第3話:事故
横断歩道の信号は、まだ青だった。
雨上がりのアスファルトは濡れ、街灯の光を反射して鈍く光っている。
「ほら、急がなくても――」
そう言いかけた瞬間、世界の音がひとつ、ズレた。
クラクション。
悲鳴。
ブレーキの焼ける匂い。
空気が、ひどく重い。
視界の端で、茶色い小さな影。
犬だ。
車線ギリギリを歩くその体に思わず声が出た。
「危ないっ」
声と同時に、小さな茶色い塊が目の前をスローモーションのように弾け飛ぶ。
その小さな後ろでは、陽菜の身体が更に弾け飛ぶのを、瞬きする間もなく目にする。
轢かれた衝撃で飛び散った血が、無数の水滴となって周囲に飛び散り、毛を真っ赤に染め上げていた。
犬は微動だにせず、濡れた道路にグッタリと横たわる。
――その瞬間、全身を激しい衝撃が貫いた。
地面に叩きつけられ、横向きに転がる。胸と腹が打ち付けられ、息が詰まる。頭も打ち、意識がかすかに揺れる。
少し離れた場所に、倒れた陽菜が映る。
薄れゆく視界の中で、名前が声にならない。
「……ひな」
手を伸ばしても届かない距離。体は痛みに支配され、掠れた声を漏らすのがやっとだった。
横になったまま、震える手をかろうじて伸ばすと、ベッタリと濡れる赤に絡み付く茶色い毛。
今にも途切れそうな細い息。
最後の力を振り絞ったのか、
犬は、透の手に顔を寄せた。
次の瞬間、
ざらついた舌が、裂けた皮膚をなぞる。
「っ……!!」
鋭い痛みが、手の奥まで突き抜けた。
思わず息を詰める。
血の匂いと、獣の体温。
ぬるく、生々しい感触。
痛みは、逃げ場もなく、そこにあった。
それでも——
犬の舌が触れた、その一瞬だけ、
透はなぜか、
「生きている」と感じてしまった。
次の瞬間、
犬の身体が、わずかに震えた。
立ち上がった、というより——
崩れるように、体勢を変えただけだ。
前脚が滑り、
それでも地面を掴もうとする。
息が荒く、
いつ倒れてもおかしくない。
何が起きたのか、透には分からない。
ただ、
犬は一度だけ顔を上げ、
こちらを見た。
それが、
助けを乞う目だったのか、
それとも——もう十分だという合図だったのか。
判断する間もなく、
犬は足を引きずるようにして、
雨上がりの街の闇へと消えていった。
透は、その場から視線を動かせなかった。
どこを見ているのか、自分でも分からない。
闇の奥に残った残像だけが、
目の裏に焼き付いている。
——今のは、現実だったのか。
胸が強く脈打つ。
痛みと恐怖が絡まり、呼吸が浅くなる。
頭が、うまく回らない。
だから——
透は、すぐには横を見なかった。
見てしまえば、
何かが、取り返しのつかない形で
決まってしまう気がして。
それでも。
視界が、勝手に、ずれていく。
濡れたアスファルト。
血に染まった靴先。
動かない影。
——そこに、陽菜がいる。
「…………ひ……な……」
掠れた声。
呼んだというより、
こぼれ落ちただけの音。
違う。
こんなのは、違う。
首を振ろうとして、
痛みで、できなかった。
「……ひな……っ」
今度は、
否定してほしくて呼んだ。
返事さえあれば、
叱られても、泣かれても、
それでよかった。
でも。
返ってくる音は、なかった。
かすかに揺れる、陽菜の制服。
世界が、ひどく静かになる。
「おい……っ!」
遠くで、誰かの声が割り込む。
「透っ! 大丈夫か!?」
続いて、
別の声が、重なる。
「ひな……! 陽菜っ……!!」
必死なのに、
どこか遠い。
現実の音なのに、
水の中みたいに歪んで聞こえる。
返事は、ない。
誰の声も、
陽菜には、届かない。
「透っ!!!!」
震えた叫びが、
意識の奥を強く叩いた。
次の瞬間、
サイレンの音。
赤い光。
世界が、無理やり色を取り戻す。
横たわったまま、
透はただ、息を整える。
痛みは、消えない。
恐怖も、消えない。
手を伸ばしても、
届かない距離に、陽菜がいる。
——あの日が、
確かに終わった音を、
透は、はっきりと聞いていた。




