第19話:触れてはいけない温度
さっきまでの、張り詰めた沈黙。
言葉ひとつで何かが壊れそうな、息苦しさが漂う中。
それが、嘘みたいに――
突然、パッと散る。
「ただいま~!
ケーキ買って来たわよ~!」
弾んだ声が、玄関から響いた。
一瞬、全員が固まる。
続いて聞こえる、買い物袋の音。
鼻歌まじりの足音。
日常の音だった。
「……」
アリアは、反射的に視線を伏せた。
――空気が、壊れた。
良い意味でも、悪い意味でも。
階段を上がってくる足音。
そして、ノックと共に透の部屋のドアが開く。
「あらぁ~?」
明るい声。
「綺麗なお友達~!」
視線が、一直線にアリアへ向けられる。
「えっと……海外の方かしら~
エクスキューズミー、マイネームイズ……ママ!!!」
「……」
アリアは、言葉を失った。
蒼真が、口を開けたまま固まっている。
黒瀬は、眉一つ動かさない。
透だけが、顔を真っ赤にした。
「お、お母さん!!!この子日本語大丈夫だから!」
「あらぁ~そうなの?それにしても、綺麗な子ねぇ~
モデルさんかなんか?
母さん、サイン貰っとくべきか迷っちゃう」
「だから!!!
わかったから!!!
ケーキは後で取りに来るから!!!」
透は、半ば押し出すように母親を廊下へ連れて行く。
「もぉ~、照れちゃって~」
楽しそうに笑いながら、透の母親は階段を下りていった。
――ドアが閉まる。
その瞬間。
「……帰れ」
黒瀬の声は、低く、短かった。
感情の乗らない、切り捨てるような一言。
アリアは、少しだけ口角を上げる。
「はいはい。
言われなくても、帰りますよ~」
ベッドから立ち上がり、ゆっくりとドアへ向かう。
そして、振り返らずに言った。
「あ、そうだ……」
ほんの一瞬、言葉を選ぶような間。
「透。
今度、私を見かけても――無視していいから」
返事は、待たなかった。
ドアを閉め、階段を下りていく。
その背中を、誰も引き止めなかった。
――少なくとも、二階では。
*
玄関へ向かう途中。
「あらぁ~、もう帰っちゃうの?」
声をかけられ、足が止まる。
振り向くと、そこには透の母親が立っていた。
「……はい。
お邪魔しました」
「ケーキ、嫌いだった?」
一瞬、言葉に詰まる。
「……いえ。
好き……です」
「だったら!!!」
次の瞬間、手首を掴まれた。
「ちょ、」
「遠慮しないの!
ほらほら、リビング!」
有無を言わさず、引っ張られる。
抵抗する理由もなく、
アリアは、そのまま連れて行かれた。
――これが。
これが、一般的な母親というものか。
ぼんやりと、そんなことを考える。
物心つく前に、母親は出て行った。
辛うじて残っている記憶は、日本で食べた冷たいアイス。
それだけ。
意味もなく、引きずられるまま座らされる。
差し出されたケーキ。
甘い匂い。
「ふふ……
お人形さんみたい~」
「……よく、言われます」
居心地が悪い。
なのに――
暖かい。
矛盾した感覚に、眉をひそめる。
「そうだ!!!
ちょっと待って!!!」
そう言って、透の母親は引き出しを探り始めた。
持ってきたのは、一本のミサンガ。
「透にもあげたんだけどね~
余っちゃって!」
にこにこと笑いながら、続ける。
「これね、願い事が叶うおまじない」
その笑顔は、透によく似ていた。
親子だから、当たり前か。
そう思いながら見つめていると、目が合う。
「あの子……最近色々あってね
大事な人を亡くしたりして……」
少し、声が柔らぐ。
「だから、心配だったのよ。
でもね……」
ミサンガを、アリアの手首に巻きながら。
「今日.....少し、安心した」
「……」
「嫌だったら、外していいからね?」
そう言って、にこっと笑う。
「これからも、透と仲良くしてちょうだいね」
その瞬間。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
仲良くなんか.......お互い、出来ないのに。
(……何、この気持ち)
――私たち組織は、
必要とあらば、透の家族もマークしていた。
作戦が失敗した場合――
この人を……
そこまで考えたところで。
ガチャ、と音がした。
「透ママ~!
ケーキ!!!」
入ってきたのは、桐生蒼真だった。
アリアは、はっとして立ち上がる。
蒼真も、アリアに気づき、一瞬だけ目を見開く。
「お前っ……」
だが、透の母親の存在に言葉を飲み込んだ。
「あら~蒼真君!!!
透に取りに来させれば良かったのに~」
「あ、あぁ~……
透、今ちょっと説教されてて……」
「まぁ!!!
あの子ったら!!!
また黒瀬君を怒らせたの!?」
困った子ねぇ、と笑いながら、
お盆に人数分のケーキを乗せる。
蒼真は、にこやかに言った。
「透ママ~
ケーキ、上に持って行ってて~」
視線だけで、着いて来いと訴える。
アリアは、はぁ……と小さくため息をつき、
ゆっくり歩き出した。
玄関を出て、家の前。
蒼真が、くるりと振り返る。
「お前さ……
どういうつもり?」
どういうつもりも、何も。
アリアは、答えなかった。
ただ一度、手首のミサンガに視線を落とす。
小さく、息を吐いた。
――実に、厄介な感情だ。
今、私で良かった。
これがもし、小さなアリィだったら。
きっと、もっと面倒なことになっていた。
母親という存在は、
アリアにとって――
暖かくて。
そして、決して手に入らないものだから。




