第54話:優しい診察
昼下がりの校舎は、驚くほど静かだった。
黒瀬は、廊下を歩きながら、少し前を行く透の背中を見ていた。
歩き方は、いつもと同じ。
特別ふらついているわけでもない。
息も、顔色も――問題ない。
生きている。
ちゃんと、ここにいる。
それだけでいい。
それだけで、よかった。
周囲の視線が、透に向かう。
けれど以前みたいな、妙な気配はない。
あの“追われる感じ”も、
理由の分からない怪我も、
最近は、ぱたりと無くなった。
(……これでいい)
黒瀬は、そう結論づける。
余計なことは、考えない。
考える必要もない。
守られている。
それが事実だ。
「……黒瀬」
透が、ふと足を止めた。
「なに?」
振り返ると、透は少し困ったように笑っていた。
「最近さ」
「みんな、変じゃない?」
黒瀬は、答えない。
「蒼真とか」
「すごく優しいんだけど……優しすぎるっていうか」
透は、言葉を探すみたいに視線を泳がせる。
「なんか、腫れ物扱いされてる感じ」
「私、割れるガラスかなにか?」
冗談めかした口調。
でも、笑いは浅い。
「……気にしすぎだ」
黒瀬は、短く言った。
「そうかな」
透は、それ以上追及しなかった。
代わりに、ぽつりと呟く。
「澪とさ」
その名前が出た瞬間、
黒瀬の思考が、一瞬止まる。
「約束してたんだよ」
透は、空を見上げる。
「今日、誕生日だったの」
「おめでとうって言うはずだった」
笑う。
ちゃんと、笑う。
「学校帰りにさ」
「プリクラ撮ろうって言ってたんだよ」
何でもないことみたいに。
「……馬鹿だよね」
自嘲気味に、息を吐く。
「もう、無理なのに」
黒瀬は、何も言えなかった。
慰める言葉も、
正しい言葉も、
持っていなかった。
だから、話題を変える。
意図的に。
「……透」
「ん?」
黒瀬は、少し間を置いてから言った。
「一回、ちゃんと診てもらおう」
透は、目を瞬かせる。
「……病院?」
「ああ」
声は、いつも通りだった。
冷静で、落ち着いた調子。
「最近、色々あっただろ?
一応な
俺の家の病院だ、変なことはしない」
全部、事実。
でも、肝心なことは言わない。
透は、少し考えてから、頷いた。
「……そっか」
疑っていない。
「黒瀬が言うなら、大丈夫だね」
その言葉が、
胸の奥に、静かに刺さる。
「澪がいなくなってからさ」
透は、前を向いたまま続ける。
「黒瀬だけだよ
私を、普通に扱ってくれるの」
その“普通”が、
どれだけ脆いかも知らずに。
黒瀬は、歩き出す。
透の隣に、並ぶ。
これでいい。
これしかない。
透が壊れる未来だけは、
選ばなかった。
それだけだ。
――それだけで、いい。




