第2話:揺り籠の中で選ぶ
思い出すのは交渉前のあの空間―――。
——冷たい。
最初に感じたのは、背中に伝わる振動だった。
一定の揺れ。
低く唸るエンジン音。
……車。
そう認識した瞬間、記憶が一気に押し寄せる。
アリアの声。
涙。
そして——甘い匂い。
瞼は、重い。
けれど、耳だけははっきりと働いていた。
「勝手に能力を使うなと、何度言えば分かるんですか」
冷えた声。
エリスだ。
「もう使っちゃったんだもん!!!
しょうがないでしょ!!!」
「しょうがなくありません」
即答。
感情を挟まない、刃物のような声音。
「……貴女、自分の代償が何か、分かっていますよね?」
一瞬の沈黙。
「分かってるよ!!!
分かってるけど!!!」
必死な声。
「透は!!!
アリィたちと来た方が、絶対いいんだから!!!」
「それを決めるのは、透さんです」
「じゃあ!!!
透が本当に来なかったら、どうするの!?」
——そこで。
エリスが、静かに笑った。
「ふふ……」
空気が、変わる。
「来るも来ないも自由、とは言いましたが」
声が、低く落ちる。
「——そうなると、本気で思いますか?」
その言葉が、胸の奥に沈んだ瞬間。
私は、目を開けた。
*
天井が、近い。
黒い内装。
窓の外は、流れる夜景。
「……起きましたか」
すぐ横。
エリスが、こちらを見ていた。
いつもの、完璧な微笑みで。
「……ここは」
「車内です。
ご安心を、危害は加えていません」
“今は”、と言わなかったのが、逆に怖い。
身体を起こそうとして、少しだけ頭が揺れた。
「……アリアは」
「後部座席です。
眠っていますよ」
少しだけ、エリスは視線を伏せた。
「……能力を使った件については、申し訳ありません」
淡々とした声。
感情の揺れは、そこにはない。
「アリアには、叱っておきました。
——本来、あなたの意思を歪める行為は、許されるものではありません」
そう言ってから、ほんの一瞬だけ間を置く。
「とはいえ」
視線が、再びこちらを捉えた。
「結果として、あなたをここへ連れてきたのも事実です」
謝罪とも、宣告ともつかない言葉。
「……どう受け取るかは、透さんにお任せします」
そう言って、エリスは一拍置いた。
「さて」
その一言で、空気が締まる。
「改めて、確認させてください」
視線が、真っ直ぐ私を射抜く。
「確かに言いました。
帰るも、私たちと来るも——透さん、あなたの自由だと」
私は、何も言わない。
「ですが」
エリスは、ゆっくりと言葉を続けた。
「本当に、それでいいのですか?」
胸が、わずかに軋む。
「このまま、幼馴染の元へ帰って」
——一拍。
「……以前と同じ生活を、送れると?」
喉が、詰まる。
「失礼」
わざとらしく、微笑む。
「“以前と同じ”というのは、不適切でしたね」
エリスは、淡々と続ける。
「両親は?」
「……」
「黒瀬功一は?」
「……」
「桐生蒼真は?」
名前を並べられるたび、何かが削られていく。
「謝ります」
エリスは、少しだけ声の調子を落とした。
「確かに私たち組織は、強引です。
人の命も、簡単に奪います」
——“奪える”ではない。
“奪います”。
「だからこそ、言います」
視線が、逸れない。
「このまま戻って、本当に大丈夫ですか?」
息が、浅くなる。
「私たちだけだと、思いますか?」
エリスは、静かに首を傾げた。
「透さん。
世界は、あなたが思っているより、ずっと広い」
——逃げ場は、ない。
「……両親の、安全は」
「さぁ?」
一切の含みなく、返される。
「……黒瀬や、蒼真は……」
「黒瀬功一には、今後手は出せないでしょう」
そこで、エリスはにこりと笑った。
「今回の件で、上からかなり絞られましたから」
軽い口調。
だからこそ、重い。
「黒瀬功一の存在は、正直——想定外でした」
一拍。
「……ですが」
エリスは、ゆっくりと言った。
「ここまで言えば、分かりますよね?」
私は、俯いた。
頭が、追いつかない。
理解は、できる。
納得は、できない。
「……少し、混乱してます」
声が、掠れる。
「少し……考えたい」
「えぇ」
即答だった。
「どうぞ。
いくらでも、悩み、お考えください」
エリスは、それ以上何も言わない。
ただ、隣で微笑んでいる。
——数分。
——数十分。
車は、走り続ける。
私は、大きく息を吐いた。
はぁ——、と。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
エリスと、視線が合った。
「……わかりました」
その瞬間。
エリスの笑みが、ほんの僅かに深くなる。
「どうしますか?」
私は、逃げなかった。
「あなた達の組織と」
一度、言葉を区切る。
「……黒瀬一族のトップに、会います」
車内が、静まり返る。
エリスは、満足そうに頷いた。
「——賢明な判断です」
その言葉が、
もう戻れない場所へ踏み込んだ証のように、胸に残った。
窓の外で、夜が流れていく。
私はもう、
“普通”には、戻れない。
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