第53話:最初のお願い
当主は、畳に伏せたままの黒瀬をしばらく眺めていた。
急かさない。
沈黙を、慈しむように。
やがて、ふっと息を吐く。
「ねえ、功一」
名前を呼ぶ声は、驚くほど柔らかかった。
昔から知っている子を呼ぶみたいな声。
世話をしてきた存在に向ける、慣れた呼び方。
「そんなに身構えなくていいよ」
当主は、穏やかに笑う。
「言っただろう?
透は、守るって」
黒瀬の肩が、わずかに揺れた。
「だからね」
当主は、少し身を乗り出す。
距離を詰めるのに、圧はない。
ただ、近い。
「そのために――
君に、ひとつだけお願いがある」
お願い。
その言葉を、丁寧に選んだような口調。
「難しいことじゃない」
「痛いこともしない」
「怖いことも、ないよ」
そう前置きしてから、
当主は、にこりと微笑んだ。
「透の“状態”を、教えてほしいんだ」
黒瀬の指先が、ぴくりと動く。
「日常のこと」
「体調のこと」
「学校での様子」
「血のことも、もちろん」
どれも、世間話の延長みたいな並べ方。
「功一は幼馴染だろう?
一番、近くで見ている」
責めない。
疑わない。
当然の役割を渡すだけ。
「守るには、知る必要があるからね」
当主は、困ったように眉を下げる。
「知らないまま守るなんて、
そんな無責任なこと――
君、できないだろ?」
優しい。
理解者の顔。
黒瀬の逃げ道を、全部“善意”で塞ぐ。
「それから」
当主は、思い出したように付け足す。
「透は、少し特殊だ
身体も、血もね」
声は低くならない。
終始、柔らかいまま。
「定期的に、検査が必要になる」
「それだけだよ」
黒瀬の喉が、鳴る。
「もちろん、表向きは“治療”だ」
「ウチの病院なら、いくらでも理由は作れる」
にこやかに、断言する。
「嘘をついてる、なんて思わなくていい」
「守るための手続きだ」
当主は、ゆっくりと立ち上がる。
「ね?」
「簡単だろう?」
そして、最後にこう言う。
「君が、透を守りたいなら」
選択肢を与えるようで、
与えていない声。
「君が、そばにいて」
「君が、教えて」
「君が、差し出す」
笑顔のまま。
「それだけでいい」
沈黙。
黒瀬は、答えを知っていた。
ここで拒めば、
“守る”という約束そのものが崩れる。
だから――
「……分かりました」
声は低く、
でも、はっきりしていた。
当主は、満足そうに目を細める。
「ありがとう」
心から感謝しているように。
「やっぱり君は、優しい」
その言葉は、
祝福であり、鎖だった。
「じゃあ、これが――
最初の“お願い”だ」
優しい声で。
逃げ場のない、始まりを告げる。




