第70話:時間だけが、ここに置き去りにされている
廊下には、音はなかった。
黒瀬は、自分が歩いているのかどうかも分からないまま、そこに立っていた。
見覚えのある廊下。
何度も、何度も通った——はずの場所。
そして——
突き当たりにある、一枚の扉。
本来なら、二度と開くはずのない部屋。
鍵は、ずっと掛けられたままだった。
誰も入らない。
誰も触れない。
なのに。
黒瀬は、ノックもせず、当たり前のように手を伸ばした。
扉は、音もなく開いた。
⸻
弟の部屋だった。
空気が、変わらない。
埃ひとつない室内。
小さなベッド。
棚に並んだ玩具。
壁に貼られた、少し歪んだ動物のシール。
——時間だけが、ここに置き去りにされている。
ここだけが、過去のまま保存されていた。
研究施設ではない。
無機質な白い部屋でもない。
黒瀬の家にある、
弟が、確かに生きていたという証拠。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
⸻
「……兄ちゃん?」
声がした。
高くて、柔らかい声。
ベッドの上に、幼い弟が座っていた。
顔色はいい。
痩せてもいない。
いつも通りの、無邪気な笑顔。
「今日も来てくれたの?」
嬉しそうに、ぱっと表情が明るくなる。
「今日は何したの?」
一拍置いて、くすっと笑う。
「あ〜その顔。
またお友達の透ちゃんに怒られたでしょ?」
黒瀬は、言葉を失った。
喉が、ひくりと鳴る。
——元気そうだ。
それが、何よりも残酷だった。
⸻
弟は、ベッドから降りようとするが、途中でふらつく。
「あ、ごめんごめん」
自分で自分を誤魔化すように笑う。
「ちょっと、疲れちゃって」
身体が弱かった。
外で遊ぶことなんて、できなかった。
弟の世界は、
この部屋と、研究施設と、
月に一度の“兄との時間”だけ。
それでも。
弟は、いつも楽しそうだった。
⸻
「兄ちゃん!」
黒瀬の服の裾を、きゅっと掴む。
その力は弱くて、軽い。
「僕ね、大きくなったら」
きらきらした目で、言う。
「兄ちゃんと同じ学校、行くんだ!」
黒瀬の胸が、締め付けられる。
「ボール遊びもするし、
勉強も、頑張るんだ!」
息が、浅くなる。
「だからね」
弟は、誇らしげに言った。
「だからね、治療、頑張るんだ!!!」
⸻
——違う。
それは、治療なんかじゃない。
叫びそうになる。
今なら分かる。
全部、分かってしまった。
けれど。
夢の中の黒瀬は、何も言えない。
訂正できない。
否定できない。
弟は、何ひとつ疑っていない。
兄も、当時は疑うことすらできなかった。
——それが、罪だった。
⸻
「兄ちゃん、すごいよね」
弟は、無邪気に続ける。
「いつもお勉強忙しいのに、来てくれる」
「僕、ちゃんといい子にしてるよ」
黒瀬の指先が、震えた。
——守れなかった。
気づけなかった。
連れ出せなかった。
弟は、信じたまま死んだ。
その事実が、胸の奥で、静かに腐っていく。
⸻
弟が、ふと真剣な顔になる。
「ねぇ兄ちゃん、透ちゃんに、いつか会えるかな?」
その名前が、
刃物みたいに突き刺さる。
黒瀬の呼吸が、止まった。
答えられない。
答えが、存在しない。
⸻
弟は、にこっと笑った。
「会えたらさ」
「僕も一緒に、遊びたいな」
黒瀬の視界が、滲む。
ここは夢なのに。
涙が、落ちそうになる。
守れなかった命が、
自分が守ろうとした相手の名前を、無邪気に呼ぶ。
——地獄だ。
⸻
弟の姿が、少しずつ薄れていく。
部屋も、歪む。
「兄ちゃん」
最後に、声がした。
「ありがとう」
黒瀬は、何も言えなかった。
その感謝を、受け取る資格が、最初からなかったから。
⸻
音が、遠くで鳴り始める。
一定の間隔で刻まれる、電子音。
現実が、滲み込んでくる。
黒瀬は、まだ目を覚まさない。
だが——
この罪から、逃げることもできなかった。




