第42話:忠告
教室は、いつも通りだった。
透は澪の隣で笑っている。
他愛ない話、くだらない冗談。
それだけで、十分すぎるほど平和だった。
――だからこそ。
黒瀬は、声を掛けるタイミングを失い続けていた。
⸻
授業開始前の短い休み時間。
「透、今ちょっといいか」
「え? 今はダメ!!!」
即答だった。
「もうすぐ授業始まっちゃうし、次数学の小テストだよ!?
山先すっごく厳しいんだから!!!
黒瀬はいつも満点だろうけどさ〜……ぶーぶー」
透は笑いながら、自分の席へ戻っていく。
黒瀬は何も言えず、黙って引き下がった。
⸻
昼休み。
弁当を食べ終えたタイミングを見計らって、もう一度。
「透、今少しいいか」
「ん? ごめん!!!」
透は立ち上がりながら言った。
「今から職員室行かなきゃ。先生に呼ばれてるんだ」
走るように去っていく背中を、黒瀬は見送る。
――また、合わない。
⸻
次の小休憩。
「透――」
「夏川〜!」
割り込む声。
「今日当番だろ? これ、荒川と一緒に化学準備室な」
「え、今!?」
荒川もすでに箱を抱えている。
人目がある。
話せる空気じゃない。
黒瀬は、また黙るしかなかった。
⸻
放課後
帰り支度をする教室。
透は澪と並んで、楽しそうに話している。
――今しかない。
「透……今いいか」
「ん?」
振り返った透が、首を傾げる。
「なに、黒瀬〜?
今日どうしたの? なんか大事な話?」
へらり、と笑う。
「私、ちょっと怖いんだけど〜」
そのまま、澪の方を向いて。
「ごめん、澪。今日は先帰ってて〜
約束のクレープ、また今度!」
「……うん」
一瞬、何か言いたげに澪は口を開きかけて――閉じた。
「気をつけて」
それだけ言って、教室を出ていく。
⸻
屋上へ向かう途中
階段を上る間、透は無自覚に喋り続ける。
「そういえばさ〜
黒瀬とこうやって二人でいるの、久しぶりじゃない?」
振り返って、にっと笑う。
「やばいよ? 黒瀬ファンに殺される〜」
「……なんだそれ」
思わず、黒瀬は小さく息を漏らした。
「え、今笑った? 珍しっ」
透は楽しそうだ。
「黒瀬ってさ、何も言わないし悩みなさそうなのに、
実は人一倍悩んでそうだよね〜」
へへ、と笑って。
「そのうち禿げるんじゃない?
ま、その時は蒼真と澪と一緒に、声出して笑ってあげるから大丈夫!」
――無責任で、優しい。
黒瀬は、拳をぎゅっと握りしめた。
⸻
屋上
扉が閉まる音。
風が吹き抜ける。
しばらく、無言。
――それが、必要だった。
「……」
「……」
「……黒瀬?」
透が、不思議そうに首を傾げる。
「どしたの?」
黒瀬は、一度口を開き――閉じた。
もう一度、息を吸う。
「……お前さ」
低く、静かに。
「自分が何を信じて生きてるか、分かってるか?」
「え?」
透はきょとんとする。
「そんなの、決まってるよ」
指を折りながら、当たり前のように。
「黒瀬に、蒼真に、澪……
あ、あとお父さんとお母さん」
何気ない言葉。
けれど――
最初に自分の名前が出たことに、
黒瀬は奥歯を強く噛み締めた。
「……だろうな」
「ん? 今日の黒瀬、変だよ?」
透は首を傾げる。
「そうかもな」
一拍。
「……聞け」
ここで、黒瀬は決める。
もう戻れない。
「誰を信じようが、俺は何も言わない」
透が、真剣な顔になる。
「だけど、一つだけ」
視線を逸らさず、言い切る。
「誰が何を言おうと――
自分から差し出すな」
「自分を、傷つけるな」
風が吹く。
「優しさだけじゃ、
最後に傷つくのは透だ」
静かに。
「……俺の言ってる意味、分かるか?」
黒瀬の声は低く、抑えられていた。
怒りでも叱責でもない。
――祈りに近い。
透は一瞬、言葉に詰まる。
「……うん。
でも、なんとなく……でしょ?」
視線を逸らし、困ったように笑う。
「誰かに頼まれて、
無理しちゃうなって話でしょ?」
その“軽さ”に、黒瀬は一度、目を閉じた。
「違う」
即答だった。
透が、瞬きをする。
「お前はな……
“頼まれたら”じゃない」
一歩、距離を詰める。
「必要だと言われたら、差し出す」
透の指先が、わずかに震えた。
「理由を聞かずに。
相手の事情を先に想像して。
『きっと言えない理由がある』って納得して――」
黒瀬は、言葉を選ばない。
「自分の価値を、勝手に支払う」
「……」
「それが、血でも、時間でも、命でもだ」
屋上に、風の音だけが残る。
「誰かを信じるな、なんて言わない」
静かに、しかしはっきりと。
「澪を疑えとも言わない。
蒼真を切れとも言わない」
透は、唇を噛んだ。
「……じゃあ、何を――」
「選べ」
被せるように、黒瀬は言う。
「信じることと、
差し出すことを――混同するな」
透の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「信じるってのは、
相手の言葉を受け取ることだ」
「でもな」
一拍。
「差し出すってのは、
自分を削る覚悟がある時だけだ」
透は、俯いた。
「……でも」
小さな声。
「もし、大切な人に
“必要だ”って言われたら……」
黒瀬は、答えを知っている。
「その時、お前は悩む」
透の肩が、びくりと跳ねる。
「悩んで、悩んで、
それでも最後は――差し出す」
沈黙。
「だから言ってる」
黒瀬は、初めて感情を滲ませた。
「それをするな」
強くはない。
だが、逃げ場のない声。
「お前が決めろ」
「誰を信じるかじゃない」
透を、真正面から見る。
「どこまで自分を使うかを」
長い沈黙のあと。
「……黒瀬」
透は、ゆっくり顔を上げた。
「私さ……
信じてる人が傷つくくらいなら、
自分が傷つく方が、まだいい」
震えながらも、はっきり言う。
「それって……
そんなに、いけないこと?」
黒瀬は、即答しなかった。
――否定できないからだ。
「……いいや」
低く。
「だから厄介なんだ」
一歩、下がる。
「これは忠告だ」
断言だった。
「今すぐ何か起きるとは言わない。
誰かが悪いとも言わない」
「でも」
最後に。
「その選び方を続けた先で、
お前が傷ついた時」
黒瀬は、目を逸らさず言う。
「俺は、もう止めない」
「……」
「それが、お前の選んだ結果だ」
透は、何も言えなかった。
ただ――
その言葉を、心の奥に残したまま。
黒瀬は背を向ける。
(――俺は、忠告した)
それだけが、
今の自分に許された唯一の免罪符だった。




