第26話:正しくない優しさ
放課後の教室は、夕方の光に満ちていた。
オレンジ色の陽射しが、机や床を長く引き延ばしている。
「澪、今日どうする?」
透が振り返って、何でもない調子で聞いた。
「一緒に帰る?」
その言葉に、澪の胸の奥が小さく跳ねる。
――まただ。
最近、こういう瞬間が増えた。
誘われるたびに、胸のどこかが“ずれる”。
「……うん」
澪は短く頷いた。
本当は、即答する理由なんてない。
任務上も、必要性はない。
それでも、断るという選択肢が思い浮かばなかった。
⸻
帰り道。
コンビニに寄り、二人で飲み物を買う。
透は迷わずミルクティーを手に取った。
「今日さ、体育の時……」
透はストローを刺しながら言う。
「また澪が庇ってくれたでしょ。正直、ちょっと怖かった」
澪は、足を止めた。
「……怖い?」
「うん。澪が怪我するの、嫌だから」
それは、責める言い方じゃなかった。
ただ、素直な気持ちを零しただけ。
なのに。
澪の胸が、ちくりと痛んだ。
「……ごめん」
条件反射のように、そう言っていた。
透は慌てて首を振る。
「違う、謝ってほしいんじゃなくて!」
「ただ……私、誰かに守られるの、慣れてなくて」
澪は、その言葉を聞いてしまった。
“守られるのに慣れていない”
観察ファイルにあった一文が、脳裏をよぎる。
――自己評価が低く、自責傾向が強い。
知っている。
理解している。
対処法だって、把握している。
なのに。
「……透は」
澪は、ゆっくり言葉を選んだ。
「強いよ」
「え?」
「ちゃんと立ってる。ちゃんと前を見てる」
それは、任務用の言葉じゃなかった。
計算でも、誘導でもない。
本音だった。
透は少し驚いた顔をして、すぐに笑った。
「澪って、そういうとこズルい」
「……何が?」
「一番欲しい言葉を、さらっと言う」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
――これは、良くない。
そう分かっているのに、止まらない。
⸻
家に着く前、信号待ち。
沈黙が落ちる。
透は、ぽつりと呟いた。
「澪が来てからさ……」
言いかけて、止める。
「……いや、なんでもない」
本当は、続きを聞くべきだった。
観察者としては。
でも澪は、聞かなかった。
聞いてしまったら、
“記録すべき感情”が増える気がしたから。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
手を振る透を見送ってから、澪はゆっくり背を向けた。
⸻
自室。
制服も脱がず、ベッドに腰掛ける。
鞄の中には、端末。
観察ファイルを更新するための、仕事道具。
澪はそれを取り出し、電源を入れた。
今日の出来事。
会話。
表情。
感情の変化。
全部、記録できる。
――できる、はずなのに。
指が、止まる。
透の笑顔が浮かぶ。
「一緒に帰る?」と聞いた声。
ミルクティーを飲む横顔。
どれも、任務には不要な情報だった。
「……」
澪は、端末を伏せた。
そして、小さく息を吐く。
「……簡単じゃ、なかった」
誰に聞かせるでもない独白。
“簡単”だと思ったはずの任務は、
いつの間にか、胸の奥に居座っている。
知らなければ、感じなかった。
分からなければ、選ばずに済んだ。
――これは、ズレだ。
朝霧澪は、初めてそれを自覚する。
まだ、戻れる。
まだ、線は越えていない。
けれど。
戻ろうとしない自分が、
そこにいることだけは、はっきり分かっていた。




