第43話:飲めない水
――澪視点
最近の自分が、どう見えているのかは分かっていた。
顔色。
歩き方。
息の浅さ。
全部、隠せていない。
それでも、透は疑わなかった。
疑う代わりに――
心配した。
「最近さ、澪、忙しそうだよね」
教室の窓際。
昼下がりの光が、透の髪を柔らかく照らしている。
「ちゃんと寝てる?」
責める声音じゃない。
探る目でもない。
ただの、気遣い。
「無理、してない?」
その一言が、一番きつかった。
「……ん」
喉が、少し痛む。
「大丈夫」
条件反射みたいに、そう答えていた。
「ちょっと体調悪いだけ。すぐ戻るから」
嘘だった。
でも、全部を嘘にしたくて、嘘を選んだ。
透は、少しだけ眉を下げた。
「そっかぁ……」
納得していない顔。
けれど、追及はしない。
それが、透だった。
鞄を探る音がして、
次に、軽い水音。
「はい」
差し出されたのは、
小さなペットボトル。
透明な水。
「これね、すっごく身体にいい水なんだよ」
笑う。
いつも通りの、何でもない笑顔。
「澪、体調悪そうだからさ。少しでも元気になればいいなって」
――その瞬間。
世界が、静かになった。
耳鳴り。
心臓の音。
全部が遠のいて、
目の前の“それ”だけが、やけに鮮明になる。
ただの水。
色も、匂いも、普通。
なのに。
(……違う)
分かってしまった。
これは、ただの水じゃない。
混ざっている。
ごく、微量。
人間には気付けないほど。
でも、私は知っている。
透の血。
奇跡と呼ばれるもの。
組織が喉から手が出るほど欲しがるもの。
死にかけた者を、引き戻すもの。
喉が、ひくりと鳴った。
手が、すぐには伸びない。
「……?」
透が、不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
何も疑っていない声。
私は、ようやく手を伸ばした。
指先が、ペットボトルに触れる。
冷たい。
思ったより、ずっと。
「……ありがとう」
声が、少しだけ掠れた。
「いいよいいよ!」
透は笑う。
「気にしないで。水だし!」
――水。
そう。
透にとっては、水。
それだけ。
なのに。
この一本で、
私の生と死が、天秤にかけられている。
渡せば、私は生き延びる。
組織に持っていけば、
私は“役目を果たした”ことになる。
でも。
(……それをしたら)
透は、何を失う?
知らないまま、削られる。
優しさの名の下に。
私は、ペットボトルを強く握った。
震えないように。
「……澪?」
透が、私の顔を覗き込む。
「ほんとに大丈夫?」
その問いに、答えられなかった。
大丈夫じゃないのは、
体調なんかじゃない。
――選択だ。
少し離れた場所で、
視線を感じた。
振り向かなくても分かる。
黒瀬。
見ている。
気付いている。
私は、ペットボトルを胸元に引き寄せた。
飲まない。
今は。
渡さない。
今は。
それだけで、
もう十分すぎるほど、罪だった。
透は何も知らずに笑っている。
「無理しないでね、澪」
その言葉が、
胸の奥に、深く刺さった。
――ごめん。
声には出さなかった。
出したら、全部壊れる気がしたから。
その日、私は初めて思った。
生きたい、なんて願いは、
誰かを犠牲にしてまで持つものじゃない。
でも。
それを選べるほど、
私は強くなかった。
ペットボトルの冷たさが、
ずっと、手のひらに残っていた。




