第76話:知らないままでいられなくなった
知りたい、と言ったのは私だ。
隠されるよりも。
知らないままでいるよりも。
――そう思った。
なのに。
「いいことを、教えてあげます」
エリスは、そう前置きしてから、にこりと笑った。
柔らかくて。
丁寧で。
親切そうな声音。
そのどれもが、今はひどく怖い。
「“血の代償”って言えば、分かりますか?」
「……血の、代償?」
言葉をなぞるみたいに、繰り返す。
意味は、まだ形にならない。
エリスは、わざと少し間を置いた。
急がない。
逃がさない。
「透さん」
ゆっくりと、もったいぶるように。
「黒瀬に、どのくらい血を提供しましたか?」
「……何の、こと?」
数なんて、覚えているはずがない。
一回や二回じゃなかったのは、分かる。
病院帰りに寄ったカフェの店員さんが、
顔を覚えてしまうくらいには。
「そうですね……」
エリスは、指先を顎に添えて、考えるふりをする。
「今、身体に何か違和感はありませんか?」
「違和感……?」
「例えば――」
淡々と、列挙される。
「手足の痺れ」
「耳の聞こえ方」
「頭痛、吐き気」
「身体の痛み……痛覚はありますか?」
「視力が落ちた、とか」
ひとつ、ひとつ。
心臓の奥に、冷たい指を差し込まれるみたいだった。
「……そんなの、あるわけ……」
ない。
ないはずだ。
私は、ちゃんと歩いている。
見えている。
聞こえている。
普通だ。
私は――普通だ。
そう思った私に、エリスは綺麗な笑みを向けた。
「貴女の代償って、どんなものなんでしょうね」
軽やかに。
「ぜひ、知りたいです」
その瞬間。
頭の奥を、鈍器で殴られたみたいな衝撃が走った。
代償。
血の、代償。
「……今、言った中に……」
声に出した瞬間、胃がひっくり返る。
吐き気が、込み上げた。
「大丈夫ですか?」
エリスは、心配そうに首を傾げる。
「透さん。どれくらい血を提供したかは分かりませんけど……」
声が、やさしい。
「いい子の貴女なら、許すんでしょう?」
胸が、ぎゅっと縮む。
「代償を伴う血の提供をして」
「それで、助かる命があるなら」
――やめて。
「人助けが大好きな貴女なら」
「喜んで、差し出すでしょう?」
違う。
違う。
私は、そんな――。
言い返そうとして。
その前に、思い出してしまった。
⸻
『一度、ちゃんと診てもらおう』
『念のためだ』
『余計なことは考えなくていい』
『黒瀬が言うなら、それがいい』
⸻
何気ない一言。
疑う理由なんて、どこにもなかった。
――病院に、血を提供していた。
それは、黒瀬に言われたからだ。
「一度診てもらおう」
そう言われただけだった。
必要だとも、
誰かを助けるためだとも、
一度も、言われていない。
検査だと思っていた。
それだけだと、信じていた。
黒瀬は――
代償のことなんて、一言も言わなかった。
知らなかったから?
知っていたら、言ってくれた……よね?
私は、黒瀬を大切な幼馴染だと思ってる。
きっと、黒瀬も同じだと、信じたい。
でも。
それでも。
血の提供をさせたのは――
確かに、黒瀬だった。
胸の奥が、じわりと痛む。
「……黒瀬は」
声が、掠れた。
「黒瀬は……知ってたんですか?」
エリスの視線が、すっと細まる。
「黒瀬?」
一拍。
「あぁ……あの幼馴染の、黒瀬の御曹司」
思い出すように、首を傾げる。
「……さぁ……?」
あまりにも軽い。
「そこまでは、私にも分かりかねますね」
心臓が、どくんと跳ねた。
「知っていたかもしれませんし」
――やめて。
「知らなかったかもしれません」
どちらも、聞きたくない。
でも、エリスは一歩、距離を詰める。
「ただ……」
囁くように。
「貴女が血を提供していた“先”は」
耳元で。
「貴女の大好きな幼馴染の病院、ですよ?」
息が、止まる。
「果たして彼が」
逃げ場を塞ぐ視線。
「何も知らなかった……」
「――なんてこと、あるんですかね?」
その瞬間。
胸の奥で、
何かが、音を立てて崩れた。
私は、まだ答えを知らない。
でも。
知らないままでいられなくなった。
それだけで、
世界はもう、元には戻らなかった。




