第31話:先延ばしにされた選択
朝は、静かだった。
雲ひとつない空。
風もなく、やけに整った天気。
――最悪だ。
澪は、駅のホームでそう思った。
感情に付け入る隙を与えるには、あまりにも都合のいい朝だった。
少し離れた場所に、透が立っている。
白いワンピースに、薄いカーディガン。
手には、小さな花束。
澪は、それを見ないようにしていた。
「おはよう、澪」
「……おはよう」
透は、少し緊張したように笑った。
「来てくれて、ありがとう」
その一言で、胸の奥がきしむ。
――来ると決めたのは、自分だ。
任務だ。
そう言い聞かせる。
電車に揺られ、バスを降りる。
住宅街を抜け、少し坂を上る。
墓地は、思っていたより静かだった。
人の姿はまばらで、鳥の声だけが響いている。
「……ここ」
透は足を止めた。
整えられた墓石。
花立てには、少し色褪せた造花と、新しい花。
澪は、名前を見ないようにしていた。
見れば、何かが決定的に変わる気がして。
透は、花を供え、手を合わせる。
澪は、一歩遅れて、その隣に立った。
「……陽菜」
透の声は、小さかった。
「私ね……」
一拍。
「やっと、連れて来れた」
澪の指先が、わずかに震える。
「前に言ったでしょ。澪のこと」
透は、墓石に向けて話している。
けれど、その言葉は、澪の胸に直接落ちてくる。
「同じ名前で、最初はびっくりして……」
「でもね、すごく優しくて」
「すぐ、人のこと庇って」
「自分のこと、後回しで」
一つ一つの言葉が、
澪の胸の奥に、嫌なほど正確に刺さる。
――知っている。
その全部を。
けれど、それは
“そう見えるように作った像”だ。
任務のために。
疑われないために。
信頼を得るために。
澪は、透を観察し、
都合のいい部分だけを切り取り、
「優しい人間」という形にまとめただけだった。
誰かから聞いたわけじゃない。
澪自身が、透を見て、判断して、切り分けた情報だ。
それは、事実の集積であって、
真実ではなかった。
感情を排した視点。
任務対象としての評価。
そこに、名前はなかった。
優しさも、温度も、意味を持たなかった。
なのに今、
同じ特徴が、祈りの言葉として語られている。
――違う。
これは、データじゃない。
「一緒にいるとね、陽菜のこと思い出すのに……」
「ちゃんと、前を向けるんだ」
澪は、目を伏せた。
耐えられなくなって。
透は、少し照れたように言った。
「だから……」
「大切な友達ができたよ、って」
「紹介したかったんだ」
沈黙。
風が、木々を揺らす。
澪は、ゆっくりと手を合わせた。
――やめろ。
これは、する必要のない行為だ。
なのに。
「……はじめまして」
声が、出てしまった。
自分でも驚くほど、低く、静かな声。
「澪、です」
名前を名乗った瞬間。
胸の奥で、何かが崩れた。
――何をしている。
任務対象の過去に、挨拶をする必要はない。
澪は、目を閉じる。
その瞬間だった。
透の指先が、澪の袖に、そっと触れた。
「……澪」
振り返ると、透がこちらを見ていた。
少し、不安そうな顔。
「無理、してない?」
その問いが、致命的だった。
澪は、言葉を失う。
――している。
無理しか、していない。
透は、気づいていない。
自分が、どれだけ危うい場所に澪を連れてきたか。
澪は、視線を逸らした。
「……大丈夫」
透の口癖を、借りて。
沈黙が、落ちる。
墓地は、驚くほど静かだった。
人影はなく、風の音だけが耳に残る。
――条件は、揃っている。
人の少ない場所。
気持ちが、最も揺れる日。
警戒が、解ける瞬間。
今まで何度も、
“最適”だと判断してきた場面。
なのに。
澪は、一歩も動けなかった。
透が、墓石に向き直り、
静かに手を合わせ、祈る姿は、あまりにも無防備で。
――この人は。
この人は、信じている。
澪を。
過去ごと、受け入れた相手として。
澪は、胸元を押さえた。
心臓が、痛い。
任務は、ここで終わらせられる。
それでも――
「……澪」
透が、振り返る。
「来てくれて、本当にありがとう」
澪は、唇を噛んだ。
そして、ほんの少しだけ、首を振る。
「……まだ」
透が、きょとんとする。
「まだ……帰らないで」
その言葉が、何を意味するのか。
澪自身が、一番分かっていなかった。
墓前で。
過去の前で。
任務の直前で。
澪は、初めて――
血を採ることを、先延ばしにした。
それが、どんな代償を呼ぶのか。
この時は、まだ知らなかった。
静かな墓地に、風が吹く。
澪の胸の奥で、
何かが、決定的に壊れ始めていた。




