第2話 聖域の調律師
秘書官のサカモトは、タカダ総理の背中を見つめながら、陶酔感に浸っていた。
サカモトの仕事は、総理が放つ言葉の「濁り」を取り除き、国民という名の巨大なフラスコへ、最も美しい色にして注ぎ込むことだ。
「サカモト君。また『攻撃』が届いているね」
タカダ総理が、机の上に置かれた厳しい追及記事を指差した。総理の顔は、怒りではなく、深い悲しみに満ちているように見えた。サカモトはすぐさま、手元の端末を操作する。
「ご安心ください、総理。これは『批判』ではありません。あなたという太陽を妬む者たちの『影』に過ぎません。国民にはそう伝えてあります」
サカモトは、総理の不祥事を「試練」と呼び、法案の強行採決を「決断の痛み」と翻訳した。彼は知っていた。人間は、裸の事実など欲していない。自分たちが信じたい「正義の物語」を、より劇的に、よりエモーショナルに演出してくれるヒーローを求めているのだ。
ある夜、サカモトは総理の私邸で、彼が鏡に向かって微笑む練習をしているのを見た。
かつては隙のあった、人間臭い表情。それが今や、一分の隙もない「不当に虐げられる聖者」の仮面へと磨き上げられていく。サカモトは背筋に震えが走るのを感じた。
「素晴らしい……。これこそが完成形だ」
サカモトにとって、民主主義のルールを破ることは、もはや罪ではなかった。むしろ、ルールを「総理という正解」に合わせて書き換えていくプロセスこそが、新しい時代の創造に思えた。
「批判する側」を「空気を乱す悪」として定義し終えたとき、国民は自発的に思考を止めた。サカモトが手を貸すまでもなく、人々はネット上で「総理をいじめるな」と叫び、事実を指摘する者を「不謹慎な攻撃者」として排除し始めたのだ。
「総理、国民は学習しました」
サカモトはうやうやしく頭を下げた。
「彼らはもう、自分で考えるという苦行を捨て、あなたの物語の中で生きる心地よさを選んだのです。今や、あなたが何をしたかなど重要ではありません。あなたが『どう見えるか』だけが、この国の唯一の真実です」
タカダ総理は、慈愛に満ちた目でサカモトを見た。その瞳の奥には、空っぽの、しかし底なしの野心が静かに揺れていた。
サカモトは確信した。
この「空気」を一度吸ってしまったら、もう二度と誰も元の世界には戻れない。
自分たちが壊しているのは制度ではない。国民の「正気」そのものなのだ。
そして彼は、次の「物語」を書き始めるために、軽やかな足取りで執務室を後にした。




