑った。
「このPVゼロの小説を——総合ランキング1位にするの」
◆
詩織がポカンと口を開けた。
無理もない。
このサイトの総合ランキング1位。それは書籍化、コミカライズ、アニメ化が約束された、Web作家の頂点だ。
PV0の純文学が辿り着ける場所じゃない。普通なら。
「む、無理よ。私の小説は大衆受けするようなものじゃ——」
「無理じゃない。私が計算したんだから」
根拠は?
ある。三年間、毎日投稿サイトのデータを追い続けた私の嗅覚が告げている。
この市場は今、似たり寄ったりの甘い砂糖菓子で飽和しきっている。
そこにこの《猛毒》をぶち込めば——アレルギー反応みたいな爆発が起きる。
「ただし、条件がある」
私は指を一本立てた。
「私の指示には絶対服従。タイトル、あらすじ、タグ、投稿時間、展開構成。すべて私が決める。あんたは私の設計図通りにキーボードを叩くタイプライターになりなさい」
「——そんなの、私の作品じゃなくなる!」
「PV0のまま誰にも読まれずに腐っていくのと、魂を少し削ってでも100万人に届くのと。どっちが作家として本望?」
究極の二択。
詩織の視線が揺れる。自分の原稿と、タブレットの画面——あのPV:0という残酷な数字の間を、何度も行き来する。
彼女の中で、承認欲求という怪物が、芸術家のプライドを食い破ろうとしている。
その音が、聞こえるようだった。
「……本当に、読んでもらえるの?」
その声は、小さかった。
図書室の幽霊が初めて見せた、生身の人間の声だった。
「約束する。あんたの言葉を、世界中の網膜に焼き付けてやる」
長い沈黙。
埃が舞う。西日が傾く。
——やがて、詩織は小さく頷いた。
「……わかった。やってみる」
契約成立。
私は内心でガッツポーズを決めながら、すぐにタブレットを操作した。
「じゃあ早速。まずはこのタイトルからね」
「え、これ気に入ってるんだけど……」
「論外。検索に引っかからないし、『硝子』なんて漢字、今の読者は読めないと思いなさい」
「そ、そんなバカにしないでよ……!」
「バカにしてるんじゃない。ユーザビリティの話をしてるの」
私は画面をタップし、メモアプリを開いた。
「いい? なろうで生き残るタイトルの鉄則、教えてあげる」
一、三十文字以内。
二、主人公の境遇が一目でわかること。
三、読者の欲望か劣等感を刺激すること。
「この三つを満たさないタイトルは、検索結果の海に沈んで二度と浮かんでこない。あんたの『硝子の心臓が砕ける音を聞け』は——」
私は首を横に振った。
「詩的すぎて、何の話かわからない。つまり、《存在しないのと同じ》」
さっき彼女に突きつけた言葉を、もう一度繰り返す。
詩織の目に、悔しさの色が滲んだ。
「……じゃあ、どうすればいいの」
「それを今から、一緒に考えるのよ」
私はニッと笑って、画面を詩織の方に向けた。
「制限時間は今日中。明日の十八時に、新しいタイトルとあらすじで再投稿する。なろうのゴールデンタイムは平日の十八時から二十一時、ここを外したら初速が死ぬわ」
詩織は泣きそうな顔でノートパソコンを開いた。
その指が、かすかに震えている。
——これから始まるのは、文学少女にとっての地獄だ。
そして私にとっての、最高のゲームの開幕。
「さあ、見せてみなさい」
私は足を組んで、椅子の背にもたれた。
「あんたの毒が、どれだけ世界を侵せるのかを——」
◆
その日の夜。自室のデスクに戻った私は、誰にも見せない自分だけのスプレッドシートを開いた。
シート名:【Project:カタツムリ】
そこに並ぶのは、投稿サイトの過去三年分のランキングデータ、ジャンル別PV推移、曜日・時間帯ごとの閲覧傾向——私が独自にスクレイピングして蓄積した、五万行のデータベースだ。
市場は飽和している。誰もがテンプレートの最適解を追いかけ、同じ味の砂糖菓子を量産し続けている。
けれど、データは語っている。
三年周期で、ランキングの地殻変動が起きる。飽和した甘さに読者が耐えきれなくなった瞬間、異物が一気に駆け上がる——そのタイミングが、今年だ。
異物の条件は一つ。
他の誰にも書けない、圧倒的な《個性》。
……文月詩織の文章には、それがある。
私はデータの海に目を落とし、小さく呟いた。
「——絶対に1位にする。何を犠牲にしても」
画面の光だけが、暗い部屋を照らしていた。




