第29話:血を取る前夜
夜。
部屋の明かりは落としているのに、澪の目は閉じなかった。
天井の薄い染みを数えながら、何度目か分からない寝返りを打つ。
――眠れない。
理由は分かっている。
分かっているから、余計に厄介だった。
枕元に置いた端末が、微かに振動する。
通知ではない。ただ、手が伸びてしまっただけだ。
画面を点ける。
『今日は楽しかったね』
『また行こう』
数時間前に届いた、短いやり取り。
既読は付いているのに、消せない。
「……」
澪は端末を伏せた。
それでも、文字は瞼の裏に残る。
任務は、単純だ。
対象者の血液を採取する。
量は微量。
対象に危害はない。
発覚の可能性も、限りなく低い。
いつも通り。
今までと、同じ。
――そのはずだった。
澪はゆっくりと起き上がり、ベッドの縁に腰掛ける。
足元の床は、ひんやりと冷たい。
ふと、机の引き出しに視線が落ちた。
開ける。
中には、透明な袋。
その中に、半分に切られたプリクラが数枚。
笑っている顔。
少し照れたような目。
無防備な距離。
「……記念、ね」
呟いた声は、思ったより低かった。
任務期間中だけ。
そう決めていた。
情が移らないように。
判断を誤らないように。
なのに。
澪の脳裏に、気づけば積み重なっていた光景が、断片的に浮かび上がる。
それは、一日や二日では説明できないものだった。
体育館で、ボールを庇った瞬間。
調理実習で、火から守った時。
そして――
『澪!!!私に、できる事ならなんでもするから….』
あの真剣な声。
――“なんでも”。
澪は、思わず息を詰めた。
「……危ない」
小さく、誰にともなく言う。
対象者は、自己犠牲が強い。
罪悪感を刺激すれば、踏み込める。
理解している。
分かっている。
だからこそ。
今日、透が自分を見たあの目が、引っかかっていた。
疑いのない目。
助けられたことへの、まっすぐな感謝。
そして――信頼。
澪は、額に手を当てる。
「……私、何やってるんだろ」
任務に、感情は不要だ。
そう教えられてきた。
なのに、今夜は違う。
胸の奥に、微かな痛みがある。
理由のつかない、ざらついた感覚。
澪は立ち上がり、窓を開けた。
夜風が、頬を撫でる。
遠くで、車の音。
どこかの部屋から、テレビの笑い声。
――透も、今頃は眠っているのだろうか。
そう考えた瞬間、澪は唇を噛んだ。
考えるな。
余計な想像をするな。
対象者だ。
そう言い聞かせる。
それでも、指先は勝手に動いた。
透とのトーク画面を開く。
打ちかけて、消す。
また打って、消す。
結局、何も送れない。
「……眠れない」
独り言が、夜に溶ける。
ベッドに戻り、目を閉じる。
だが、意識は沈まない。
――明日。
それだけが、はっきりしていた。
血を採る。
それで終わる。
そうでなければ、いけない。
澪は、そっと胸元に手を当てた。
――なのに。
どうして、こんなにも心臓がうるさい。
暗闇の中。
時計の針の音だけが、やけに大きく響いていた。
眠れないまま、夜は静かに更けていく。




