第58話:それはもう、習慣だった
病院を出たとき、空はもう夕焼けを通り過ぎていた。
昼でも夜でもない、曖昧な色。
何度も見た光景だ。
黒瀬は、隣を歩く透を一度だけ横目で見た。
歩幅は揃っている。
息も乱れていない。
顔色も、問題ない。
今日も、何事もなく終わった。
――そういうことになっている。
通りに出たところで、透の足が、ほんの一瞬だけ緩む。
視線の先。
白とピンクで埋め尽くされた、甘ったるいほど可愛らしい外観。
リボン、レース、ガラス越しに並ぶ小さなケーキ。
女性客ばかりの、あの店だった。
透は、何も言わない。
ただ、少しだけ、見ている。
黒瀬は、それを見逃さなかった。
「……いつもの所、行こう。」
透の手を取る。
いつものように、自然に。
「疲れた後は、甘いもなんだろ」
理由は、毎回同じ。
だから説明はいらない。
透は、驚いたように目を瞬かせてから、小さく笑った。
「……うん」
それだけで、十分だった。
⸻
店の中は、相変わらず居心地が悪い。
甘い匂い。
高い声。
可愛い装飾。
黒瀬みたいな男が立っていていい場所じゃない。
――それでも。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうで、店員が顔を上げる。
そして、すぐに笑った。
「……あ、いつもありがとうございます」
言い慣れた調子だった。
黒瀬の喉が、わずかに詰まる。
透は気づいていない。
ショーケースを覗き込みながら、どれにしようか迷っている。
「今日は、どれにする?」
黒瀬がそう聞くと、透は少し考えてから指をさした。
「これ」
「……あと、これも」
前と同じ。
あるいは、その前と同じ。
覚えられて当然だった。
「お飲み物は、いつも通りでよろしいですか?」
店員が黒瀬を見る。
「ああ」
珈琲。
砂糖なし。
それも、もう説明はいらない。
⸻
席に着く。
透は、ケーキを前にすると、少しだけ表情が柔らぐ。
「……おいしい」
小さな声。
それを見るたびに、黒瀬は思う。
これでいい。
これが、守るってことだ。
血のことも。
病院のことも。
父の言葉も。
全部、考えない。
甘いケーキを食べている間だけは、
透は、普通の顔をしている。
それでいい。
それだけでいい。
黒瀬は、冷めかけた珈琲を口に運ぶ。
苦い味が、舌に残った。
――この時間が、
いつから“習慣”になったのか。
考えないようにして、
今日も、考えなかった。
それが、一番正しい選択だと、
信じているから。




