第3話:条件の外側
特別応接室の扉が、背後で静かに閉まった。
廊下に出た瞬間、張り詰めていた空気が一気に抜ける。
だが、肩の力は戻らなかった。
透は、手に残った一枚の紙を見る。
条件。
署名。
印。
それを、破らず、丸めず――
ただ、静かに二つに折った。
丁寧に、折り目を揃えて。
そして、鞄にしまう。
透は、何も言わずに歩き出す。
交渉は終わった。
条件も、取引も、約束も。
それでも――
胸の奥に残ったのは、勝利感でも安堵でもない。
ただ、重さだけだった。
エリスの視線。
黒瀬和久の沈黙。
アリアの父の、あの笑い。
全部を背負ったまま、透は建物を出る。
行き先は、最初から決まっていた。
ーーー
ーー
ー
何度か来た事のある病院の廊下は、夜でもやけに明るかった。
照明の白さが、現実感だけを強調する。
透は、受付で止められた。
「……申し訳ありません。こちらの患者様は現在、絶対安静で面会謝絶です」
ナースステーションにいた若い看護師が、事務的に言う。
視線が、透の服装から顔へ、そしてまた名簿へと往復した。
「黒瀬功一様のお知り合い、ですか?」
「……はい」
短く答えると、看護師はわずかに眉を寄せた。
「失礼ですが、どのようなお知り合いでしょうか?」
疑うような声音。
透は気づく。
――ああ、そう見えるのか。
何度か向けられた事のある視線。
私と黒瀬の関係性を訝しげる視線に透は小さく息を吐き出す。
無理やり会おうと思って来た訳では無い。しかも面会謝絶とはそれほどの重症だったのだろう。
会えなければそれで帰るつもりだった。
ズキッと痛む胸を抑え看護師を見つめると、相変わらず値踏みする視線が透の体を見つめてくる
深夜の病院。
面会謝絶。
若い女が、理由も曖昧なまま訪ねてくる。
「最近、こういうこと多いんです。
“お見舞いに来ただけ”って言って、無理に会おうとする方」
言外に含まれた棘が、はっきりと伝わる。
「勘違いして、押し掛けてくる方が多くて此方も困ってるんですよ?」
貴方のようなと言う言葉を含んだ言葉だった。
「お顔立ちも良いし、有名なご家系ですから」
笑顔のまま、距離を詰めてくる。
「……迷惑な自称友人の方、ですよね?」
透は一瞬、言葉を失った。
否定する理由はいくらでもある。
でも、説明する気力が、どうしても湧かなかった。
「……分かりました」
透は、小さく頭を下げる。
「帰ります」
それだけ言って、踵を返す。
その背中に――
「お待ちください!!」
慌てた声が飛んだ。
振り返ると、黒瀬和久の秘書が、息を切らして立っていた。
「失礼いたしました」
低く、深く頭を下げる。
「こちらの方は、黒瀬当主より面会の許可を得ております」
看護師の表情が、はっきりと変わった。
血の気が、すっと引いていく。
「……え……?」
「先ほどの対応、大変失礼がありました」
秘書は、看護師の方へ視線を向ける。
無言の圧。
看護師は、わずかに口を開き――
すぐに、慌てて頭を下げた。
「……も、申し訳ありませんでした」
声は硬く、顔色は青い。
だが、どこか納得しきれていない色も残っている。
透は、その様子を一瞬見つめてから、静かに首を振った。
「……もう、結構です」
看護師が顔を上げる。
「心のこもらない謝罪は、必要ありません」
穏やかな声だった。
「それに、面会謝絶と知りながら来た私にも、非はありますから」
それ以上、何も言わない。
秘書が一歩前に出る。
「長くは無理ですが」
淡々と告げる。
「五分だけ、お時間をお取りします」
透は、小さく頷いた。
看護師は、何も言えず、その場に立ち尽くしていた。
⸻
病室の前で、秘書は一礼する。
「……功一様は、鎮静剤で眠っておられます」
「はい」
「声をかけても、反応はないと思います」
「……それで構いません」
秘書は一瞬、迷うような表情を浮かべたが、何も言わなかった。
静かに扉が閉まる。
透は、一人になった。
⸻
ベッド脇まで歩いて、足が止まる。
カーテンの向こうに、黒瀬がいる。
それが、分かっているのに――
手が、動かない。
――裏切られた。
そう、聞かされた。
けれど。
何もなく、黒瀬が私を差し出すとは思えなかった。
黒瀬が―――。
私の名前を呼んで、必死に手を伸ばした人が。
守ると言って、実際に身体を張った人が。
きっと、理由はある。
私には知らされていないだけで。
それでも――
現実は、変わらなかった。
事故に遭ったことも。
必死に助けようとしたことも。
全部、私は知っている。
矛盾が、胸の奥で絡まり合う。
透は、そっと息を吐いた。
そして、決める。
――聞く。
逃げない。
ゆっくりと、カーテンを開けた。
⸻
白いシーツ。
包帯。
点滴の音。
黒瀬功一は、静かに眠っていた。
その顔を見た瞬間、
透の中で張り詰めていたものが、音を立てて崩れた。
生きてる。
それだけで、胸が苦しい。
椅子に腰掛ける。
言葉は、まだ出てこない。
透は、しばらく黙ったまま、
眠る黒瀬を見つめ続けた。
そして――
ようやく、唇が動く。
「……なぜ」
それが、透が聞きたい全てだった。




