第9話:甘いはずのフォンダンショコラ
玄関の鍵を閉める音が、いつもよりやけに大きく響いた。
「ただいまー」
返事を待たずに靴を脱ぎ、リビングへ向かう。
キッチンから、カレーの匂いがした。
「おかえり、透〜。今日はね〜
お父さん居ないから、甘口カレーよ〜」
母はコンロの前に立ったまま、ちらりとこちらを見る。
「やった〜! あ、てかさ〜」
制服のまま、透は冷蔵庫から麦茶を取り出した。
「今朝の卵焼きさ、少し……しょっぱかったんだけど。塩、入れた〜?」
「え?」
母の手が止まる。
「バレたか〜。お母さん、朝寝惚けてて、砂糖とお塩、間違えちゃった〜」
一瞬の沈黙。
「ど……どの位、塩入れた?」
これは何の確認だろう、と自分に言い訳しながら、母の言葉を待つ。
大丈夫。これは、安心するため。
しょっぱかったのは、少しだけ。
そう、私の気のせいだと思いたいから。
母は、きっと「少しだけよ〜」って言ってくれる。
「ん? ん〜……」
母は首を傾げてから、軽く笑った。
「お母さんも、あの後卵焼き食べたんだけどね〜。
喉の奥、じんって痺れちゃって。やっぱり大さじ3は多かったわ」
舌を出して、冗談みたいに。
「……透は酸っぱいの苦手だったけど、大丈夫だった?
でもね〜疲れてると酸っぱいのが美味しく感じるのよ〜」
「そう?」
「透、最近疲れてるんじゃない?お母さんは何でもお見通しよ?」
笑ってごまかすように言われて、透も笑った。
「かもね〜」
自分の味覚を疑うより、そういう話にしておいた方が楽だった。
部屋に戻り、制服を脱いで着替える。
鏡の前で、一瞬立ち止まる。
――別に、変わってない。
顔色も、声も、ちゃんと自分だ。
ただ、味だけ。
卵焼きの大さじ3が、どのくらい多すぎるのかは分からないけれど、
透はそれを考えるのをやめて、気分を切り替えた。
「お母さん〜、ちょっと出掛けてくる!」
バッグを肩にかけ、玄関へ向かう。
「これから黒瀬のお見舞い行くから、帰り少し遅くなる!」
「え、黒瀬君、目が覚めたの?」
「うん! さっき連絡あって、意識戻ったって!」
「そう……良かったわね。気をつけて行きなさい」
「はーい! 行ってきまーす」
ドアを閉めた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
良かった。
――本当に、それだけ?
待ち合わせ場所には、もう蒼真がいた。
「よっ」
「早いね」
「透が遅いだけ」
「ひど」
軽口を叩き合いながら歩き出す。
「あ、でもその前にさ」
透が足を止めた。
「お花、買っていかないと」
「病院用?」
「うん……でも」
花屋の前で立ち止まり、値札を見る。
「お小遣い今月少なかったから、小さいのでいいよね」
「じゃあ俺がケーキでも選ぶか〜」
蒼真は、すでに向かいの洋菓子店を見ていた。
「怪我人に病院食以外って、いいの?」
「これは俺用〜」
ニヤリと笑う。
「俺を心配させた罰。
透も選べ。目の前で見せびらかして食おうぜ」
「最低……」
呆れながらも、透はショーケースを覗いた。
チョコレート。
フォンダンショコラ。
――甘い、はず。
「これにする」
「渋いとこ行くな」
小さな花束と、ケーキの箱。
それを抱えて、病院へ向かう。
ナースステーションの前で、透は一瞬、足を止めた。
――いる。
以前、誤解の目を向けてきた看護師。
視線が合う。
看護師の唇が、かすかに動いた。
「あ……」
でも、それだけだった。
名前を書くと、何も言われず通された。
あの後、何か言われたのだろうか。
それとも、ただ面倒だっただけか。
病室の前。
ドアノブに手をかけた瞬間、心臓がうるさくなる。
どんな顔で会えばいい?
裏切ったって、本当?
怪我してまで、なんで助けようとしたの?
代償のことは、知らなかったの?
私が決めたこと、否定しない?
――また、前みたいに笑える?
ぐるぐると、感情が渦を巻く。
深呼吸する間もなく。
ドアが、勢いよく開いた。
「ブハッ!!!」
爆笑。
「なんだよその顔!!
ダハハハハ!! い、イケメンが!! もっとイケメンに!!」
「ちょっ……蒼真!!」
透の横から、蒼真が顔を突っ込んでいた。
「よっ、久しぶり! 生きてるか?」
「お前……」
ベッドの上で、黒瀬が呆れたように笑っていた。
顔は腫れ、身体は包帯だらけ。
点滴も繋がっている。
それでも、目はちゃんと、いつもの黒瀬だった。
「……良かった」
その一言が、思ったより震えた。
「透」
名前を呼ばれて、視線が合う。
何を言えばいいか、分からなかった。
でも。
「その花、俺に?」
「……うん」
「ありがと」
それだけで、胸の奥が少しだけ軽くなった。
全部は、まだ聞けない。
全部は、まだ分からない。
でも。
ここにいる。
生きている。
――それだけで、今日はいい。
透は、そっとケーキの箱を置いた。
甘いはずの匂いが、少しだけ遠く感じたことには、
まだ、気づかないふりをした。




