第44話:二本の水
夜。
部屋の灯りは、天井の小さな一つだけ。
影が濃く落ち、壁がやけに遠く見えた。
机の上に、ペットボトルが一本置かれている。
昼間、透から渡されたものだ。
動かしていない。
それでも――そこに“ある”という事実だけで、視線が引き寄せられた。
私は椅子に腰掛け、しばらく黙ってそれを見つめていた。
透明な水。
ラベルも、特別な印もない。
――普通。
その普通さが、ひどく怖かった。
指先で触れる。
昼間と同じ冷たさ。
思わず、手を引っ込める。
「……」
息を吸う。
浅い。
吐く。
胸の奥が、ざらついた。
頭の中で、昼の光景が勝手に再生される。
『澪、体調悪そうだからさ』
透の声。
笑顔。
何の裏もない、善意。
――混ざっている。
知っている。
分かっている。
私はキャップに手を掛けた。
きゅ、と小さな音。
それだけで、心臓が跳ねる。
開けてしまえば、
何かが決まってしまう気がした。
(……飲めば)
一口でいい。
ほんの少しでいい。
身体が楽になるわけじゃない。
傷が塞がるわけでもない。
――ただ。
迷いが、薄まる。
この選択を、
「正しい」と思える理由が、欲しかった。
でも。
透の顔が浮かぶ。
自分の血が、
誰かの運命を左右しているなんて、
そんなこと、微塵も知らない顔。
――知らないまま、差し出す。
それを、
私は“利用”しようとしている。
喉が、ひくりと鳴った。
「……っ」
キャップを開けるのをやめ、
代わりに、強く握りしめる。
手のひらが痛い。
それでも、離したら崩れる気がした。
組織の言葉が、脳裏をよぎる。
《次の接触まで、時間はあまり残っていない》
具体的な日付は、もう数えない。
数え始めたら、逃げ場がなくなる。
私は立ち上がり、流し台の前に立った。
棚の奥から、新品のペットボトルを取り出す。
未開封。
誰の手も触れていない。
蛇口をひねる。
水の音。
昼間のそれと、何も変わらない。
音も、色も。
私は新しいボトルに水を注いだ。
静かに。
溢れないように。
水の音だけが、部屋に響く。
キャップを閉める。
きちんと閉まった音。
それだけで、
少し安心した気がした。
……気がしただけだ。
机の上には、二本のペットボトルが並んでいる。
同じ形。
同じ重さ。
違うのは――
中身だけ。
私は、どちらにも手を伸ばさなかった。
選んでしまえば、
もう戻れない気がしたから。
視線が、透からもらった方に戻る。
冷たい。
透の手の温度は、
もう残っていない。
「……ごめん」
誰に向けた言葉かは、分からない。
ただ一つ、はっきりしている。
私は今、
生きるために嘘を選び、
守るために裏切ろうとしている。
どちらも本心で、
どちらも、取り返しがつかない。
月明かりに照らされて、
二本のペットボトルは、
どちらも、ただの水に見えた。
――期限は、確実に近づいていた。




