第5話:普通という檻
病室の扉が、静かに閉じられた。
廊下の空気は、ひどく澄んでいる。
消毒液の匂いも、足音の反響も、さっきまでいた場所が現実だったことを淡々と証明していた。
透は、何も言わずに歩いた。
隣を進む男――黒瀬和久の秘書も、同じく無言だった。
エレベーターに乗り込む。
上昇を告げる軽い振動。
沈黙が、苦しくはなかった。
ただ、隙がない。
目的地に着くと、用意されていた車の後部座席へと促される。
ドアが閉まり、外の音が遮断された。
秘書は、膝の上に置いていた封筒から一台のスマートフォンを取り出した。
「こちらをお持ちください」
透は、一瞬だけ戸惑ってから受け取る。
見慣れない端末。新品の、何の癖もない黒。
「番号は変えておりません。今後はこちらをお使いください。
今までの端末は……使用できないかと」
穏やかな声だった。
断定しない言い回しが、かえって選択肢を奪う。
「学校には、これまで通りお通いくださって結構です。
透様が望まれた“普通の生活”が送られるよう、こちらも尽力いたします」
普通。
その言葉が、胸の奥で小さく反響した。
「それと、お一つだけ」
秘書は、透をまっすぐに見た。
「この端末には、私の番号が登録されております」
何かございましたら、ご遠慮なくご連絡ください」
それは、善意の形をした鎖のように聞こえた。
その鎖は、私が決めた結果
「……ありがとうございます」
そう答えてしまう自分に、透は小さく驚く。
拒む理由が見つからなかった。
車は、静かに走り出した。
⸻
家の玄関を開けると、いつもと同じ家の匂いがした。
夕飯の残り香と、洗剤の匂い。変わらない匂いに胸がホッと安堵する。
「お帰り、透」
明るい声。
台所から顔を出した母は、いつも通りだった。
「遅かったわねぇ。コンビニ行くって言って、全然帰って来ないから母さん心配しちゃったわ
あら? でも……おかしいわね……」
母は首を傾げる。
「透がコンビニ行ったのって……
ちょっとここ何日か記憶が曖昧なの。
困ったわぁ、更年期かしら。父さんも出張中だし……」
笑いながら言う。
本当に、何も疑っていない。
透の胸が、きゅっと締まった。
「うん、ただいま、お母さん……
コンビニ、欲しいの売り切れてた」
「あら、そうなの?
それなら仕方ないわね」
透は、一歩前に出て、母を抱きしめた。
「……あら?
なぁに、この子ったら。久しぶりに甘えたさんね?」
母の手が、透の背中をぽんぽんと叩く。
その温もりに、張り詰めていた何かが、ゆっくりとほどけていく。
「うん……
私……少し、無理しちゃってたかも」
「そうなの?
勉強も、ほどほどにしなさいね」
「うん。
ちょっと疲れちゃったから、先に寝るね」
階段を上りながら、透は振り返らなかった。
⸻
自分の部屋に入った瞬間、扉を閉める音がやけに大きく響いた。
透は、その場に立ち尽くす。
そして、ぐっと唇を噛み締めた。
理由の分からない恐怖。
説明のつかない不安。
失われたものの重さ。
それらすべてが、
誰のためのものかも分からない「特別」という言葉にまとめられて、胸を圧迫する。
望んだわけでもない。
欲しかったわけでもない。
それでも、与えられてしまった。選んだのは自分。
透は、机の上に置かれた新しいスマートフォンを見つめた。
画面は暗い。
けれど――
そこに触れれば、もう戻れない気がした。
ベッドに腰を下ろし、深く息を吸う。
吐く。
涙は出なかった。
それが、なぜか一番怖かった。
透は、灯りを消した。
闇の中で、
「特別」という言葉だけが、いつまでも消えずに残っていた。




