第52話:首輪を受け取る
畳の匂いがした。
古く、手入れの行き届いた部屋だった。
無駄な装飾はない。
静かで、清潔で――病院の待合室に似ている。
黒瀬は、そこに正座していた。
背筋は伸びている。
視線は、まっすぐ前。
だが、指先だけが、微かに震えていた。
「……来たか」
柔らかな声だった。
低くも高くもない。
怒気も、威圧もない。
ただ、人を安心させる声。
黒瀬は、その声を聞いた瞬間――
呼吸を、一つ、深く整えた。
そして。
何の前触れもなく、額を畳に叩きつけた。
鈍い音。
迷いのない動作。
深々とした――土下座。
「……お願いします」
声が、掠れていた。
「俺は……一族に、従います」
言葉を選ばない。
取り繕わない。
「研究でも、提供でも、実験でも……
命令されるなら、何でもします」
一拍。
それでも、続ける。
「靴を舐めろと言われれば舐めます
犬になれと言われたら、犬にもなります」
畳に、影が落ちる。
当主は、黒瀬の前に立っていた。
それでも、何も言わない。
沈黙。
だがそれは、拒絶ではなかった。
――“待っている”。
そう感じさせる沈黙。
黒瀬は、唇を噛んだ。
「だから……一つだけ」
声が、震えた。
でも、逃げなかった。
「透を……
透だけは、守ってください」
名前を出した瞬間。
空気が、ほんの少しだけ、変わった。
当主は、ゆっくりと腰を下ろす。
目線が、同じ高さになる。
「顔を上げなさい」
優しい声。
叱るでもなく、命じるでもない。
黒瀬は、ゆっくりと顔を上げた。
当主は――笑っていた。
穏やかで、柔らかくて、
祖父のように見える笑顔。
「功一は……優しいね」
まるで、褒めるように言う。
「自分を差し出して、
大切な子を守ろうとする」
黒瀬は、何も言えない。
「いいよ」
その一言は、あまりにも軽かった。
「守ろう。透は」
黒瀬の喉が、鳴った。
「その代わり」
当主は、にこやかなまま、続ける。
「君は、もう“個人”じゃない」
言葉は、穏やか。
でも、内容は――鋭利。
「功一、君の時間も、身体も、判断も
すべて、一族のものだ」
黒瀬の視線が、揺れる。
「もちろん、拒否はできる」
当主は、肩をすくめる。
「ただしその場合――
透の“安全”は、保証できない」
脅しではない。
事実を、淡々と告げているだけ。
当主は、少しだけ首を傾ける。
「どうする?」
優しい声。
選択肢があるように見せかけた、問い。
黒瀬は――
再び、頭を下げた。
今度は、先ほどよりも、深く。
「……お願いします」
それだけ。
もう、条件は出さない。
当主は、満足そうに微笑んだ。
「いい子だ」
その言葉は、
人に向けられたものではなかった。
「じゃあ、今日から君は――
黒瀬家の“犬”だ」
優しい声で。
祝福のように。
契約は、成立した。




