第69話:夢の始まりはいつも優しい
タイヤが、弾けた。
——そう感じた。
実際に音がしたのか、衝撃だけだったのかは分からない。
次の瞬間、ハンドルは抵抗を失い、視界が横に流れた。
ブレーキを踏む。
踏んだはずだった。
車体が滑り、何かに叩きつけられる直前、黒瀬は理解する。
(……やられた)
そこまで思考が辿り着いたところで、世界が暗転した。
目は、覚めない。
代わりに、音だけが残る。
一定の間隔で刻まれる、機械的な電子音。
遠くで、誰かが名前を呼んでいる気がした。
だが、それすらも次第に溶けていく。
——そして。
気づけば、そこはいつもの公園だった。
低い鉄棒。
砂の浮いた地面。
少し色褪せたベンチ。
幼稚園くらいの、自分。
そこに、透がいる。
陽菜がいて、蒼真がいる。
——当たり前のように。
蒼真がボールを蹴り上げ、騒いでいる。
「なぁ!次オレな!!」
「だーめ!今はお家なの!」
陽菜が腰に手を当てて言う。
「蒼真はね、犬役!」
「はぁ!?なんでだよ!」
透がくすっと笑って、陽菜を見る。
「じゃあ私がお母さんね」
「じゃあ陽菜がお父さんでしょ!」
「えー、じゃあ黒瀬が子ども!」
勝手に決められて、全員が笑った。
黒瀬は、その輪の中にいる。
何も疑わず、何も考えず、ただそこにいた。
この遊びの中で、黒瀬は知る。
——家族、というものを。
父と母がいて、子どもがいて。
怒られて、笑って、また集まる。
それが「普通」なのだと、ここで初めて知った。
同時に、自分の家が少し違うことも。
けれど、それを考えるには、まだ幼すぎた。
蒼真と一緒に走り回り、ボールを追いかける。
時間を忘れて、転んで、笑って。
気づけば、膝を擦りむいていた。
「また怪我して!」
透が駆け寄ってくる。
「あんな高いところから跳んだら、危ないって言ったでしょ!」
ペチンと額を指で弾かれ、幼い透がプリプリ怒る。
ごめんと言おうとした、その瞬間。
場所はいつの間にか変わっていた。
今度は猫を指差し母親の真似だろうか、小さな手を腰に当て見つめてくる。
「威嚇してる猫さんに触ったら、メッでしょ!!!猫さんもイヤイヤするよ!!!」
陽菜も一緒になって怒る。
「ほらぁ!!怪我してる!!!フーフーしてあげるね」
怒っているのに、声はどこか慌ただしい。
黒瀬は、その視線の熱に、少しだけ戸惑った。
家では、怪我をすれば淡々と消毒され、処置されるだけだった。
理由も感情も、そこにはなかった。
なのに。
今は、違う。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
——ああ。
この頃の自分は、よく笑っていたのか。
そんなことを、考えもしないまま。
透が、ふいに黒瀬を見上げた。
「ね、黒瀬」
柔らかい声。
「黒瀬が怪我したら、私か陽菜が直してあげるけど」
一拍置いて。
「怪我しちゃダメだよ?」
にこっと笑う。
「私も陽菜も、心配するでしょ?」
分かった?
黒瀬は、返事をしようとした。
口を開いた、その瞬間——
視界が、暗く落ちる。
音が、戻ってくる。
規則正しい電子音。
誰かの、焦った声。
黒瀬は、まだ目を覚まさない。
だが——
もう、何も知らなかった頃には戻れなかった。




